【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

美味い鰻

2018-09-28 07:32:40 | Weblog

 私は鰻が好きです。最近は絶滅が心配なので食べないようにしていますが、それでもあの味は時々思い出します。
 ただ、鰻って本当に「美味い魚」でしたっけ? 本当にそれ自体が美味しいのなら、蒲焼きや白焼き以外の料理法(刺身、湯引き、焼、煮など)ももっと盛んにおこなわれて良いのでは?
 世間で「美味い美味い」と喜んで鰻を食べている人たちって、「鰻」を味わっています? それとも蒲焼きの美味さを? それともまさか、蒲焼きのたれの味を?

【ただいま読書中】『刀の明治維新 ──「帯刀」は武士の特権か?』尾脇秀和 著、 吉川弘文館、2018年、1800円(税別)

 「「帯刀」は武士の特権か?」とタイトルにありますが、もちろんその答えは「ノー」です。「刀狩り」「苗字帯刀が許される」「新撰組」などを思い出すだけで、武士以外が帯刀していたことは明らかですから。私が知っているだけで、江戸時代に旅をするときに町人が脇差しを差す慣習がありますし、伊勢の御師(おんし)は百姓だけど両刀を帯びていました。私たちは「帯刀」=「侍」とつい思ってしまいがちですが、江戸時代の人は、丁髷や仕草や歩き方、言葉などの違いから、武士と町人(百姓)の区別は「帯刀」とは無関係にほぼ自動的にできていたはずです。
 なんてことを思いながら本を開くと、初っ端で「旅姿」や「伊勢の御師」が登場して、私は自分の確信を強めます。
 平安時代末期の「刀」は、帯に差すものではなくて、「佩く」(刃を地面に向けてぶら下げる)ものでした。腰刀(短い直刀)は帯に差します。合戦の時にはこの両刀を装備しますが、当時の武士のシンボルは「弓」でした(だから「弓取り」が武士の尊称になります)。平時の直垂姿では太刀は太刀持ちに持たせ、武士は腰刀だけを装備していました。鎌倉時代末期頃から、合戦では集団戦が重視されるようになり、そこで「打物(=刀)」の重要性が増します。そこで登場したのが「打刀」。それまでの太刀より短く反りが浅く、佩くのではなくて腰刀のかわりに差して装備しました。戦国時代には「佩く刀」と「差す刀」が混在していました。
 戦国時代には、村人も刀を普通に所持していました(「武器」としての意味と「成人の証」の意味があったそうです)。豊臣政権の刀狩りによって村では一時刀・脇差しが姿を消します。しかし徳川政権は刀狩りをおこないませんでした。当然のように農村では刀が復活していました。
 江戸時代には「刀」は「武器」から「ファッション」になります。その例が「金銀こしらえの刀」や「棒のやうなる刀」の流行です。わざわざ刀の反りを真っ直ぐに改造したものが流行ったというのですが、これは抜きにくいし致命傷も与えにくいのではないかなあ。だから「ファッション」なのですが。この「棒のやうなる刀」は庶民も差していました。幕府は「町人は江戸市中での帯刀は禁止、ただし旅立ち・火事は例外とする」という町触を寛文八年(1668)に出しています。ついでに「(江戸の三大祭りの一つ)山王権現の祭礼に町人は帯刀で参加するべし」という町触も。逆に言えば、江戸以外では町人の帯刀は自由、ということです。しかし天和三年(1683)に「町人の帯刀は一切禁止」令が出されます。それも江戸だけではなくて諸大名にも同じ規制が課せられました。ここで「刀」は「ファッション」ではなくて「武器」として扱われています。ただし百姓はお構いなしでした。また町人たちは、「刀ではなくて脇差し」を差すことで幕府の規制に対応しました。「刀」と「脇差し」は江戸時代の人たちには「完全に別物」だったのです(私から見たら、製造法も構造も形も同じだし、サイズも脇差しの方が短いとは言っても「長脇差し」は「刀」と同じにしか見えないんですけどね)。ただ「使わない武器」を常に携行することは少しずつ嫌われ、羽織袴などとセットとなった「礼装」として特別なときだけ脇差しを差す風潮が18世紀半ばから見られるようになります。道中差しも、竹光だったり(「東海道中膝栗毛」の喜多八の脇差しがこれでした)脇差しの形をした隠し財布だったりが登場します。
 享保期に「帯刀は、武士と特別に許可された人間だけの特権」という「身分標識」が働き始めます。幕府は、百姓・町人を表彰するときにこの「特権」を活かすことにしました。現在の勲章みたいなものでしょうか。親孝行や正直に対して「帯刀」という“褒賞"です。
 山伏・医師・神職も江戸時代には慣習として帯刀していました。しかし、「帯刀」が「武士(と特別な人間)の身分標識」になるにつれ、彼らの帯刀意識も変化していきます。自分たちも「武士に準じる存在」と思うようになる人がいたのです。
 しかし、いつまで経っても「帯刀は武士の特権」となる時代になりません。常に「武士と○○」が帯刀をしているのです。特に町人が力をつけた江戸時代後期、幕府からのお役目や賄賂などで帯刀を許可された町人が増加し、江戸市中に帯刀した町人が闊歩するようになります。さらに勝手な帯刀も増え、形態としての身分制度は少しずつなし崩しになっていきます。
 武士にとって「帯刀」は「特権」というよりは「義務」でした。私用の外出でも「身分標識」を外して無腰で出たら罰せられます。盗賊を捕まえるときにも、切り捨てよりも捕縛優先です(そういう規定でした)。ただ、幕末期に治安が悪化すると、「狼藉者」に対しては切り捨てが奨励されるようになりました。幕末期に「刀」が「武器」に戻ったのです。それも「血まみれの武器」に。
 明治になり、平民の苗字自由化が布告され「苗字」は「賞」ではなくなります。ついで「帯刀」もまた「賞」から外されました。それどころか明治政府は帯刀を少しずつ制限していきます。調査をしたところあまりに平民帯刀が多かったため、一挙にではなくて徐々に制限することにしたのでしょうか。各藩(県)に布告を徹底させて、明治四年末までにまず平民帯刀を禁止します。これによって「帯刀ハ官員・華士族ノ本分」(東京日日新聞)となる……ということはここで初めて「帯刀」がある身分の「特権」となったということでしょう。
 ところが官員から「洋服に帯刀していたら不都合がある」と「脱刀願い」が続々と。さらに庶民からは、幕末期の「血まみれの武器」への反感からの「刀は凶器」という意識の高まりが(支配者への反感を「刀」に集中させただけかもしれませんが)。明治六年ころから「切り捨て御免」という不思議な言葉が流行します。江戸時代にはなかったこの言葉は「刀に対する庶民の反感」をストレートに表現したものでした。そして、明治九年「廃刀令」が出されます。これは「(江戸時代の)侍の特権」の廃止、ではなくて「明治になって変質した『帯刀』」の廃止でした。
 「帯刀」と言っても、武装だったりファッションだったり身分標識だったり複雑でした。身分制度もけっこう複雑です。それを整理した明治政府には、大変な苦労があったことでしょう。今のアメリカで銃規制が大問題になっているのも、わかるような気がします。あれが「ファッション」になって「使用しないもの」になれば、それはそれで一つの解決法ではないか、なんてことも思うんですけどね。



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