西銘圭蔵によれば、伊波普猷は第三高等学校に入学した1900((明治33)年、京都でキリスト教に傾倒し、オルドリッチ女史のバイブルクラスに入学したと言われている。沖縄に帰郷後、メジスト教会の活動に参加したらしい。1907(明治40)年、「沖縄基督教青年会」会長を引き受けている。1913(大正2)年、自宅で「日本基督教会」の演説会を開催したりしている。
1916(大正5)年には、比嘉賀秀(ひが・がしゅう)たちとキリスト教を信じるいくつかの会派を集めて、「沖縄組合教会」を結成した。
キリスト教の布教活動を、伊波はは1921(大正10)年まで、つまり、1907年から16年間続けたことになる。
以後、伊波は、次第にキリスト教の活動から遠ざかる。蘇鉄地獄に苦しむ沖縄人の惨状の前に、経済的救済運動に着手する緊急性に気付いたからである(西銘圭蔵『伊波普猷ー国家を超えた思想』ウインかもがわ、2005年、14~15ページ)。
1928(昭和元)年9月10日、ハワイに移民していた、かつての同士、比嘉賀秀たちが作る「在ハワイ沖縄県人会」の招きで、沖縄史を語るハワイ講演旅行に旅立った。すでに伊波52歳であった。
ハワイでは、湧川清栄(わくかわ・せいえい)、新城銀次郎(しんじょう・ぎんじろう)、そして、ロサンゼルスで宮城與徳(みやぎ・よとく)と会っている。宮城のことは、前々回で紹介したが、共産主義活動をしている画家であった。
ハワイは、原住民へのキリスト教布教活動が即植民地化となった典型例である。まさに、住民が天を仰いでいる間に、足下の土地をすっかり奪われてしまったのである。
以下、日系人が、ハワイにおける社会主義運動に傾斜する必然性を説明するために、ハワイ略史を説明しておきたい(http://www.hawaii.ne.jp/info/history/index.htmによる)。
1758年、ハワイ島ココイキにカメハメハ大王が生まれる。
1778年1月、キャプテン・クックが、偶然、オアフ島を発見し、カウアイ島、ニイハウ島に上陸した。クックはこの地を当時の英国海軍大臣・サンドイッチに敬意を表して「サンドイッチ諸島」と命名した。
同年11月、ハワイに戻ってきたクックはマウイ島に上陸、翌年1月にはハワイ島を訪れるが、住民とのトラブルで殺されてしまった。この事件で、ハワイ諸島が西洋社会に知られることとなる。
クック来航以前は、ハワイでは、漁業やタロイモ栽培などの農業を中心とした、完全な自給自足状態で、当時、推定で30万人の人口がいたと言われている。
1790年、デイヴィス、ヤング両名を軍事顧問に迎え、銃と大砲を入手したカメハメハは、イアオ渓谷の戦いに勝利し、マウイ島をほぼ手中に収め、1795年には、カウアイを除くハワイ諸島の統一に成功し、王国を樹立した。1796年、首都をヒロに制定。
外国船が頻繁に来航するようになると、カメハメハ大王は白檀貿易を王朝の独占事業とし、莫大な富を得て政権の基礎とした。白檀(びゃくだん、サンダルウッド)はインドや中国で家具・仏像の原木、香料の材料として珍重され、高価な価格で取り引きされていた。白檀貿易は、1810~20年代が最盛期であったが、乱獲激しく、枯渇し、間もなく貿易も衰退してしまった(http://www.legendaryhawaii.com/history/hist02.htm)。
1802年、ラナイ島で砂糖生産が始まった。1803年、ヒロからラハイナへの遷都があった。
白檀貿易が衰えると、今度は、捕鯨船の寄港が活発になった。これは、1810年頃から始まり、1880年代まで続いた。
19世紀初め、日本近海でマッコウ鯨が発見され、米国の捕鯨船はここを有力な漁場とするようになった。彼らは3、4月頃にハワイに寄港して準備を整え、5月頃出航、そして9月頃に帰路、再びハワイに立ち寄る、というサイクルであった。オアフ島ホノルルとマウイ島ラハイナが主要な寄港地として賑わい、最盛期の19世紀半ばには、年間400隻の捕鯨船が来航していたという。
また、捕鯨船に塩漬けの肉を売るため、塩および牛肉の生産が盛んになり、パーカー牧場などが開かれる。野菜、果物、コーヒーの生産も始まる。
捕鯨船団への艤装と捕鯨船員の供給、等々で、当時で年間数十万ド、という大きな収入になっていたという。
しかし、鯨もまた乱獲による枯渇、石油採掘産業の発達による鯨油需要の低迷、南北戦争勃発などの要因が重なり、捕鯨産業そのものが衰退した。
1810年、カウアイ島、ニイハウ島も王国に併合される。
1816年、座礁したベーリング号奪回の交渉役として派遣された船医シェーファーが会社に独断でカウアイのカウムアリイ王と密約を結び、ワイメア河口にロシア砦を建設。カメハメハ大王との仲が険悪になるが、結局シェーファーはカウムアリイに追放される。
1819年 ハワイ島カイルア・コナにおいてカメハメハ大王死去。大王夫人のカアフマヌがカプー(禁忌)制度を廃止。
そして、1820年、カルビン派がキリスト教の布教を開始する。彼らは、小さな船「タデウス号」で、ボストンから苦労して、南米ホーン岬を越え、ハワイにやってきた。宣教師たちが、崇高な宗教的精神の持ち主であったことは確かであろう。しかし、結果的に、キリスト教がハワイを植民地に追いやる強力な武器となった。後に、ハワイを経済的・政治的・社会的に支配することになった人たちの出自は、牧師であった。
1916(大正5)年には、比嘉賀秀(ひが・がしゅう)たちとキリスト教を信じるいくつかの会派を集めて、「沖縄組合教会」を結成した。
キリスト教の布教活動を、伊波はは1921(大正10)年まで、つまり、1907年から16年間続けたことになる。
以後、伊波は、次第にキリスト教の活動から遠ざかる。蘇鉄地獄に苦しむ沖縄人の惨状の前に、経済的救済運動に着手する緊急性に気付いたからである(西銘圭蔵『伊波普猷ー国家を超えた思想』ウインかもがわ、2005年、14~15ページ)。
1928(昭和元)年9月10日、ハワイに移民していた、かつての同士、比嘉賀秀たちが作る「在ハワイ沖縄県人会」の招きで、沖縄史を語るハワイ講演旅行に旅立った。すでに伊波52歳であった。
ハワイでは、湧川清栄(わくかわ・せいえい)、新城銀次郎(しんじょう・ぎんじろう)、そして、ロサンゼルスで宮城與徳(みやぎ・よとく)と会っている。宮城のことは、前々回で紹介したが、共産主義活動をしている画家であった。
ハワイは、原住民へのキリスト教布教活動が即植民地化となった典型例である。まさに、住民が天を仰いでいる間に、足下の土地をすっかり奪われてしまったのである。
以下、日系人が、ハワイにおける社会主義運動に傾斜する必然性を説明するために、ハワイ略史を説明しておきたい(http://www.hawaii.ne.jp/info/history/index.htmによる)。
1758年、ハワイ島ココイキにカメハメハ大王が生まれる。
1778年1月、キャプテン・クックが、偶然、オアフ島を発見し、カウアイ島、ニイハウ島に上陸した。クックはこの地を当時の英国海軍大臣・サンドイッチに敬意を表して「サンドイッチ諸島」と命名した。
同年11月、ハワイに戻ってきたクックはマウイ島に上陸、翌年1月にはハワイ島を訪れるが、住民とのトラブルで殺されてしまった。この事件で、ハワイ諸島が西洋社会に知られることとなる。
クック来航以前は、ハワイでは、漁業やタロイモ栽培などの農業を中心とした、完全な自給自足状態で、当時、推定で30万人の人口がいたと言われている。
1790年、デイヴィス、ヤング両名を軍事顧問に迎え、銃と大砲を入手したカメハメハは、イアオ渓谷の戦いに勝利し、マウイ島をほぼ手中に収め、1795年には、カウアイを除くハワイ諸島の統一に成功し、王国を樹立した。1796年、首都をヒロに制定。
外国船が頻繁に来航するようになると、カメハメハ大王は白檀貿易を王朝の独占事業とし、莫大な富を得て政権の基礎とした。白檀(びゃくだん、サンダルウッド)はインドや中国で家具・仏像の原木、香料の材料として珍重され、高価な価格で取り引きされていた。白檀貿易は、1810~20年代が最盛期であったが、乱獲激しく、枯渇し、間もなく貿易も衰退してしまった(http://www.legendaryhawaii.com/history/hist02.htm)。
1802年、ラナイ島で砂糖生産が始まった。1803年、ヒロからラハイナへの遷都があった。
白檀貿易が衰えると、今度は、捕鯨船の寄港が活発になった。これは、1810年頃から始まり、1880年代まで続いた。
19世紀初め、日本近海でマッコウ鯨が発見され、米国の捕鯨船はここを有力な漁場とするようになった。彼らは3、4月頃にハワイに寄港して準備を整え、5月頃出航、そして9月頃に帰路、再びハワイに立ち寄る、というサイクルであった。オアフ島ホノルルとマウイ島ラハイナが主要な寄港地として賑わい、最盛期の19世紀半ばには、年間400隻の捕鯨船が来航していたという。
また、捕鯨船に塩漬けの肉を売るため、塩および牛肉の生産が盛んになり、パーカー牧場などが開かれる。野菜、果物、コーヒーの生産も始まる。
捕鯨船団への艤装と捕鯨船員の供給、等々で、当時で年間数十万ド、という大きな収入になっていたという。
しかし、鯨もまた乱獲による枯渇、石油採掘産業の発達による鯨油需要の低迷、南北戦争勃発などの要因が重なり、捕鯨産業そのものが衰退した。
1810年、カウアイ島、ニイハウ島も王国に併合される。
1816年、座礁したベーリング号奪回の交渉役として派遣された船医シェーファーが会社に独断でカウアイのカウムアリイ王と密約を結び、ワイメア河口にロシア砦を建設。カメハメハ大王との仲が険悪になるが、結局シェーファーはカウムアリイに追放される。
1819年 ハワイ島カイルア・コナにおいてカメハメハ大王死去。大王夫人のカアフマヌがカプー(禁忌)制度を廃止。
そして、1820年、カルビン派がキリスト教の布教を開始する。彼らは、小さな船「タデウス号」で、ボストンから苦労して、南米ホーン岬を越え、ハワイにやってきた。宣教師たちが、崇高な宗教的精神の持ち主であったことは確かであろう。しかし、結果的に、キリスト教がハワイを植民地に追いやる強力な武器となった。後に、ハワイを経済的・政治的・社会的に支配することになった人たちの出自は、牧師であった。