それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

日野氏の件:体罰は麻薬

2017-09-06 08:23:09 | テレビとラジオ
 今更ながら、日野皓正氏の件について少しだけ書いておきたい。

 この件について考える場合、まず2つのことを分けるべきだ。

 ひとつは、教育一般で体罰が禁止であること。

 もうひとつは、あのイベントのあの場面での行為がどういう種類の暴力なのか、ということ。



 教育一般では、体罰が禁止である。

 これは単にヨーロッパを中心とした世界的な潮流というだけではない。

 日本の社会では、長らく体罰が習慣で、それによって多くの生徒が何らかのかたちで障害を負ってきた。

 そして、近年でもそれを原因とした自殺者が出ている。

 こうした無数の被害者の犠牲によって、日本ですら体罰が禁止になったのである。

 体罰の正当化は、教員の独裁的な空間では、極端な暴力を助長する。

 学校ぐるみで(学生よりも)教員を守る歪なシステムの内部では、体罰は麻薬のように蔓延し、被害者を出す。

 依存者も中毒者も出れば、死者も出る。

 仮に一部に薬として効いたものがいたとしても、全体で見れば薬害がすぎる。



 体罰は戦時中、軍隊内の暴力が教育現場に浸透したことで、より盛んになったと言われる。

 軍人が学校で教鞭をとるなかで、暴力が正当化されていった。

 日本は戦争に負け、新しい教育システムを導入したものの、社会と人間をすぐに変えることはできず、暴力の文化だけが残った。

 興味深いことに、2013年には女子柔道強化選手たちが指導者による暴力に対して告発を行った。

 このように、スポーツはとりわけ暴力の文化が根強く残ってしまった領域だった。

 スポーツの指導のなかで暴力を振るったとしても、パフォーマンスが良くなるわけではない。

 凄まじい速度で科学化しているサッカーやラグビーなどの世界で、多くのナショナルチームが暴力を利用していないのは、それが無駄だからだ。



 一方、音楽はどうか。

 クラシック音楽は、基本的にサディスティックな歴史を持つ。

 西洋でも、ピアノなどの教育法では、長らく暴力が利用されてきたそうだ。

 正確で間違いを許さない音楽では、暴力的な指導がどうしても根付いてしまう。

 ただ、これもスポーツと同じことで、暴力がパフォーマンスを上げるというデータはない。



 そのうえで、日野氏の件を見るとどうなるか。

 生徒が暴走して、せっかくの貴重なパフォーマンスの場が壊れてしまうなか、果たして日野氏のとった行動以外で、生徒を止める方法はなかっただろうか?

 重要なことは、日野氏の行為を簡単に正当化しないことだ。

 暴力の是非を生徒と教員の関係性にすべて還元してしまうと、生徒が暴力で一時的マインドコントロールされてしまっている場合、どうしようもない。

 しかし、日野氏を罰するというのも違う。

 問題は、社会が日野氏がとった行動以外の選択肢を真剣に考えないことなのだ。

 何度も言うが、体罰という暴力は麻薬だ。

 人間の欲望を吸い込んで、その量はどんどん増える。

 管理するのがきわめて難しい。

 だから、体罰という暴力を簡単にコントロールできるなどと奢るべきではない。