消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.198  D&Bの歴史

2007-12-13 23:15:53 | 格付け会社


 米国で初めてビジネスのための信用調査会社を興したのが、ルイス・タッパン(Lewis Tappan)であった。一八四一年、ニューヨークに設立されたマーカンタイル・エージェンシー(Mercantile Agency)がそれである。

 一八四七年、ベンジャミン・ダグラス(Benjamin Douglass)が、エージェンシーのパートナーとして参加した。一八四九年、タッパンは、会社をダグラスに譲った。タッパンは熱情的な社会改革論者であったが、これについては、後述する。

 タッパンから事業を受け継いだダグラスは、事業の質を格段に高めた。各地に現地企業の信用調査をして報告書をエージェンシーに送ってくれる調査員を育成したのである。しかも、その調査員は、各地の社会で信頼されている人物に依頼した。地元の有力者に、彼は、地元の信用調査報告を送ってくるように依頼した。

 ダグラスのエージェンシーに報告を寄せていた人から四人の大統領が出たほどである。エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)、ウリセス・シンプソン・グラント(Ulysses Simpson Grant)、グローバー・クリーブランド(Grover Cleveland)、ウィリアム・マッキンレー(William McKinley)がその大統領である。



 ダグラスがエージェンシーの後継者になった年の一八四九年、強力なライバルが登場した。オハイオ州シンシナチ(Cincinnati)に創設されていたジョン・M・ブラッドストリート・カンンパニー(John M. Bradstreet Company)である。この会社は、一八五一年から商業のに関する信用度を、格付け記号によって表現する最初の本を出版した。

 この二社の強力なライバル関係は、二〇世紀に入っても続いた。
 一八五九年、ダグラスは、マーカンタイル・エージェンシーを義弟(タッパンの孫)のロバート・グラハム・ダン(Robert Graham Dun)に譲った。ダンは、譲られた会社の名称を、R・G・ダン・アンド・カンパニー(R. G. Dun & Company)に変更した。四〇年後、会社は全米でビジネスを展開し、海外にまで進出した。

 しかし、大恐慌時、激しいライバル的競争に両社はともに耐えられなくなり、一九三三年合併することになった。新会社の名前は、ダン・アンド・ブラッドストリート(Dun & Bradstreet)で通称がD&Bであった。

  合併の主役は、ダン側の経営者、アーサー・ホワイトサイド(Arthur Whiteside)であった。彼は、情報を売るという方針を強化し、情報産業における揺るぎない地位を築いた。そして、戦後の情報技術の発達が、同社を飛躍させた。ビジネスの拡大は飛躍的であった。

 ホワイトサイドの後継者、J・ウィルソン・ニューマン(J. Wilson Newman)の時代は、情報産業の革命的発展の時期でもあった。一九六三年、ニューマンは、データ・ユニバーサル・ナンバリング・システム(Data Universal Numbering System)を導入した。このデータ処理技術の採用によって、コンピュータ時代に適合する情報産業として飛躍できたのである。このシステムは、国連、EU委員会、米国政府に採用されている。

 一九七〇年代には、さらに新しい技術であるアドバンスド・オフィス・システム(Advanced Office System=AOS)を開発した。これは、データ収集、他の情報との結合、分析をすべてコンピュータ処理して、顧客への情報を従来とは比較にならないほどの速いスピードで提供するものである。

 それまでは、情報産業を次々と吸収していたが、二一世紀になって、スリム化する方針が採用されて、ムーディーズなどを分離した。それでも、現在、世界の七五〇〇万件のビジネス情報を提供しているのである。

 創設者のルイス・タッパンは、熱烈な奴隷解放論者であり、国民的な奴隷解放運動(the Abolitionist Movement)を主導し、有名なアミスタッド号事件(Amistad Affair)での、奴隷解放論者たちが行った、最高裁への提訴費用の募金も行った人である。

 アミスタッド号事件とは、一八三九年、チンク(Cinque)というリーダーに率いられたアフリカの黒人奴隷たちが、スペインの奴隷船、アミスタッド号上で反乱を起こし、米国への亡命を求めた事件である。奴隷解放論者たちは、事件を最高裁判所にもち込み、バン・ビュレン(Van Buren)政府の決定に反して、奴隷たちを釈放することに成功した。第二代大統領、ジョン・アダムズ(John Q. Adams)も奴隷たちのために証言台に立った。



 この事件を映画化したのが、スティーブン・スピールバーグ(Steven Spierberg)の「アミスタッド」である。この映画の中では、タッパンの活躍が描かれている。一九九七年に封切られた。

 タッパンは、一八三四年に「奴隷制に反対する週間」(Anti-Slavery Week)を作り、奴隷制廃止の最初の全米運動の組織化に成功した。しかし、その年、自宅が暴徒によって焼き払われるという災難に見舞われた。翌、一八三五年にもタッパンのニューヨク事務所が焼き討ちに遭った。このときには、主としてアフリカ系米国人の労働提供によって、資財の三分の二、約束手形五〇万ドルが救出された。

 エイブラハム・リンカーンは、先述のように、エージェンシーに信用調査報告を寄せてくれる人であった。その報告はユーモアに溢れたものであった。

 その中には次のような報告があった。
リンカーンの地元、イリノイ州(Illinois)スプリングフィールド(Springfield)の雑貨商店主はネズミの出入り口をもっている。「中をじっと覗き込むためである」と。解説するまでもないのだろうが、念のために。この商店は信用できない。ネズミが走り回っているとの、殺伐とした否定的な信用調査報告になることを回避して、ネズミの穴を開けて、中を覗き込んでネズミ対峙におおわらわであるとのユーモアで、さりげなく、この商店の信用度の低さを伝えたのである。

 一八六五年、リンカーンが暴漢によって暗殺されたときには、エージェンシーの事務員は、リンカーンの法律事務所宛の報告の余白に大統領への賛辞を書いている。また、縦書きにALの文字、と枝垂れる柳の絵が描かれているリンカーン大統領の十字架型の墓石には、小さな囲みの中に墓碑銘がエージェンシーによって書かれている。そこには、「私たちの事務所は、オールド・エイブ(Abe=エイブラハムの愛称)を信用調査員としてもったことを誇りに思う」と黒く刻まれている。

 ベンジャミン・ダグラスは一八五九年に引退し、グラハム・ダンが後継者になったが、ダグラスの家族たちはその後もD&Bとは結びついている。

 タイプライターを初めて事務所に導入したのはダンであった。一台五五ドルのものを一〇〇台購入した。タイプライターによって、昔風の手書きの美しい帳簿は消えて行った。D&Bの美しい手書きの帳簿は、ハーバード大学ビジネス大学院のベーカー・ライブラリー(the Baker Library of the Harvard Univerity Graduate School of Business)に寄贈されていている。

 一八七〇年、ダンは、事務所の顧問弁護士に、チェスター・A・アーサー(Chester A. Arthur) を獲得した。アーサーは、第二一代米国大統領になった人である。アーサーは、鮭釣りをダンとしばしば供にし、親しい友人であった(D&Bのホームページ:http://www.dnb.com/us/about/company_story/dnbhistory.html)。

 別の資料で、D&Bの補足をしておく。
 D&Bの、二〇〇五年度の売上げは一四億四三〇〇万ドルであった。顧客数は、一八七〇年代には七〇〇〇事業所であったが、一八八〇年代には四万事業所にまで急拡大した。一九〇〇年には、カバーする米国の企業は一〇〇万を超えた。

 買収も旺盛に行った。一九六二年にはムーディーズを買収(二〇〇〇年に手放す)、一九八四年には百科事典のA・C・ニールセン(Nielsen)を買収(一九九六年手放す)、一九八八年にはIMS(Intercontinental Marketing Services、一九九六年手放す。コグニザント・コーポレーション=Cognizant Corporation に改名)と、人名録会社のR・H・ドナリー(Donnelley、一九九八年手放す)を買収、二〇〇三年にはビジネス情報サービスのフーバーズ(Hoover's Inc.)を買収した。しかし、見られるように、買収してはすぐに手放すようなことを繰り返してきた。一九八〇年代と九〇年代には情報メディアの買収に邁進した(http://www.ketupa.net/dnb.htm)。

 CTSH(Cognizant Technology Solutions)という情報システム、DNBiというリスクに関するデータ・ベース、先述のD-U-N-S等々が、同社が誇る情報手段である。

 インドのチェナイ(Chennai)に「予測学・分析センター」(Predictive Sciences and Analytics Center)1をもっている(http://en.wikipedia.org/wiki/Dun_&_Bradstreet)。

 二〇〇一年にダン&ブラッドストリートの名称に替えて、D&Bの通称を正式名にした。

 なお、D&Bの初期の歴史については、Sandage[2005]がある(とくに、chapters 4-6)。



 引用文献


Sandage, Scott A.[2005], Born Losers: A History of Failure in America, Harvard University
          Press.