君看よや 双眼の色 語らざれば 憂いなきに似たり
(きみみよや そうがんのいろ かたらざれば うれいなきににたり)
意訳(私見が入ってることをご了承ください)します。
「わたしの両のまなこを(よく)看ておくれ、普段からあえて何も語らなければ、
わたしには憂い(悲しみ)がないと思うだろう」
この言葉は、良寛が好んで書いた言葉です。
子どもと日が暮れるまでかくれんぼをして遊んだり、といった説話で語られる良寛には、温かくてどこか懐かしい、純真無垢なお坊さんといったイメージが一般には定着しているようです。
しかし、この言葉には良寛が抱いていた人の世、ひいては人生に対する深い憂い、悲しみが込められているように思われます。一生を通じて自己に厳しく、清貧の境涯を送った良寛でさえ、その目に深い悲しみをたたえていました。
この言葉には「ひとが生きる」という事実に厳然としてある根源的な憂い、悲しみへの思いが込められているように思われてなりません。そうした人生の根底にある悲しみから目をそらさず、すべてを受け入れることから、人生は、はじめて深い意味をもって現れるのではないでしょうか。良寛の泉のように湧き出でる愛は、人の世の憂い悲しみを背負ったからこそ生じたものなのかもしれません。
人生には苦しみ悲しみはつきものです。いや、釈尊が説かれたように、わたしたちが煩悩とともにある限り、人生の本質は苦悩である、といっても過言ではないでしょう。
わたしたちはこの苦悩に満ちた人生をいかに生きるべきでしょうか。
苦悩から逃げ出さずに、苦悩する己の姿をありのままに受け止め、自己愛を乗り越える。こうした体験を通して、人の痛みに共感することができる。冒頭の言葉は、そこに慈悲の心、自他を超えた無私の愛が生じる機縁がある、ということを示唆しているように思われます。
※以上、この文章は、今年の教区の布教用冊子に掲載させていただいた拙文です。
あえて、今回「良寛さま」としていたのを「良寛」としました。
敬称を略したほうがストレートに伝わるのではないかと考えた次第です。
良寛の悲しみは、苦しみを通り抜けて超越した「慈悲(無私の愛)」であったと思います。慈悲としての憂い悲しみはあっても、そこに苦悩の影はありません。真の慈悲は、苦悩を通過しなければ生じないのではないでしょうか。
憂いをたたえた瞳といえば、イエス・キリストが想起されます。
イエスもまた、わたしたちの、そしてこの世の憂い悲しみを一身に背負われた方でした。
その生き様に、わたしたちは魂が震えるほどの愛を感じずにはおれません。
(きみみよや そうがんのいろ かたらざれば うれいなきににたり)
意訳(私見が入ってることをご了承ください)します。
「わたしの両のまなこを(よく)看ておくれ、普段からあえて何も語らなければ、
わたしには憂い(悲しみ)がないと思うだろう」
この言葉は、良寛が好んで書いた言葉です。
子どもと日が暮れるまでかくれんぼをして遊んだり、といった説話で語られる良寛には、温かくてどこか懐かしい、純真無垢なお坊さんといったイメージが一般には定着しているようです。
しかし、この言葉には良寛が抱いていた人の世、ひいては人生に対する深い憂い、悲しみが込められているように思われます。一生を通じて自己に厳しく、清貧の境涯を送った良寛でさえ、その目に深い悲しみをたたえていました。
この言葉には「ひとが生きる」という事実に厳然としてある根源的な憂い、悲しみへの思いが込められているように思われてなりません。そうした人生の根底にある悲しみから目をそらさず、すべてを受け入れることから、人生は、はじめて深い意味をもって現れるのではないでしょうか。良寛の泉のように湧き出でる愛は、人の世の憂い悲しみを背負ったからこそ生じたものなのかもしれません。
人生には苦しみ悲しみはつきものです。いや、釈尊が説かれたように、わたしたちが煩悩とともにある限り、人生の本質は苦悩である、といっても過言ではないでしょう。
わたしたちはこの苦悩に満ちた人生をいかに生きるべきでしょうか。
苦悩から逃げ出さずに、苦悩する己の姿をありのままに受け止め、自己愛を乗り越える。こうした体験を通して、人の痛みに共感することができる。冒頭の言葉は、そこに慈悲の心、自他を超えた無私の愛が生じる機縁がある、ということを示唆しているように思われます。
※以上、この文章は、今年の教区の布教用冊子に掲載させていただいた拙文です。
あえて、今回「良寛さま」としていたのを「良寛」としました。
敬称を略したほうがストレートに伝わるのではないかと考えた次第です。
良寛の悲しみは、苦しみを通り抜けて超越した「慈悲(無私の愛)」であったと思います。慈悲としての憂い悲しみはあっても、そこに苦悩の影はありません。真の慈悲は、苦悩を通過しなければ生じないのではないでしょうか。
憂いをたたえた瞳といえば、イエス・キリストが想起されます。
イエスもまた、わたしたちの、そしてこの世の憂い悲しみを一身に背負われた方でした。
その生き様に、わたしたちは魂が震えるほどの愛を感じずにはおれません。
はじめまして!ようこそいらしてくださいました!
返事が遅れてすみません。
共感してくださって嬉しいです。
りけさんの良寛さまの慈悲に対する捉え方、共感します。
素敵な感想をありがとうございました。
寒くなりましたね。お体どうぞご自愛ください。
いいですね。この記事の内容。。。
>「ひとが生きる」という事実に厳然としてある根源的な憂い、悲しみへの思い・・・そうした人生の根底にある悲しさから目をそらさず、すべてを受け入れることから、人生は、はじめて深い意味をもって現れる・・・
共鳴することしきりですわ。皆、多かれ少なかれ何某かの悲哀を抱えて生きていますものね。心の中では。ただ、それを感じさせるかどうかの違いだけであって。。それがないと、分っていないと、りょうさんの言われるように「人の痛みに共感すること」が、真の意味で、できませんものね。
そういう点において、私もりょうさんと同様、良寛さんにもイエス様にもお釈迦様にも「慈愛」や「慈悲」を、温かい、懐の深さ、大きさを、ひしひしと感じますわ☆
ところで、りょうさん旧約聖書の神様に「慈悲」とか「慈愛」とかいわゆる「大悲」(初めて知りました)を感じられます?
『ヨブ記』とか『カインとアベル』の神って、傲慢って思いません?私、悪魔かと思いましたわ。騙りではないかと!
余りに冷酷非情で手前勝手で、不遜で、読むと反発感じずにいられなくって、私。(畏れ多いのですが。。。)
ありがとうございます☆(←☆多用しすぎ?・・・汗)
そうですね。
やはり、自分の心の痛みや憂い悲しみをしっかりと受け止めてきた経験がなければ、人の痛みに共感することもできないと思います。
さらに言えば、良寛さんやイエスや聖フランチェスコのような菩薩の場合は、他者の痛みがそのまま自己の痛みに直結しているような気がしてなりません。
>『ヨブ記』とか『カインとアベル』の神って、傲慢って思いません?私、悪魔かと思いましたわ。騙りではないかと!
ありさんが仰ることはよく分かります。
私も同感です。
この問いは実は、けっこう厄介です・・・難しい。
私見を述べてみます。
私が思うに、エジプト周辺のユダヤにとっては、荒野に囲まれた厳しい気候条件、過酷な生活環境を乗り越えるために、すべてを包摂するような慈母のような神ではなく、支配的で残酷な神、罪を犯したものを罰する強権的な神を信じる必要があったのかもしれません。
じゃあ、この「神」はユダヤ(人間)に創造された神なのか・・・。
そうであるとも、そうでないとも言えると思います。
旧約の神は確かにユダヤ人の願望や潜在意識が反映した神に違いないのですが、人もまた宇宙(の一部)であるということを考えれば、宇宙が神を創造したということになる。
そうなるとどちらが正しいとも言えなくなる・・・。
その神は偽者でもあり本物でもあるのではないかと・・・。
すみません。とりとめのないことが頭の中をグルグルと・・・。
ただ一つ言えるのは、宗教は言語化された時点で「物語」とならざるを得ないと言うことだと思います。
「物語」とは、仏教的に言えば、つまり「方便」。
「世界観」、「宇宙観」と約すこともできると思います。
方便は、あくまでも言葉ですから、宗教的な本質、「形なきいのちそのもの」、「霊性」からはどうしてもズレてしまう。
でもとっかかりは、やはり「物語」、「方便」を用いるしかないんですね。
旧約に出てくるような意地悪な神様は、現代はもう流行らないですよね。
それは旧約の「物語」が現代には通用しなくなったということだと思います。
では現代の物語とは何か・・・?
残念ながら現代は、「物語」が失われたか、もしくは失われつつある時代だと思います。
価値相対化が推し進められて、ニヒリズムに陥っている。
「人生、別に意味ないじゃん」
そしてそれはそのままエゴイズムにつながる。
「とりあえず、自分が楽しきゃいいんじゃないの」
「ばれなきゃいいんじゃないの」
こうした事態が、現代の心の荒廃につながっていることは明らかです。
現代にあった、「物語」、「方便」を模索しつつ構築して行くのが、現代人の課題であると思います。
それはまた私が目下学んでいることでもあります。
とりとめのない思索ですが、考える機会を与えてくださったことに感謝します☆
お忙しいところ、ご丁寧なお返事をどうも有難うございました☆
『ヨブ記』も『カインとアベル』も、初めて読んだ時から、ず~っと腑に落ちずにいたもので。。。
ある意味『ヨブ記』なんてリアルといえばリアルな内容とも思うんですね。『カインとアベル』も同様。聖書に限らず、他の神話も、おとぎ話や民話も、誇張や置き換えはあるものの、真実と思いますし。
だからこそ、その理不尽さが腹立だしいといいますか、これがギリシャ神話とかなんとかであれば「不条理ね~・・・」と思いこそすれ、腹が立つところまでいかないのですが、殊、旧約の神様に対しては「全知全能」と謳っている?だけに、点数が思いっきり厳しくなってしまって(苦笑)。。
やれ、お供えものの選り好みするわ、気難しいわ、好き嫌い激しいわ、我ままだわで、人間のほうが余程、徳の高い人が多いと思いましたわ。この神から比べれば。
現に、私、お釈迦様の自伝、キリストの生涯を、この神に読ませて反省心を促したい!とマジで思いましたし。(不遜ですが・・・)
とはいえ、私『聖書』って、全部読んだことないんですけれど(汗)
『時計じかけのオレンジ』のアレックスと何ら変わらない、興味のあるところだけ読んだに過ぎず『ヨブ記』も、最初は読む気がしなかったのが、なんとなく読んでいるうち、余りの理不尽さに、怒り心頭で、思わず、我を忘れて読みきってしまった、というだけで、偉そうなこと言う、私こそ「傲慢」かもしれませんが。。。
それはそうと、前からお訊きしたかったのですが、りょうさんが宗教へ進むきっかけって何だったの?
中学生の頃、近くに教会があって、もし敷居が高くなければ・・・と書いてらしたでしょう?
りょうさんの出家の理由、とても興味がありますので、是非とも☆
『ヨブ記』も『カインとアベル』も、ちゃんと読んでないので改めて読んでみますね。
ところでギリシャ神話は、小学生の頃からなぜか大好きでした。イーリアスとオデュッセイアなんかを夢中になって読んだものです。人間臭い神様もチャーミングですよね(笑)
ギリシャ神話はエッチすぎる神様ばかりですが・・・ゼウスとかただのスケベ親父だし(笑)
ちなみに私も聖書をちゃんと読んだことありませんよ・・・汗
遠藤周作さんや三浦綾子さんの本を読んで、イエスの生涯の主要なできごとを流れとしては理解しているつもりですが。
ちなみに、岡野守也先生の「美しき菩薩・イエス」という本に感動して、私のイエス観はとても豊かなものになりました。
最近読んだブッダの伝記の中では羽矢辰夫先生の『ゴータマ・ブッダ』が、誠実な筆致で清冽にブッダが描かれていて秀逸です。
>人間のほうが余程、徳の高い人が多いと思いましたわ。この神から比べれば。
ごもっとも!ありさん、最高です♪(笑)
わがままな神様なんて、ごめんですよね(笑)
ご質問の宗教の道へすすむきっかけですけど・・・
ん~けっこういろいろな要因があって複雑なんですが・・・
あえて言えば、このままでは自分はダメな人間になる、間違った人生を送るのではないかと言った恐怖心が、幼心にもあったんだと思います。
宗教の世界に生きることこそ、「まっすぐで正しい僕の生きる道だ」と思っていました。
だから、それがキリスト教であっても、仏教であってもよかったんです。
きっと自分の人生に本当の意味を与えてくれる教えを求めていたんでしょう・・・。生の基盤というか。
だから、そういう意味ではキリスト教はハッキリと絶対的な「神」を前提としているので、強烈に憧れたこともありました。
ともあれご縁があったのが、怪しい新興宗教でなくてよかったです。
道元禅師は滅茶苦茶かっこいいし、曹洞宗は老舗ですからね。法要進退もキレイだし、お坊さんの作法や動作も美しい。
手目ミソですけど・・・(笑)