奈良東大寺のお水取りについては、誰しも知っている、春を呼ぶ伝統的行事である。しかし、主役の水は、若狭からきた水であるとされていることを知る人はそれほど多くはないのではないか。地形的に見て、そのようなことはあり得ないことである。でも、中央政権の権力の権化である東大寺が、なぜ、遠い若狭の水を神聖視しなければならないのだろうか。越前・若狭の地が、奈良の大寺院の荘園として開かれたことはすでにこの日記で見た。しかし、自己の支配地の水が、神事に使われるほど神聖ななものであるとされた事情は、なんだろうか。奈良の権力者たちの出自が、越前・若狭にあったと見なす方が自然であろう。
私たちが、「お水取り」といっている東大寺の行事は、正式には「修二会」という行法である。毎年、2月20日から3月15日まで行われる。関西地方では、お水取りが済まなければ本格的な暖かさは来ないという合い言葉がある。不思議なほどこの合い言葉は当たっている。三寒四温であった天候が、お水取りが終わるや否や、しっかりと暖かくなる。修二会のクライマックスは、3月12日に二月堂で行われる松明の儀式である。毎年、テレビがその模様を日本中に放映する。
この修二会は、天平勝宝4年(752年)に始まった。千数百年続いている行法である。この業法に使われる水のことを「香水」という。その香水は若狭の国の遠敷川の水であるとされる。遠敷川の神水が、地下を通って奈良の都まで運ばれると信じられている。
修二会の行法は、一日を6分割して行われる。これを「六時行法」という。そして6分割する道具が「香時計」である。現在でも、香時計が修二会で使用されている。写真がその香時計である。
福井県大飯郡おおい町名田庄納田終111-7に暦会館という資料館がある。安倍晴明の陰陽道を中心とする天文学を解説する資料が集められた会館である。香時計がこの会館に展示されている。現在は大飯郡おおい町と地名変更してしまったが、どうしてこの地区は、歴史的な名前を捨ててしまったのだろう。ものすごい勢いで市町村合併が昨年に進行したが、単純なコスト・ベネフィット効果の算出だけで合併が強行された。どの地域も歴史的遺産を踏みにじり、町名は単なる記号になってしまった。もったいないことである。大飯郡に変更される前は、福井県遠敷郡だったのである。
この名田納田終には、「天社土御門神道本庁」という陰陽道の本庁がある。現在は、藤田義仁氏が司官を務められている。同氏は、今月の7月6日のNHKテレビで七夕祭りの元祖としての陰陽道の天文学について解説しておられた。ただし、私は、福井でその番組を見たので、全国放送ではなく、福井だけのローカル番組であったのかも知れない。藤田氏が、七夕祭りの短冊の五色は陰陽道の五行から来ていると解説されたことに強烈な示唆を私は受けた。
天社土御門神道本庁の入り口には、星のマーク、五芒星が描かれた提灯が掲げられている。床の間には松明をかざす式神と安倍晴明の画像が掛けられている。
ここは、土御門家(安倍一族)の旧所領地で陰陽道祭祀の地である。応仁の乱の戦火を逃れて土御門家が、自己の知行地であった名田庄に分霊を遷宮し祀った。安倍家が関わる神社は、この地以外に、善積川上神社がある。この神社が安倍家の御霊社である。
賀茂神社、貴船神社のような格式の高い神社ですら安倍家由来のものである。鬼門封じとしてこれら神社を安部家が天皇に勧請して、いまの地に配置されたものである。
これは非常に面白い。日本の官幣神社の多くが、安倍家のような陰陽道を基盤として成立していたらしいことは、日本の神道の対民衆対策として軽視していいものではない。日本の神道の神官のみならず、仏教までもが、民衆の敬意を得るべく、陰陽道の天文学的占いを大きな武器にしてきたと副島隆彦氏が最近強調されるようになった。氏の着想が非常に貴重なので、後日、稿を改めて紹介したい。
安倍晴明は延喜21年(921年)に生まれ、寛弘2年(1005年)9月26日に逝去している。85歳まで生きたとされる(真相は不明、晴明死後、数百年経過して作成された『土御門家記録』による)。
晴明の出自にもいろいろな説明がある。『臥雲日件録』では、父母はなく、「化生之者」と記されている。晴明が信田明神である狐の子であったという伝承はかなり古くからある。浄瑠璃では、晴明(清明と表記される)の母は「葛の葉」という白狐であったが、晴明に狐である姿を見られたので、「恋しくば尋ねてきてみよ和泉なる信太の森野うらみ葛の葉」と書き残して信太の森(大阪府和泉市信太山付近)に隠遁した。恋しくて尋ねてきた晴明に、母の白狐は霊力を授けた。晴明は、大唐の白道上人から『金烏玉兎集』(きんうんぎょくとしゅう)を授与された。その後、天皇の病を治したので五位に叙され、「晴明」と名乗ることを許されたとある。
その反対に、そもそも貴族であったという説明もある。『尊卑分脈』では、右大臣・安倍御主人(みうし)から数えて9代目の安倍益材(ますき、大膳大夫)の子として紹介されている。同書は、晴明を天文博士、従四位下であると記し、大善大夫、左京権大夫、穀倉院別当、等々を歴任したとされる。
「あべ」という表記は、二種類ある。「安倍」と「阿部」である。有名な『竹取物語』の中でかぐや姫に求愛した貴公子の一人が「右大臣・阿部御主人」とされている。これは、安倍御主人と同一人物と見なしてもいいものと思われる。
『公卿補任』(くぎょうぶにん)、「大宝3年(703年)閏4月1日」の項では、右大臣・阿部御主人を「安倍氏陰陽先祖也」と紹介されている。
出生地については、讃岐ではないかとされている。『讃陽簪筆録』(さんようしんぴつろく)では、讃岐国香東(こうとう)郡井原庄に生まれたと記されている。『西讃府志』(せいさんふし)では讃岐国香川郡由佐の人とされている。
私の知人に、高松の名家、「安倍」姓の某氏がいる。機を見て、おずおずと話を聞いてみようと思っている。
安倍家は、住居を定めた土御門の名を取って土御門家と言われる。平安京を悪霊から守護するという役割を与えられていた。
安倍晴明が活躍した頃の平安京は、今の京都の中心地よりもかなり西寄りに位置していた。都の中心となる南北の大通りである朱雀大路は現在の千本通りである。平安京の中心部は、今の千本丸太町であった。朱雀大路の北の門である朱雀門は、現在の二条城付近にあった。朱雀大路の南端が羅生門であった。都の北端は一条大路、南端は九条大路であった。朱雀大路の両脇が東大宮大路と西大宮大路であり、もっとも外側が東京極(ひがしきょうごく)大路と西京極大路であった。朱雀大路の南端の羅生門の近くには東寺(いまのもの)と西寺(せいじ)があった。東寺は朱雀大路の東、朱雀大路を挟むその反対側(西側)に西寺があった。現在、東寺だけが残されている。
安倍晴明の屋敷は、土御門にあった。平安京の表鬼門(北東北)を守る意味があってそこを屋敷にしたのである。土御門は、現在の上京区の、上長者町と西洞院が交錯する地点にある。これは、東寺の陰陽寮の近くであった。この寮は、暦を作る任務を負っていたのであるが、宮中で陰陽道が正式に認められていたことがここからも分かる。
安倍晴明は、真如堂で死亡したとされる。嵯峨野に葬られた。晴明墓所という。
平安京の時代、それこそ無数の死者や動物の死骸が嵯峨野に捨て去られていた。そのために、京の人々は、嵯峨野を悪霊や怨霊の渦巻く地として恐れていた。東寺の弘法大師がこれら無数の骸を集めて埋葬し、供養したのが、「化野(あだしの)の念仏寺」である。
陰陽道につては、簡単に述べることができないほど、複雑なものであるが、陰と陽、五行(水・金・土・火・木)を組み合わせて、自然現象と運勢を占うものである。とくに、天文学の知識が基本になっている。陰陽寮で、地相、天文、暦、占い、等々が研究されていたのである。この陰陽寮の研究生として晴明は修行していた。陰陽師になったのは、やっと40歳代後半であった。50歳を過ぎて陰陽頭に昇進した。陰陽道を修得するにはそれほどの時間がかかったのであろう。天文博士の最高位が陰陽頭であるが、それでも最高位は従五位程度であった。しかし、晴明はさらに昇進し、従四位の中級貴族になった。
晴明は家紋に晴明桔梗を使用した。これは、いわゆる五芒星である。私たちが子供の頃からよく書いていた五角形の星のマークである。
五芒星というのは、ギリシャではビーナス(金星)、あるいはペンタゴンである。平和の女神ビーナスが米国防省のシンボルになっているのは異様な光景である。
それはさておき、晴明桔梗の五芒星は北極星を意味している。土御門家が北極星を主神として祀っていたのは、中国の陰陽道を受け継いだものとして不思議でもなんでもないが、日本のもっとも基礎の位置にある伊勢神宮でも「太一信仰」が密かに存在していたとされる。北国星はそこでは、「太一(たいち)星」と呼ばれていた。私ごとで申し訳ないが、私も長男に「たいち」という名を着けた。名前が大きすぎたといささか反省してはいる。
五芒星の頂点はから左に回った最初の頂点は「水星」を指す。後、左回りに、それぞれの頂点が、「金星」、「土星」、「火星」、そしてもっとも上の頂点は「木星」である。この頂点の並びについては覚えやすくて、左上の頂点から「水・金・地・火・木」(すいきんちかもく)という昔、覚えた順序で唱え、地球の「地」に代えて、土(ど)星を挿入すればよいのである。
土御門家の人々は、の名田庄に移住した後も、朝廷における陰陽寮の長官として、都と名田庄を頻繁に往来し、朝廷や将軍家のための占術、伊勢神宮・斎宮斎女(サイグウサイジョ)に関わる天文占いなども行ってきた。
土御門家の記録は、度重なる戦火にあい焼失したものも多いが、宮内庁書陵部(ショリョウブ)や東京大学、京都資料館に数多く保管されている。他にも各地に未整理のまま散乱している資料も多い。
そこでこういった資料を集め、名田庄に保存されていた古暦、文書、史蹟の保存をし、展示すべく、暦の資料館が名田庄にできたのである。写真にある、当時用いられていた「香時計」などの作暦・天文観測用具などが、保管展示がなされている。貴重な資料館である。