日本の大学が、文科省の政策などを原因に没落し始めて久しいが、
困ったことに、貧窮し始めた研究者がお互いにいがみ合う場面が見られるようになった。
特に理系の研究者が、文系の研究者の様態を誤解したまま、少しズレた批判をすることが多々あって、非常に心を痛めている。
そうした批判がなぜ出てくるのか、それらに理がないのか、などについてちょっとだけ触れておく。
1.ナショナルな影響
文系の研究は、自分が所属する社会の影響を強く受ける。
どういうことかと言うと、イギリスで重要とされる研究は、必ずしも日本では重要ではなく、
日本で重要とされる研究は、必ずしもイギリスでは重要とされない。
もちろん、これは理系でもありえることだろうが、文系の場合、これがかなり強烈だ。
たとえば、法律について考えてみよう。
イギリスの法律と日本の法律を比較する研究は当然存在する。
しかし、日本の民法の細かい研究は、当たり前だが、イギリスではほとんど意味がない。
悲しいかな、歴史的な経緯もあって、日本におけるイギリスの法律の研究以上に、イギリスにおける日本の法律の研究は価値がない。
あるいは、軍隊の経営管理の研究も、同様に日本とイギリスでは価値が異なる。
イギリスは世界各地で実践を経験しているため、軍隊の経営管理に関する研究には価値がある。
ところが、日本は自衛隊が軍隊なのかどうなのか不明確なうえ、事実上、実践を経験していないので、(とりわけ学会では)軍隊の経営管理に関する研究にはまったく価値がない。
だから文系の場合(一部の経済学分野などを除き、という注釈がいるが)、英語の学術雑誌の価値は理系の場合よりも、圧倒的に低いのである。
要するに、文系の場合、普遍的に共通して重要なイシューが圧倒的に少ないのである。
私自身、イギリスで博士号を取得するまでは、そのことを軽く見ていた。
ところが、行ってみて、そして帰ってきてみて、二度のカルチャーショックを経験し、
このことが研究者個人の行動にきわめて大きな影響を及ぼしていることが分かった。
インターナショナルな査読論文というものはある。
あるのだが、アメリカかヨーロッパのいずれかの社会的・学術的文脈を前提にしている。
そこに投稿し、掲載されるのには非常に労力がいる。
にもかかわらず、日本での評価にはあまりつながらない。
それゆえ、海外博士号も研究の意義を日本の文脈に合わせてうまく売り込まないと、評価されないことも少なくない。
私自身、この点ではやはり苦労した。
だから、文系の場合、英語でアメリカかヨーロッパの「インターナショナル」な学術誌に投稿することは、
注意深くやらないと、日本の学会での評価につながらないため、無駄骨になる。
それゆえ、文系の研究者があまり英語論文を出そうとしないのは、出すことに強いインセンティブがないからなのである。
ここが理系の研究とかなり違うところで、よく誤解されてしまう。
でも文系の研究者が皆、サボっているのではない、ということは理解してもらいたい。
2.本の価値
もうひとつ理系の研究者に批判されてしまうことがある。
それが「本」をめぐる評価である。
この点については、微妙に理系からの批判にも理があるのだが、以下に説明しておきたい。
日本の学会特有の問題があって、それは「本」の評価が異常に高いことである。
しかし、(日本の)学術本には査読(他の研究者からの審査)がない。
にもかかわらず、ある特定の本は評価される。
評価の基準は幾つかある。
①有名出版社かどうか
②何らかの学術賞を取っているか
③学会で評価されているか
①以外、すべて事後的な評価になる。
そもそも有名出版社だったら、何なのか。
いや、実はこれが事実上の査読なのである。
有名出版社の場合、出版にこぎつけるには、複数の編集者による「査読」を通らなければならない。
学術的な意義はどうか。そして、何部売れそうか。
学術的意義だけでなく、商業的なハードルも越えなくてはいけない。
英語の本の場合、商業的なハードルは若干低いのだが、研究者による査読がある(場合がある)。
これに比べると、日本の本は実に奇妙な評価基準であると言わねばならない。
しかし、日本式の有力編集者による「査読」は、かなり実を伴っている。
それゆえ、実質的に機能している。だから、どうしても評価基準として捨てられないのである。
もちろん、②・③は事実上のピア・レビューなので、納得してもらえるとは思う。
ただ、ここで重要なのは、その価値を示すには、出版それ自体だけでなく、学会での評価を示す別の証拠を出さなければいけないということだ。
本について、もうひとつ誤解されていることがあって、
それは何かというと、論文に比べて、期待される内容のレベルが圧倒的に高いということだ。
どういうことかというと、まず理系について考えてみたい。
理系の場合、インターナショナルな学術誌のなかでも、ランクの高い学術誌での掲載は、自動的に価値が高いはずである。
ところが、文系の場合、論文一本で明らかにできることに限りがあるため、
どうしても最終的に本(モノグラフ)のかたちで論じることが求められる(一部の経済学や心理学などの領域を除く)。
本(モノグラフ)の場合、要求される内容の量がとんでもなく多い。
論文のなかでは簡単に触れるだけで済んだ部分も、長尺で論じなくてはならない。
だから、誤魔化しがきかない。
しかも、日経新聞を読んでいる層全体に理解してもらえるくらいの分かり易さを要求される。
文系の研究の場合、広くエリートに理解してもらえることを目指す必要がある。
本はその点、売れる必要があるため、必然的に分かり易くせざるをえない。
それゆえ、文系の場合、本(モノグラフ)の評価が高いのである。
理系の研究者から見ると、本の評価が高いことが理解できないため、
文系の人たちが査読を嫌がって本を出していると誤解してしまうことがある。
違うんだ、そうじゃないんだ。
困ったことに、貧窮し始めた研究者がお互いにいがみ合う場面が見られるようになった。
特に理系の研究者が、文系の研究者の様態を誤解したまま、少しズレた批判をすることが多々あって、非常に心を痛めている。
そうした批判がなぜ出てくるのか、それらに理がないのか、などについてちょっとだけ触れておく。
1.ナショナルな影響
文系の研究は、自分が所属する社会の影響を強く受ける。
どういうことかと言うと、イギリスで重要とされる研究は、必ずしも日本では重要ではなく、
日本で重要とされる研究は、必ずしもイギリスでは重要とされない。
もちろん、これは理系でもありえることだろうが、文系の場合、これがかなり強烈だ。
たとえば、法律について考えてみよう。
イギリスの法律と日本の法律を比較する研究は当然存在する。
しかし、日本の民法の細かい研究は、当たり前だが、イギリスではほとんど意味がない。
悲しいかな、歴史的な経緯もあって、日本におけるイギリスの法律の研究以上に、イギリスにおける日本の法律の研究は価値がない。
あるいは、軍隊の経営管理の研究も、同様に日本とイギリスでは価値が異なる。
イギリスは世界各地で実践を経験しているため、軍隊の経営管理に関する研究には価値がある。
ところが、日本は自衛隊が軍隊なのかどうなのか不明確なうえ、事実上、実践を経験していないので、(とりわけ学会では)軍隊の経営管理に関する研究にはまったく価値がない。
だから文系の場合(一部の経済学分野などを除き、という注釈がいるが)、英語の学術雑誌の価値は理系の場合よりも、圧倒的に低いのである。
要するに、文系の場合、普遍的に共通して重要なイシューが圧倒的に少ないのである。
私自身、イギリスで博士号を取得するまでは、そのことを軽く見ていた。
ところが、行ってみて、そして帰ってきてみて、二度のカルチャーショックを経験し、
このことが研究者個人の行動にきわめて大きな影響を及ぼしていることが分かった。
インターナショナルな査読論文というものはある。
あるのだが、アメリカかヨーロッパのいずれかの社会的・学術的文脈を前提にしている。
そこに投稿し、掲載されるのには非常に労力がいる。
にもかかわらず、日本での評価にはあまりつながらない。
それゆえ、海外博士号も研究の意義を日本の文脈に合わせてうまく売り込まないと、評価されないことも少なくない。
私自身、この点ではやはり苦労した。
だから、文系の場合、英語でアメリカかヨーロッパの「インターナショナル」な学術誌に投稿することは、
注意深くやらないと、日本の学会での評価につながらないため、無駄骨になる。
それゆえ、文系の研究者があまり英語論文を出そうとしないのは、出すことに強いインセンティブがないからなのである。
ここが理系の研究とかなり違うところで、よく誤解されてしまう。
でも文系の研究者が皆、サボっているのではない、ということは理解してもらいたい。
2.本の価値
もうひとつ理系の研究者に批判されてしまうことがある。
それが「本」をめぐる評価である。
この点については、微妙に理系からの批判にも理があるのだが、以下に説明しておきたい。
日本の学会特有の問題があって、それは「本」の評価が異常に高いことである。
しかし、(日本の)学術本には査読(他の研究者からの審査)がない。
にもかかわらず、ある特定の本は評価される。
評価の基準は幾つかある。
①有名出版社かどうか
②何らかの学術賞を取っているか
③学会で評価されているか
①以外、すべて事後的な評価になる。
そもそも有名出版社だったら、何なのか。
いや、実はこれが事実上の査読なのである。
有名出版社の場合、出版にこぎつけるには、複数の編集者による「査読」を通らなければならない。
学術的な意義はどうか。そして、何部売れそうか。
学術的意義だけでなく、商業的なハードルも越えなくてはいけない。
英語の本の場合、商業的なハードルは若干低いのだが、研究者による査読がある(場合がある)。
これに比べると、日本の本は実に奇妙な評価基準であると言わねばならない。
しかし、日本式の有力編集者による「査読」は、かなり実を伴っている。
それゆえ、実質的に機能している。だから、どうしても評価基準として捨てられないのである。
もちろん、②・③は事実上のピア・レビューなので、納得してもらえるとは思う。
ただ、ここで重要なのは、その価値を示すには、出版それ自体だけでなく、学会での評価を示す別の証拠を出さなければいけないということだ。
本について、もうひとつ誤解されていることがあって、
それは何かというと、論文に比べて、期待される内容のレベルが圧倒的に高いということだ。
どういうことかというと、まず理系について考えてみたい。
理系の場合、インターナショナルな学術誌のなかでも、ランクの高い学術誌での掲載は、自動的に価値が高いはずである。
ところが、文系の場合、論文一本で明らかにできることに限りがあるため、
どうしても最終的に本(モノグラフ)のかたちで論じることが求められる(一部の経済学や心理学などの領域を除く)。
本(モノグラフ)の場合、要求される内容の量がとんでもなく多い。
論文のなかでは簡単に触れるだけで済んだ部分も、長尺で論じなくてはならない。
だから、誤魔化しがきかない。
しかも、日経新聞を読んでいる層全体に理解してもらえるくらいの分かり易さを要求される。
文系の研究の場合、広くエリートに理解してもらえることを目指す必要がある。
本はその点、売れる必要があるため、必然的に分かり易くせざるをえない。
それゆえ、文系の場合、本(モノグラフ)の評価が高いのである。
理系の研究者から見ると、本の評価が高いことが理解できないため、
文系の人たちが査読を嫌がって本を出していると誤解してしまうことがある。
違うんだ、そうじゃないんだ。