サエとヒロシは、食事を楽しんだ後、一緒にサエの自宅に帰ってきた。
ヒロシの家は別にあったが、最近では半同棲のような生活をしている。
「じゃあ、そろそろ寝ようかな」とサエが言った時、時間は夜の11時を回っていた。
「待って!待って待って!今日が何の日か分かってる?」
ヒロシは急に興奮しはじめ、サエがベッドに入るのを阻止した。
「何の日って・・・、ああ、節分ね。私、特に何もしないよ。何もしない家だったの。」
「それはいけないよ、サエちゃん。それはいけない。豆まきはね、非常に重要な儀式なんだ。」
サエはヒロシがちょっと怖かった。豆まきなんて、実家でしてこなかったし、しないからといって、何か問題が起きたことも無い。それにもう夜中だ。
「夜中だよ、もう。」とサエが言うか言わないか、ヒロシは、
「違う違う、むしろ夜中だからやるんだよ。夜中、つまり時の割れ目こそ、豆まきの時間なんだよ。」
あれ、こんな人だったっけ、とサエは思った。ヒロシは続ける。
「知っていると思うけど、節分とは旧暦における大晦日にあたる。その大晦日に鬼が家に入ってくるのを防ぐ、その儀式こそ、豆まきなんだ。」
サエは節分の由来もよく知らないし、鬼のこともよく知らない。
「鬼は入ってきません。寝ますよ。」サエは強気だ。
「鬼を軽んじてはいけないよ、サエちゃん。一体、鬼とは何か、というところから、少し考える必要があるね。」
ない、考える必要は全くない、とサエは思った。しかし、ヒロシは続ける。
「オニとは、実は複雑な概念なんだ。というのも、オニの概念には、日本の様々な信仰や宗教の文脈が反映されているからなんだね。」
サエは不安を覚えた。この人と生活するの、大変かも、と。
ヒロシはサエの表情が曇っているのに気が付いていたが、それよりも大事なことを伝えなくてはいけないという使命感に駆られていたので、無視した。
「まず、日本の土着の信仰では、オニとは一種の土地の霊であり、自然の神々でもあるんだ。
だけど、それ以上に興味深いのは、日本では、オニがしばしば異界、つまりこの世とは異なる世界の存在として描かれてきたということなんだ。」
夜中に怖い話とかしてくる、最悪。とサエは思ったが、少しだけ興味が出てきた。
「それで?」サエはとりあえず、ヒロシが満足するまで話をさせることにした。
「うん。オニというのは、「おぬ」が転じた概念とも言われている。「おぬ」とは「隠」と書く。つまり、この世界にはいない、あるいは見えないもの、ということなんだね。」
なんだね、じゃないよ。とサエは思ったが、この話はもうすぐ終わる気がしたので、とりあえず、頷いて見せた。
「その一方、オニと並んで使われていたのが、モノという概念だ。いわゆる「物忌み」のモノだね。モノとは、祟る霊、悪しき霊を意味していた。鬼という漢字は万葉集なのでは、モノと読んでいる。」
「分かった、分かった。じゃあ、豆まきすればいいのね。」サエは面倒になってきたので、一番早くこの事態が収束する選択をすることにした。
「ちょっとだけ待って、今話していることが後で重要になるから、もう少し説明するね。」
嘘でしょ、とサエは思った。
「で、要するに、僕が言いたいのは、節分における鬼というのは、一般にイメージされるような赤鬼、青鬼みたいなことではないんだよ。
そうじゃなくて、見えない存在、異界の存在のことであり、悪しき霊のことなんだよ。
分かった?」
サエは素早く「分かったから、じゃあ、豆まきね。」と素っ気なく返した。
「ところで豆は?」とサエが尋ねると、ヒロシはおもむろにカバンから豆の袋をとりだした。その袋は布の袋で、なんだか豆は厳重に管理されている様子だ。
「この豆をまくよ。最近ではピーナッツをまく家もあるみたいだけど、それは違うんだ。本来の豆は大豆、それも炒り大豆なんだね。というのも、大豆は古来より、霊力のあるものとされてきたからなんだ。桃なんかも霊力があるものとされているけど、大豆もそうなのさ。」
「あー、桃太郎の話もあるもんね。」
「そうそう!」サエが余計なことを言ったので、ヒロシのテンションは余計上がってしまった。
「じゃあ、早速まきましょ。鬼は外、福は内でしょ?どっちが鬼やる?」
サエが言うか言わないか、ヒロシは「違う違う違う!今さっき何を聞いていた!君は何を聞いていたんだ!」
サエはちょっとムカッときた。ここまで妥協しているのに、なんだろう、この人の態度。
ヒロシは言い過ぎたことをすぐに反省し、
「ごめん、ごめん。僕の説明が足りなかった。」とフォローした。
「まず、鬼は誰かがやるものじゃないんだ。それはどうしてかと言うと、」
「鬼は見えない異界の存在だからでしょ?」とサエが遮った。
「そうなんだよ。分かってくれたみたいだね!」ヒロシは嬉しそうだ。彼は多分バカだ。
「それから、「鬼は外」と「福は内」は一緒に言ってはいけない。それぞれ別の儀式とする必要がある。
まず、鬼は外を唱えながら、窓やドアの外に向かって豆を投げる。そして、窓やドアを閉めていき、
その後で福は内と唱えて家のなかに豆を投げる。そして、それを食べるんだ。」
サエはヒロシに言われたとおりに儀式を行った。
そして、家のなかにまいた豆を拾い集めて、食べることになった。
「いただきまーす」とサエが言った瞬間、ヒロシは叫んだ。
「ストップ!!!!食べてはダメだ!!!!」
「どうしたの、びっくりした。なんなの!」サエは心臓が止まりそうだった。
「物忌みのことを思い出してほしい。鬼を遠ざけた今、豆まきの豆を食べるとき、言葉を話してはいけないんだ。
それが物忌みにつながるんだよ。」
よく分からないけど、とにかくサエは黙って豆を食べた。
そして、ようやく食べ終わった。歳の数も20半ばを過ぎたものだから、かなりの数の豆を食べた。正直お腹いっぱいだ。
「さあ、もう話しても大丈夫だよ!」
ヒロシがそう言っても、サエは黙り続けていた。
「どうしたの?物忌みは終わったよ。豆まきの儀式は無事に終わったんだ、ありがとう。」
「あのね、私は怒ってるの。」
ヒロシには、その意味が分からなかった。節分の意味はあんなにも分かっていたのに。
そういえば、鬼はしばしば女の姿になると昔の物語には書いてあるなぁ、とぼんやり考えていた。//
ヒロシの家は別にあったが、最近では半同棲のような生活をしている。
「じゃあ、そろそろ寝ようかな」とサエが言った時、時間は夜の11時を回っていた。
「待って!待って待って!今日が何の日か分かってる?」
ヒロシは急に興奮しはじめ、サエがベッドに入るのを阻止した。
「何の日って・・・、ああ、節分ね。私、特に何もしないよ。何もしない家だったの。」
「それはいけないよ、サエちゃん。それはいけない。豆まきはね、非常に重要な儀式なんだ。」
サエはヒロシがちょっと怖かった。豆まきなんて、実家でしてこなかったし、しないからといって、何か問題が起きたことも無い。それにもう夜中だ。
「夜中だよ、もう。」とサエが言うか言わないか、ヒロシは、
「違う違う、むしろ夜中だからやるんだよ。夜中、つまり時の割れ目こそ、豆まきの時間なんだよ。」
あれ、こんな人だったっけ、とサエは思った。ヒロシは続ける。
「知っていると思うけど、節分とは旧暦における大晦日にあたる。その大晦日に鬼が家に入ってくるのを防ぐ、その儀式こそ、豆まきなんだ。」
サエは節分の由来もよく知らないし、鬼のこともよく知らない。
「鬼は入ってきません。寝ますよ。」サエは強気だ。
「鬼を軽んじてはいけないよ、サエちゃん。一体、鬼とは何か、というところから、少し考える必要があるね。」
ない、考える必要は全くない、とサエは思った。しかし、ヒロシは続ける。
「オニとは、実は複雑な概念なんだ。というのも、オニの概念には、日本の様々な信仰や宗教の文脈が反映されているからなんだね。」
サエは不安を覚えた。この人と生活するの、大変かも、と。
ヒロシはサエの表情が曇っているのに気が付いていたが、それよりも大事なことを伝えなくてはいけないという使命感に駆られていたので、無視した。
「まず、日本の土着の信仰では、オニとは一種の土地の霊であり、自然の神々でもあるんだ。
だけど、それ以上に興味深いのは、日本では、オニがしばしば異界、つまりこの世とは異なる世界の存在として描かれてきたということなんだ。」
夜中に怖い話とかしてくる、最悪。とサエは思ったが、少しだけ興味が出てきた。
「それで?」サエはとりあえず、ヒロシが満足するまで話をさせることにした。
「うん。オニというのは、「おぬ」が転じた概念とも言われている。「おぬ」とは「隠」と書く。つまり、この世界にはいない、あるいは見えないもの、ということなんだね。」
なんだね、じゃないよ。とサエは思ったが、この話はもうすぐ終わる気がしたので、とりあえず、頷いて見せた。
「その一方、オニと並んで使われていたのが、モノという概念だ。いわゆる「物忌み」のモノだね。モノとは、祟る霊、悪しき霊を意味していた。鬼という漢字は万葉集なのでは、モノと読んでいる。」
「分かった、分かった。じゃあ、豆まきすればいいのね。」サエは面倒になってきたので、一番早くこの事態が収束する選択をすることにした。
「ちょっとだけ待って、今話していることが後で重要になるから、もう少し説明するね。」
嘘でしょ、とサエは思った。
「で、要するに、僕が言いたいのは、節分における鬼というのは、一般にイメージされるような赤鬼、青鬼みたいなことではないんだよ。
そうじゃなくて、見えない存在、異界の存在のことであり、悪しき霊のことなんだよ。
分かった?」
サエは素早く「分かったから、じゃあ、豆まきね。」と素っ気なく返した。
「ところで豆は?」とサエが尋ねると、ヒロシはおもむろにカバンから豆の袋をとりだした。その袋は布の袋で、なんだか豆は厳重に管理されている様子だ。
「この豆をまくよ。最近ではピーナッツをまく家もあるみたいだけど、それは違うんだ。本来の豆は大豆、それも炒り大豆なんだね。というのも、大豆は古来より、霊力のあるものとされてきたからなんだ。桃なんかも霊力があるものとされているけど、大豆もそうなのさ。」
「あー、桃太郎の話もあるもんね。」
「そうそう!」サエが余計なことを言ったので、ヒロシのテンションは余計上がってしまった。
「じゃあ、早速まきましょ。鬼は外、福は内でしょ?どっちが鬼やる?」
サエが言うか言わないか、ヒロシは「違う違う違う!今さっき何を聞いていた!君は何を聞いていたんだ!」
サエはちょっとムカッときた。ここまで妥協しているのに、なんだろう、この人の態度。
ヒロシは言い過ぎたことをすぐに反省し、
「ごめん、ごめん。僕の説明が足りなかった。」とフォローした。
「まず、鬼は誰かがやるものじゃないんだ。それはどうしてかと言うと、」
「鬼は見えない異界の存在だからでしょ?」とサエが遮った。
「そうなんだよ。分かってくれたみたいだね!」ヒロシは嬉しそうだ。彼は多分バカだ。
「それから、「鬼は外」と「福は内」は一緒に言ってはいけない。それぞれ別の儀式とする必要がある。
まず、鬼は外を唱えながら、窓やドアの外に向かって豆を投げる。そして、窓やドアを閉めていき、
その後で福は内と唱えて家のなかに豆を投げる。そして、それを食べるんだ。」
サエはヒロシに言われたとおりに儀式を行った。
そして、家のなかにまいた豆を拾い集めて、食べることになった。
「いただきまーす」とサエが言った瞬間、ヒロシは叫んだ。
「ストップ!!!!食べてはダメだ!!!!」
「どうしたの、びっくりした。なんなの!」サエは心臓が止まりそうだった。
「物忌みのことを思い出してほしい。鬼を遠ざけた今、豆まきの豆を食べるとき、言葉を話してはいけないんだ。
それが物忌みにつながるんだよ。」
よく分からないけど、とにかくサエは黙って豆を食べた。
そして、ようやく食べ終わった。歳の数も20半ばを過ぎたものだから、かなりの数の豆を食べた。正直お腹いっぱいだ。
「さあ、もう話しても大丈夫だよ!」
ヒロシがそう言っても、サエは黙り続けていた。
「どうしたの?物忌みは終わったよ。豆まきの儀式は無事に終わったんだ、ありがとう。」
「あのね、私は怒ってるの。」
ヒロシには、その意味が分からなかった。節分の意味はあんなにも分かっていたのに。
そういえば、鬼はしばしば女の姿になると昔の物語には書いてあるなぁ、とぼんやり考えていた。//