今の住まいを借りるときにひどく時間がかかっただけでなく、親にも迷惑をかけた。
保証人をなかなか見つけられなかったのである。
父親だけでは十分ではないという理由で、親戚をあたることになった。
結局、母親の親戚に頼んだのであるが、その人とは本当に久しぶりに会ったのである。
イギリスにいた最後の年、民間のフラットを出ていくときに大家さんが
「必要だったら推薦書を書くわね!」
と言ってくれた。
その時は全く何のことか分からず、「あ、ああ、ありがとう。」的なことを言った。
その後、よく分かった。
次のフラットを探す場合、その前の大家さんの推薦書にとても意味があるのだ。
このアジア人の小男(筆者)に部屋を貸すうえで、次の大家さんは
「こいつ、信用できる?」
と思うわけである。
そこで登場するのが前の大家さん推薦書だ。
「この子は家の掃除も一生懸命で、とてもきれいに使ってくれました。家賃も一度も滞納していません。」
なるほど、こいつは信用できる。なら、貸そう。ということになる(かもしれない)。
私のことをよく知らない親戚と、私の家の使い方をよく知っている大家さんと、どっちの意見に意味があるだろ?
イギリスでは、大家さんだと考える。
けれども、日本ではこういう考え方はない。
信頼できるのは、お金と親戚。
人間がコミュニケーションのなかで信頼を築き、それを増やし、次のチャンスにつなげるという発想が希薄である。
突き詰めれば、日本のケースはお金のことしか考えていない。住む人の使い方にも人格にも興味が無いのだ。
あるいは、それを理解する力が欠如しているのである。
仕事の世界ではどうだろうか?
私は大学なぞというよく分からない世界にいるので、これまたちょっと違うのだが、
要するに英米的な、「上司の推薦書とともに転職」、ということがおそらくまず無いのではないかと想像する。
そういう世界が健全だとは言わない。
しかし、日本の場合、最初にお金や親戚が十分ない人間はどうすればいいのだろうか?
この考えを敷衍すれば、「この人の血統は信用できる、お金持ちだし」→「最高なのは華族か、天皇家だよね」
ということになる。
そんな永遠のしがらみのなかで生きていくのだろうか?
それはとても不健全だ。
そういう社会でまともな競争や成長が起きるのか、私には分からない。
保証人をなかなか見つけられなかったのである。
父親だけでは十分ではないという理由で、親戚をあたることになった。
結局、母親の親戚に頼んだのであるが、その人とは本当に久しぶりに会ったのである。
イギリスにいた最後の年、民間のフラットを出ていくときに大家さんが
「必要だったら推薦書を書くわね!」
と言ってくれた。
その時は全く何のことか分からず、「あ、ああ、ありがとう。」的なことを言った。
その後、よく分かった。
次のフラットを探す場合、その前の大家さんの推薦書にとても意味があるのだ。
このアジア人の小男(筆者)に部屋を貸すうえで、次の大家さんは
「こいつ、信用できる?」
と思うわけである。
そこで登場するのが前の大家さん推薦書だ。
「この子は家の掃除も一生懸命で、とてもきれいに使ってくれました。家賃も一度も滞納していません。」
なるほど、こいつは信用できる。なら、貸そう。ということになる(かもしれない)。
私のことをよく知らない親戚と、私の家の使い方をよく知っている大家さんと、どっちの意見に意味があるだろ?
イギリスでは、大家さんだと考える。
けれども、日本ではこういう考え方はない。
信頼できるのは、お金と親戚。
人間がコミュニケーションのなかで信頼を築き、それを増やし、次のチャンスにつなげるという発想が希薄である。
突き詰めれば、日本のケースはお金のことしか考えていない。住む人の使い方にも人格にも興味が無いのだ。
あるいは、それを理解する力が欠如しているのである。
仕事の世界ではどうだろうか?
私は大学なぞというよく分からない世界にいるので、これまたちょっと違うのだが、
要するに英米的な、「上司の推薦書とともに転職」、ということがおそらくまず無いのではないかと想像する。
そういう世界が健全だとは言わない。
しかし、日本の場合、最初にお金や親戚が十分ない人間はどうすればいいのだろうか?
この考えを敷衍すれば、「この人の血統は信用できる、お金持ちだし」→「最高なのは華族か、天皇家だよね」
ということになる。
そんな永遠のしがらみのなかで生きていくのだろうか?
それはとても不健全だ。
そういう社会でまともな競争や成長が起きるのか、私には分からない。