飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
古代から近代へと時空を越えた旅をします。
「リンクメニュー」(分類別目次)機能付。

1987年9月 太子道

2010年05月24日 | 思い出の大和路探訪
 斑鳩と飛鳥を結ぶ一筋の道、太子道と推定されているもののひとつである。
これは飛鳥時代に聖徳太子が斑鳩の宮から飛鳥京へと黒駒に乗って通ったと伝えられている道である。両地点を結ぶ最短距離の道で、「筋違道」(すじかいみち)ともいわれ、その時は太子通勤の道であり、同時に庶民の生活の道でもあった。
太子道は全長24キロの道のりで、騎乗(馬の歩速は7~8キロ)で3時間といったところ。
 太子道の沿道には、昔の面影をとどめ伝承を秘めた地が多く見られる。ところが最近の宅地開発のため歴史的風土の景観が損なわれ古道も埋もれて破壊されつつあるようだ。

 私はこの年、「太子道を往く」(岡本精一著)の本を携え、この太子道を探訪した。
斑鳩・法隆寺をスタートし、飛鳥・橿原神宮前まで踏破した記録である。


法隆寺 五重塔と中門


南大門より右手、太子道スタート


東院伽藍の土塀 左手:四脚門


駒塚 太子の愛馬黒駒を葬った塚
聖徳太子が斑鳩から飛鳥に通う時には、甲斐の黒駒に跨りお供に調子丸を伴われたと言われている。


成福寺へ通じる古道


成福寺古道わきの石仏


成福寺門前の碑(左)、成福寺(右)
成福寺は太子ゆかりの寺、太子と最愛の妃であった膳部夫人が住んでいたという「葦垣宮」の宮跡、太子がここで死んだとも言われている。


東安堵の広嶺神社(飽波神社跡)(左)、広嶺神社付近の筋違道(太子道)(右)
飽波神社も聖徳太子の飽波宮の伝承を伝えている。


大和川にかかる馬場尻橋 後方に二上山、葛城山系がみえる


額田野風景 額安寺付近、額田王はこの地の出身といわれる


額安寺(左) この寺の前身が太子建立の熊疑(くまごり)精舎
額田部の推古神社(右) 推古天皇の幼名が額田部皇女であるため


島の山古墳
島の山古墳は、伝説では蘇我入鹿の墓だともいわれているのだそうだ。
全長190mの大きな前方後円墳である。


三宅町屏風 白山神社(左)前の太子道


白山神社にある腰掛石  聖徳太子が駒を止めて休んだという伝承がある


屏風 杵築神社


三宅町伴堂(ともんどう)の太子道


杵築神社わきにつづく太子道


伴堂 杵築神社


伴堂の道


太子道わきの地蔵(融観寺)


三宅町黒田


黒田の法楽寺 太子創建という
盛時には、25坊を数える壮大な伽藍であったようだが、幾度かの戦火に遭ったことで、今は小さな本堂を残すだけとなっている。


三宅の原よりの展望 竜王山、三輪山


保津の環濠集落
保津は、環濠集落の名残をとどめており、村全体を濠が取り囲んでいる。濠は本来もっと広く作られていて内と外を繋ぐ門は保津では2ヶ所程度しかなく、木戸と呼ばれていた。
案内板によると明治中期までは、門番が置かれて引き橋が架けられていたようである。


百済野風景、百済寺遠望


百済寺三重塔


山部赤人の万葉歌碑  →万葉アルバム


農振橋からの飛鳥川、飛鳥方面を望む


田原本町秦庄 秦楽寺(じんらくじ)(左)
秦楽寺本堂(右)
<奏楽寺の池の七つの不思議>「一、阿字池はいずれの方向から見ても地形の全部が見られず、ひとすみだけは見えないということです。二、阿字池は百日の干ばつでも、水が絶えてかれたことがないそうです。・・」


田原本町 多(おお)神社
神社周辺は、太安万侶で有名な古代の氏族多氏の本拠地であった。


田原本町 屋就(やつぎ)神社(矢継の森)
<矢継の森の伝承>「むかし聖徳太子が、どこか自分の住むのに適した所はないものかとおおせられて、南から西北の方向を向き、「あの方面がよいように思われるので、これから矢を射るから、わたしはその落ちたところに行こう」と申されました。そして矢を放たれると今の矢継ぎの森に落ちました。
そこで家来がその事を申し上げますと、太子はまだ距離が近いからとおおせられて、再び矢を放たれると、現在の法隆寺のところに落ちました。いよいよこれでよいとて、永住の地と定められました。」


橿原市地黄町 人丸神社(左)柿本人麻呂の万葉歌碑(右) →万葉アルバム


橿原市小綱(しょうこ)町 入鹿神社


橿原市今井町 蘇武橋 太子が斑鳩から飛鳥へ通ったときこの橋を渡ったという
蘇武橋からの飛鳥川の流れ 後方、畝傍山


終着 橿原神宮駅

最新の画像もっと見る

コメントを投稿