それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

社会と信頼:日本社会は信用というものをよく知らない

2013-09-25 19:46:57 | 新生活の記録
今の住まいを借りるときにひどく時間がかかっただけでなく、親にも迷惑をかけた。

保証人をなかなか見つけられなかったのである。

父親だけでは十分ではないという理由で、親戚をあたることになった。

結局、母親の親戚に頼んだのであるが、その人とは本当に久しぶりに会ったのである。



イギリスにいた最後の年、民間のフラットを出ていくときに大家さんが

「必要だったら推薦書を書くわね!」

と言ってくれた。

その時は全く何のことか分からず、「あ、ああ、ありがとう。」的なことを言った。

その後、よく分かった。

次のフラットを探す場合、その前の大家さんの推薦書にとても意味があるのだ。

このアジア人の小男(筆者)に部屋を貸すうえで、次の大家さんは

「こいつ、信用できる?」

と思うわけである。

そこで登場するのが前の大家さん推薦書だ。

「この子は家の掃除も一生懸命で、とてもきれいに使ってくれました。家賃も一度も滞納していません。」

なるほど、こいつは信用できる。なら、貸そう。ということになる(かもしれない)。

私のことをよく知らない親戚と、私の家の使い方をよく知っている大家さんと、どっちの意見に意味があるだろ?

イギリスでは、大家さんだと考える。



けれども、日本ではこういう考え方はない。

信頼できるのは、お金と親戚。

人間がコミュニケーションのなかで信頼を築き、それを増やし、次のチャンスにつなげるという発想が希薄である。

突き詰めれば、日本のケースはお金のことしか考えていない。住む人の使い方にも人格にも興味が無いのだ。

あるいは、それを理解する力が欠如しているのである。

仕事の世界ではどうだろうか?

私は大学なぞというよく分からない世界にいるので、これまたちょっと違うのだが、

要するに英米的な、「上司の推薦書とともに転職」、ということがおそらくまず無いのではないかと想像する。

そういう世界が健全だとは言わない。

しかし、日本の場合、最初にお金や親戚が十分ない人間はどうすればいいのだろうか?

この考えを敷衍すれば、「この人の血統は信用できる、お金持ちだし」→「最高なのは華族か、天皇家だよね」

ということになる。

そんな永遠のしがらみのなかで生きていくのだろうか?

それはとても不健全だ。

そういう社会でまともな競争や成長が起きるのか、私には分からない。