飛鳥への旅

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万葉アルバム(関東):茨城、鹿島神宮

2009年11月12日 | 万葉アルバム(関東)

あられ降り鹿島の神を祈りつつ
皇御軍(すめらみくさ)に吾(われ)は来にしを
   =巻20-4370 防人の歌=


 あられが降る鹿島神宮の神に祈願して、私は天皇の戦に加わってきたのだ。という意味。

「霰ふり」は鹿島に懸かる枕詞。「来(き)にしを」の「を」は感嘆を示す助辞であり、皇軍の一員として遥か故郷を後にして来た感慨を籠めた表現である。作者は防人の大舎人部千文(おおとねりべのちふみ)で常陸国那珂郡の人である。
いわゆる「鹿島立ち」の原型となった歌で、大東亜戦争中はことに愛誦された歌であった。

鹿島神宮の祭神は武甕槌神(タケミカヅチ)で、元々は鹿島の土着神で、海上交通の神として信仰されていた。
ヤマト王権の東国進出の際に鹿島が重要な地になってきたこと、さらに、祭祀を司る中臣氏が鹿島を含む常総地方の出で、古くから鹿島神ことタケミカヅチを信奉していたことから、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることになった。平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした、

社伝に藤原氏の祖藤原鎌足は、この地鹿島誕生説が「大鏡」などで説かれているように、鹿島神宮を氏神として仰ぎ、藤原不比等は神護景雲二年(768)に分霊を春日社(現在の奈良・春日大社)としたとある。

鹿島神宮では、3月9日に祭頭祭がある。棒祭とも呼び、神領五十三ヶ村のうち祭頭に当たった二ヶ村の青年男子が定めの衣装で、八尺の樫棒を打合わせ、囃歌をうたって神宮に詣でる。東国から徴集された防人が鹿島に集められ長途の旅に立った。その旅立ちを祈ったのがこの祭頭祭で、「鹿島立ち」の神事といわれる。

 写真は鹿島神宮の秋祭りの模様で、万葉歌碑は神社鳥居横にある。

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