武蔵野に 占(うら)へ肩灼き まさてにも
告(の)らぬ君が名 占(うら)に出にけり
=巻14-3374 作者未詳=
武蔵野で、鹿の肩骨を焼いて占いをしたら、誰にも言ったことがないあなた(男性)の名前が、占いに出てしまいました。…という女性の歌。
古くこの地に住んだ上代の東国人は武蔵野に棲息していた鹿の群れを狩りしては食料のひとつとしていた。また慣習としてその鹿の肩骨を焼いて、さまざまの卜占に用いていた。すなわち焼いた骨の裏面にできるいろいろな割れ目の形により、占いをおこなっていたのであり、これが世に鹿ト(かぼく)と称しているものである。
そして、このことから万葉集に占肩灼(うらえかたやき)の歌が遺っている。
この地域では、かつて多くの古墳が作られ、仙波古墳群が形成されていたが、大正13年の東上線工事の際に多くの古墳が破壊されてしまったが、かつて、仙波古墳群の中に、「シシミ塚(シロシ塚)」があった事から、この地域が歌の舞台とされており、建碑の場所は便宜上この神社の前を選んだとされている。
この万葉歌碑は川越市富士見町の富士浅間神社に建っている。東上線と川越線に川越街道(254号)が交差するあたり、東方に小高い丘がある。古墳である。頂上に浅間神社をまつり母塚と呼ばれる円墳がある。
万葉歌碑は浅間神社古墳に上る石段の左傍に万葉遺跡占肩(うらかた)の鹿見塚(ししみつか)の碑が建てられている。
<クリックで拡大>
2メートルほどの仙台石に、「埼玉県指定史蹟、万葉遺蹟、占肩之鹿見塚」と大書刻字されている。元知事、大沢雄一の筆による。
建碑の由来を碑陰に記している。
――前略――往古東国の人々が、武蔵野に棲んでいた多くの鹿を狩して、その肩骨を焼いて吉凶を占う風習があった。この故事から情緒深い占肩の歌が遺され、地名をシシミ塚と称していた。然るにいつしかシロミと転訛して城見塚と書改められたこともあったが、今もシシミ塚として一町七畝余もある。また新編武蔵風土記にも遺跡としてその小名が地籍に記されている。この地には上代の古墳が遺存し、父塚、母塚と呼ばれ、母塚の丘陵上には、富士浅間神社を祀り――後略――
柴田常恵、小川元吉、岸伝平三氏の調査によって、昭和二十一年に県指定史蹟となったとある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます