消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

野崎日記(439) 韓国併合100年(78) 日本のキリスト教団(1)

2012-08-28 11:30:57 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 韓国併合と日本のキリスト教団
 

 はじめに


 いずれの組織にも、意見の相違がある。組織が大きければ大きいほど、組織内での意見は多様に分岐する。それゆえ、組織の機関誌がある主張を掲載したからと言って、その組織全体が掲載された主張によって支配されていたと見なすことは危険である。しかし、それでも、組織の指導者たちが、権力に媚びた時代はあったという事実に目を背けてはならないだろう。自らを権力による弾圧の受難者であったと位置付けることが一般的になったが、実際には、必ずしもそうとは言い切れないのである。いずれの組織であれ、辛い過去の事実は直視されなければならない。

 一八九〇年三月一四日(第一号)から翌年九一年二月二七日(第五一号)まで続いた『福音週報』という日本基督教会の機関誌があった(植村[一七九七]、http://www.library.musashino.tokyo.jp/aizo/aizopage2-a.htm)。この機関誌は、一八九一年三月二〇日号から『福音新報』に改称されて、一九四二年九月二四日まで続いた(http://sinbun.ndl.go.jp/cgi-bin/outeturan/E_N_id_hyo.cgi?ID=015090)。

 この『福音週報』第四二号(一八九〇年一二月二六日付)に次のような文が掲載された。要約する。

 <いま、まさに殖民の時代が開始されようとしている。この時にキリスト教徒にはなすべきことがある。これまでと同じように、国内布教でよしとしている時ではない。海外の殖民にキリスト教の霊魂を与えるべく海外布教すべきである。仏教はすでにそうした事業を開始している。西洋の宣教師も同じく海外に乗り出している。そうしたことを傍観すべきではない。日本のキリスト教も、日本人の海外移住者の霊魂を慰めるべきである。海外に移住する日本人はとくに優等な人たちだからである>(T・K「殖民と基督教」、『福音週報』福音週報社、小川・池[一九八四]、一六ページ所収)。

 その二年後の一八九二年一〇月二一日付の『福音新報』(第八四号)には、苦学生の海外移住を支援する「日本力行会」の創設者であった島貫兵太夫(しまぬき・ひょうだゆう)の露骨な朝鮮布教論が掲載された。これも要約する。

 <日本は東洋の盟主である。宗教・政治・教育・技芸などの百般において、日本は東洋における冠たる位置にある。我々は、東洋諸国を導く責任がある。私は、朝鮮に渡っていろいろなことを見聞してきた。その結果、東洋に伝道することが日本の天職であると確信するに至った。朝鮮を救うのに最適な国は日本をおいてはない>(「往て朝鮮に伝道せよ」、『福音新報』福音新報社、川瀬[二〇〇九]、六〇ページより転載)。

 島貫は続ける。<日本は、キリスト教の伝来によって大きく啓発された。日本はこの恩恵を朝鮮人に伝えるべきである>、<韓国人でも下等な階級は、日本人を加藤清正や小西行長のような恐ろしい人間と見なしている。しかし、少しでも教育のある韓国人は、日本人を支那人よりも進歩した人間であるとの認識を持っていて、日本人の真似をしている>(川瀬、同、六一ページより転載)。

 この二つの記事は、日清戦争前のものであった。すでにこの時点で、『日本新報』の機関誌の編集者たちは、日本の朝鮮支配の予感を持っていたのである。
 そして、日本は日清戦争で勝利した。その時点での『福音新報』には、天を仰ぎたくなる記事が掲載された。要約する。

 <戦争が破壊的なものであることは否定できない。しかし、戦争は、現実には文明の使徒である。文明国である日本は、野蛮な支那に打ち勝った。これぞ、日本が文明の使徒の役割を果たしたことである。戦争は、文明国が野蛮国に与える鞭である>(川瀬、同、六二ページから転載)。以下、国家の対外膨張と自らの布教の軌跡を一致させてるという性向をプロテスタント各派は、無意識にせよ持っていたことを示す。


野崎日記(438) 韓国併合100年(77) 廃仏毀釈(11)

2012-08-10 12:24:00 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 引用文献

家永三郎・松永昌三・江村栄一編[一九八五]、『明治前期の憲法構想』福村出版。
稲田正次[一九六〇]、『明治憲法成立史』(上)有斐閣。
井上円了[一八八七]、『仏教活論・第一篇破邪活論』哲学書院。
井上順孝ほか編[一九九六]、『新宗教教団・人物事典』弘文堂。
尾佐竹猛[一九八五]、「日本国憲法制定史要」、家永ほか編[一九八五]所収。
神坂次郎[一九九四]、『天鼓鳴りやまず・北畠道龍の生涯』中公文庫。
國學院大學日本文化研究所編[一九九九]、『縮刷版・神道事典』弘文堂。
小林志保・栗山義久[二〇〇一]、「排耶書『護国新論』、『耶蘇教の無道理』にみる真宗本
     願寺派の排耶運動」、『南山大学・図書館紀要』第七号。
桜井匡[一九七一]、『明治宗教史研究』春秋社。
菅田正昭[一九九四]、『古神道は甦る』(タチバナ教養文庫)橘出版。
朝鮮開教監督部編[一九二九]、『朝鮮開教五十年誌』大谷派本願寺朝鮮開教監督部。
中尾祖応編[一九〇二]、『甫水論集』東京博文館。
中島三千男[一九七六]、「大日本国憲法第二八条「信仰自由」規定成立の前史─政府官僚
     層の憲法草案を中心に─」、『日本史研究』一六八号。
西村寿行[一九八四]、『虚空の影落つ』徳間文庫。
萩原延壽[二〇〇八]、『帰国・遠い崖8・アーネスト・サトウ日記抄』朝日新聞社。
福沢諭吉[一八七三]、『改暦弁』慶應義塾大学出版会。
藤田正勝・安富信哉[二〇〇二]、『清沢満之』法蔵館。
二葉憲香・福嶋寛隆編[一九七三~七八]、『島地黙雷全集』(全五巻)本願寺出版協会。
三上一夫[二〇〇〇]、「護法一揆」、『日本歴史大事典2』小学館。
峰島旭雄[一九七一]、「明治期における西洋哲学の受容と展開(7)─井上円了の排耶論
     ─」、『早稲田商学』一二月号。
三宅守常編[二〇〇七]、『三条教則衍義書資料集』(全二巻)錦正社。
安丸良夫・宮地正人編[一九八八]、『日本近代思想大系5・宗教と国家』岩波書店。
吉田久一[一九八五]、「護法一揆」、『国史大辞典5』吉川弘文館。


野崎日記(437) 韓国併合100年(76) 廃仏毀釈(10)

2012-08-09 12:23:19 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(23) 当時の駐日英国公使のハリー・パークス(Harry Smith Parkes)が、一八七一年に賜暇のために英国に帰国中、アダムズが代理公使となった。パークスは、賜暇休暇中の一八七二年、訪英中の岩倉具視、駐英公使・寺島宗則と会見し条約改正問題について話し合っている(http://www.kaikou.city.yokohama.jp/document/kaigai/gov-england_02.html)。

(24) 周知のことだが、慶応四(明治元)年~明治二年(一八六八~六九年)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った戦争である。慶応四年の干支が戊辰であったことに由来する。明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。

 この戊辰戦争が続いている慶応四(一八六八)年三月一四日(新暦では四月六日)、福井藩出身の参与・由利公正(ゆり・きみまさ)と土佐藩出身の参与・福岡孝弟(たかちか)が原案を書き、木戸孝允・岩倉具視・三条実美(さねとみ)が文章を編集した「五箇条の御誓文」が発布された。「五箇条の御誓文」は、京都御所の紫宸殿(ししんでん)において神道の形式である「天神地祇御誓祭」に則って発表されたものである。

 それより先の慶応三(一八六七)年一二月九日(新暦では一八六八年一月三日)に「王政復古の大号令」が出された。これは、薩摩藩などが、起こした一種のクーデターであったが、その際、朝廷側の岩倉具視は、天皇は神であると言い、「建武の中興」(注・後醍醐天皇の新政)ではなく、「神武創業」(注・記紀の神話時代)』が明治政府の主権理念として採用されるべきであると強く主張した。この主張から、天皇家は、神話時代の初代・神武天皇から続く「万世一系の系譜」に公式に位置付けられることになったのである。

 「五箇条の御誓文」の第五条には、「智識を世界に求め、大いに、皇基(こうき)を振起(しんき)すべし」とある。先進的・実用的な知識は、世界に求めるが、国の基本形は、天皇主権の統治の基盤を発展させようと主張したものである(http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/vision/history001/meiji001.html)。

(25) 赤松連城の娘・安子が、京都岡崎の本願寺派願成寺(がんじょうじ)の次男・与謝野照幢(よさの・しょうどう)と結婚した。照幢は赤松家の養子に入った。照幢の実弟が与謝野鉄幹である。照幢は、義父・連城の援助を受けながら、明治二〇(一八八七)年、「私立白蓮女学校」(後の徳山女学校)を創設した。この時に、国語教師として招かれたのが弟の鉄幹である。鉄幹は、徳山で、明治二二(一八八九)~二五(一八九二)年にかけて徳山の地に留まった(http://www.tokutuu.co.jp/tokuyama/tokuyama.htm)。

(26) 当時の西本願寺の改革派は、長州出身者が支配的勢力であったが、同じ改革派でありながら、長州閥に抵抗した僧侶もいた。北畠道龍(きたばたけ・どうりゅう)である。道龍は僧侶でありながら、軍事の才があり、第二次長州征伐の戦闘では一隊を率いて奇兵隊を蹴散らし、幕府軍の中で孤軍気を吐いた。維新前後には和歌山藩の兵制をプロシア式に改革した。紀州出身の北畠道龍は、西本願寺の改革派ではあったが、宗門内の長州閥グループと激しく対立していた。明治一二(一八七九)年、道龍は明如法主を東京に連れ去り、本願寺の東京移転と西本願寺派の大粛正を宣言し、宗門を大混乱に陥れた。この騒動は、明如の京都帰還によってひとまず治まったが、明治一四(一八八一)年、道龍は海外視察の命を受けて長期間外遊。帰国後、再び仏教改革の獅子吼を発した道龍ではあったが、僧籍を剥奪され、大阪の陋巷に逼塞してその生を終えた。伝記に(神坂[一九九四])がある(http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/eye5.html)。

(27) 井上円了(一八五八~一九一九年)は、現在の新潟県長岡市浦の真宗大谷派慈光寺の長男として誕生、新潟学校第一分校(旧長岡洋学校)で洋学を学ぶ。明治一一(一八七八)年、東本願寺の留学生として上京し、明治一四(一八八一)年に設立間もない東京大学文学部哲学科にただひとりの一年生として入学。勉学を通して「洋の東西を問わず、真理は哲学にあり」と確信する。ここでいう哲学とは、「万物の原理を探り、その原理を定める学問」であり、それは観念的演繹的な哲学ではなく、事実と実証にもとづく哲学であるというのが、井上の哲学観であった。

 「ものの見方・考え方」の基礎を身に着けることが日本の近代化につながると確信し、私立の教育機関創立へと行動を起こす。そして明治二〇(一八八八)年、二九歳という若さで「私立哲学館」(現在の東洋大学の前身)という哲学専修の専門学校を創設した。学校開設の翌年から「哲学館講義録」を発行して、通学できない者にも勉学に機会を与えた。

 全国各地を巡回し一般民衆を対象に講演活動を行った。迷信打破を説いた妖怪学者としても有名であった(http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kankou/rekishi/ijin/i-enryo.html 、および、http://www.toyo.ac.jp/founder/enryo_00_j.html)。


野崎日記(436) 韓国併合100年(75) 廃仏毀釈(9)

2012-08-08 22:21:58 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(17) 浄土真宗の宗派は、親鸞の血脈を継ぐ東本願寺と西本願寺の二派と、門弟の流れを継ぐ八派がある。明治維新後の宗教再編時、現在の浄土真宗本願寺派(西本願寺)のみ「浄土真宗」として、他は単に「真宗」として宗教登録されている。以下、一〇派を記す。括弧内は本山と所在地である。①浄土真宗本願寺派(本願寺(西本願寺)、京都市下京区)、②真宗大谷派(真宗本廟(東本願寺)、京都市下京区)、③真宗興正(こうしょう)派(興正寺、京都市下京区)、④真宗仏光寺(ぶっこうじ)派(仏光寺、京都市下京区)、⑤真宗誠照寺(じょうしょうじ)派(誠照寺、福井県鯖江市)、⑥真宗山元(やまもと)派(證誠(しょうじょう)寺、福井県鯖江市)、⑦真宗出雲路(いずもじ)派(毫摂(ごしょう)寺、福井県武生市)、⑧真宗三門徒(さんもんと)派(専照(せんしょう)寺、福井市)、⑨真宗高田(たかだ)派(専修(せんじゅ)寺、三重県津市)、⑩真宗木辺(きべ)派 (錦織(きんしょく)寺、滋賀県野洲(やす)市)(http://www.kyototsuu.jp/Temple/SyuuhaJyoudoSinSyuu.html)。

(18) 不発に終わった教導職の活動であったが、教導職階級名称は、教導職廃止後も、いくつかの教派神道や仏教宗派において教師の階級として残った。一四の階級は、以下の通り。①大教正(だいきょうせい)、②権大教正(ごんだいきょうせい)、③中教正、④権中教正、⑤少教正、⑥権少教正、⑦大講義、⑧権大講義、⑨中講義、⑩権中講義、⑪少講義、⑫権少講義、⑬訓導、⑭権訓導。

 なお、教派神道とは、教導職が廃止された時に国家によって統制されていた神道から分かれて独立した一三の派のこと。明治九(一八七六)年、①神道修成派と②黒住教が独立。明治一五(一八八二)年、③大成教、④神習教、⑤御嶽教、⑥出雲大社教、⑦実行教、⑧扶桑教が独立。明治一七(一八八四)年、教導廃に伴い、神道事務局の教導達は「神道局」という名の宗派を立てる。これが昭和一五(一九四〇)年に⑨神道大教となる。明治二七(一八九四)年、「神道局」から⑩神理教が独立。明治二九(一八九六)年、⑪禊教が独立。明治三三(一九〇〇)年、⑫金光教が独立。明治四一(一九〇八)年、天理教が独立(井上順孝ほか編[一九九六];國學院大學日本文化研究所編[一九九九];http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kyoha.htmより)。

(19) 廃仏毀釈の猛威と関連して生じた明治初期の信濃の一揆に関する西村寿行の感動的な小説がある。さわりを引用しょう。字数の関係で原文の改行を無視している。

 「千国街道は日本海の糸魚川から姫川沿いに松本平に至る塩の道である。名にし負う豪雪地帯だ。ために、千国街道は山の峰近くを通っている。雪崩、落石を避けるためだ。信濃では日本海から入る塩を北塩という。太平洋から運び込まれる塩は南塩と呼ぶ。海のない信濃国では、塩は貴重であった。塩は黒牛が運ぶ。馬では冬場の雪は越せないからだ。牛方は牛をだいじにする。宿駅では小舎に牛とともに眠る。塩を運んで家族を支えてくれる牛はいのちにも変えられないくらいたいせつであった。その牛が、死ぬ。吹雪に道を失って崖から落ちることもある。黙々と働きつづけて若死にするものもある。凍結に足をとられるのもある。牛方は号泣をあげる。牛の死体に取り縋って泣く。牛方は石工にたのんで地蔵菩薩を彫る。馬頭観音を刻む。牛の死んだ峠に建てて供養するのである。千国街道にはおびただしい石仏が祀られている。どの石仏にもものいわぬ悲しみがこもっている。ひとびとは通りすがりに、それらの石仏に野花を供える。ほとんど麦ばかりの握り飯を供えてゆく者もある。松本藩知事、戸田光則は、それらの石仏の首を打ち落とすように命じた。平田国学に心酔する大参事、稲村九兵衛、その部下の岩崎作造らが戸田の廃仏毀釈を補佐した。藩士は狂奔した。野にある石仏、街道にある道祖神、供養塔、念仏塔すべてを打ち壊して回った。明治二年七月、戸田光則は明治政府によって松本藩知事に任命された。それにすがるように、戸田は明治維新政府への迎合姿勢を露骨に示した。政府の神仏分離策に盲従したのだった。千国街道にあるおびただしい石仏はすべて破壊し尽くされていた」(西村[一九八四]、六~七ページ)。

(20) 高橋和己の小説『邪宗門』((全二巻)河出書房新社、一九六六年、のち新潮文庫、角川文庫、講談社文庫、朝日文庫)で人口に膾炙した「邪宗門」は、権力が正当性を認めない宗門のことをいう。豊臣秀吉が一五八九年に出した「伴天連追放令」以後、日本における正当な権力を認める宗門が「正法」(正しい宗教)であり、これを認めない宗門は日本の正統な国家秩序を破る「邪法」を信じる宗門、すなわち「邪宗門」であるとの位置付けが行われ、江戸幕府もこれを継承した。一般民衆は、キリスト教=邪宗門とする観念を植え付けられた。

 慶応四年三月一四日(新暦で一八六八年四月六日)、明治新政府は「五箇条の御誓文」を公卿や大名向けに発布したが、その翌日、全国に五つの高札を張り出した。これを「五榜の掲示」(ごぼうのけいじ)という。三つめの高札には、「切支丹邪宗門」の禁止という言葉があった。外国からの抗議を受けて、旧暦の閏四月四日に、「切支丹」と「邪宗門」を別々に書き分けて、それぞれを禁止すると言い換えたが、新政府の権力者は、明らかにキリスト教=邪宗門という認識を持っていた。「邪宗門」という名を冠した文芸作品には、高橋和己以外に、芥川龍之介、北原白秋のものがある。芥川龍之介の『邪宗門』は、一九一八年一〇月から『大阪毎日新聞』に連載されていたが、未完のままであった。北原白秋の詩集『邪宗門』は処女詩集(一九〇九年)であり、邪宗門に落ちた自らを父に対して謝った内容である(http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kou-moku-tougou1/kou-moku42/kou-moku42a0.htmなど)。

(21) 国立図書館憲政資料室に所蔵されている『青木周蔵文書』の「文書(その一)」には、以下のような目録が付けられている。「1. 帝号大日本政典草案(一八七二年八月一日、木戸公より依頼によりて起草せし憲法原案)。2. 大日本政規(一八七二年冬ロンドン客中、木戸公の命により起草)。3. 青木周蔵書簡草稿(一八七三年四月一五日、在伯林公署より井上伯へ回答)。4. 青木周蔵憲法制定の理由書。5. 青木周蔵独文書簡草稿(一八九二年六月一九日、ポツダムにてドイツ皇帝宛)。6. 青木周蔵宛封筒(空封筒、表に書入あり)。7.  青木周蔵政治意見書(一八八四年二冊)(http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/aokishuuzou1.php)。

(22) 中島三千男の言う「エタティスト」とは、下層階級から一気に政権の中枢に上り詰めた維新の獅子たち=「国家至上主義者」を指しているようである。


野崎日記(435) 韓国併合100年(74) 廃仏毀釈(8)

2012-08-06 12:21:31 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(11) 慶応四年九月三日(旧暦)に改元の詔勅(しょうちょく。注・天皇の意思表示のこと)が出され、慶応という元号が、明治に変えられた。しかし、改元は、九月三日からではなく、過去の慶応四年一月一日に遡(さかのぼ)って、慶応四年一月一日を明治元年一月一日とした。しかし、これは、改元されても依然として旧暦表示であったので、旧暦の明治元年一月一日とは、新暦に直すと明治元年一月二五日になる。天皇が即位したのは、旧暦の明治元年八月二七日(新暦では明治元年一〇月一二日)であるので、厳密に表現すれば、明治は一九六八年一〇月一二日(新暦)から始まる(http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/calendar/meijikaigen.htm)。

 日本におけるグレゴリオ暦(新暦)導入は、天保歴(旧暦)の明治五年一一月九日(新暦に換算すると一八七二年一二月九日)に公布された。従来の太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された「明治五年太政官布告第三三七号、改暦ノ布告」では、当時の天保暦における明治五年一二月三日がグレゴリオ暦の一八七三年一月一日に当たっていたので、その日を明治六年一月一日と定められた。

 天保歴は、天保一五年(弘化元年、一八四四年)にそれまでの寛政暦から改暦され,明治五年(一八七二年)末に太陽暦であるグレゴリオ暦が採用されるまでの二九年間用いられた。正式には「天保壬寅元暦」(てんぽうじんいんげんれき)と言う。

 天保暦は、天球上の太陽の軌道を二四等分して二四節気を求める「定気法」を採用した。渋川景佑(しぶかわ・かげすけ)らが、完成させたこの暦は、それまで実施された太陰太陽暦としてはもっとも優れたものであった(http://homepage2.nifty.com/o-tajima/rekidaso/calendar.htm)。

 日本では、一八七三年以前の年代をグレゴリオ歴に換算するか、しないかは、執筆者各自に任されている。確実にグレゴリオ歴で表記されるのは、一八七四年以降である。

 ちなみに、福沢諭吉は新暦の採用で大儲けした。太陽暦への改暦を唱えていた福澤諭吉は、改暦決定の報を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時に慶應義塾出版局から刊行されたこの書は、「たちまち、一〇万部が売れた」(内務官僚の松田道之に宛てた福澤の書簡(明治一二(一八七九)年)三月四日付)(http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/fukuzawaya/21.html)。

 突然の太陽暦への改訂には、大隈重信による官吏給与カットの陰謀があったという説もある。真偽のほどは不明であるが、紹介しておく。

 改暦された明治五(一八七二)年は、政府の要人のほとんどは、岩倉具視使節団として一年半にわたる海外視察の途上にあった。使節団は、留守を預かる大隈重信に、使節団が帰国するまでは、重要な変革は行わないと約束させたのにもかかわらず、大隈は改暦という大変化を日本社会に起こしてしまった。これには、明治政府の深刻な財政難があった。旧暦のままだと、翌年(明治六年)は、閏年(平年より一か月多い)であり、政府は役人に一三か月分の給料を支払わねばならなくなる。新暦に直せば、一月分の給与が浮く。

 改暦の日も重要である。旧暦のままだと、一二月分供与を祓わなければならないからである。来年から太陽暦を採用すると発表したのは旧暦の明治五年一一月九日であった。そして旧暦は一二月二日までで、旧暦の一二月三日に当たる日が新暦の明治六年一月一日とされた。つまり、旧暦の一二月三日から大晦日まで、支払わなければならない日が消えたのである。事実、給与は支払われなかった(http://www.geocities.jp/guuseki/calender.htm)。

(12) 神祇省は、明治四年八月八日(旧暦。新暦では、一八七一年九月二二日)~明治五年三月一四日(一八七二年四月二一日)に神祇の祭祀と行政を掌る機関として律令制以来の神祇官に代わって設置された。しかし、新しく設置された宣教使による大教宣布を強化するために、わずか半年で教部省に改称され、宮中祭祀は分離されて宮内省式部寮に移されることとなった(http://www.oit.ac.jp/japanese/toshokan/tosho/kiyou/jinshahen/51-1/02inoue.pdf)。

 キリスト教に見紛う明治初期の宣教師は、明治三(一八七〇)年正月に「神祇鎮祭の詔」と、「治教を明らかにし、以って惟神の大道を宣ぶべし」との「大教宣布の詔」に基づく神道教化を推進すべく設置されたものである。各藩に宣教担当が置かれるが、この宣教使制度はその後ほぼ機能することなく、短期間で廃された(http://www.nippon-bunmei.jp/tsurezure-40.htm)。

(13) 教導職とは、明治時代初期の大教宣布のために設置された宗教官吏である。明治五(一八七二)年から明治一七(一八八四)年まで存続した。明治三(一八七〇)年に設置された宣教使制度を前身とする。明治五年の教部省設立と同時に置かれた職。教部省の管轄下にあった。教導職は、無給の官吏で、当初は、神官、神道家、僧侶が任命された。教導職は、各地の社寺で説教を行った。講じられた内容は国家・天皇への恭順や、敬神思想家族倫理、文明開化、国際化、権利と義務、富国強兵であった(http://ci.nii.ac.jp/naid/110007054392)。

(14) 大教院は、明治五(一八七二)年、国民に対して尊皇愛国思想の教化(大教宣布)をするためのに設立された機関である。仏教各宗もこの政策に同調した。中央機関として、明治五年に、東京紀尾井坂の紀州邸を大教院に当てたが、翌明治六年、東京芝増上寺にこれを移し、全国に中、小教院を設け、祭神に造化三神、天照大神を奉斎した。しかし、この種の運動に仏教界を巻き込むこと自体が無理であった。神道と、仏教界との対立のために明治八(一八七五)年、神仏合同布教禁止の令が発せられ、大教院は解散させられた(http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/8206/1/N-07.pdf)。

(15) 三条教則は明治五(一八七二)年、教部省が大教宣布運動の大綱について教導職に通達した日常生活の倫理綱領である。第一条で「敬神愛国」、第二条で「天理人道」、第三条で「天皇の意志に従うこと」とある。条文は、三宅[二〇〇七]に収録されている。

(16) 明治二(一八六九)年に設置された中央官庁の一つ。土木・駅逓・鉱山・通商など民政関係の事務を取り扱った。明治四(一九七一)年に大蔵省に吸収された(http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/21794317834900/)。


野崎日記(434) 韓国併合100年(73) 廃仏毀釈(7)

2012-08-05 12:20:54 | 野崎日記(新しい世界秩序)

(5) 平田派の明治維新期における影響力は短命に終わり、すぐに、津和野派に実権が移った。津和野派の福羽美静(ふくば・びせい)が実質的な権力を握ったものと思われる。
 平田派の祭政一致は神祇事務局設置で実現したが、その一か月後平田派は解任され、事務局の実権は福羽美静に移ったのである。おそらく神学上の対立と地域的に近い長州閥を利用した津和野派による政治的な追い落としがあったと思われる(http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43_1.htm)。

(6) 権現とは仏が衆生(しゅじょう。注・生命あるものすべて)救済のために権(注・仮にという意味)に神となって現れたことを指す。その淵源は平安時代の中期(一〇世紀頃)にあるとされている。権現は、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)と関連している。本地垂迹説とは、仏や菩薩を本地、神を垂迹と言う。本来の姿(本地)の仏が、衆生を救うために姿を変えて迹(あと)を垂(た)れるものだとする考え方である。これは日本独特の神仏観である。権現の例としては、天照大神の本地が大日如来、八幡神の本地がは阿弥陀仏や観音菩薩などがある。春日権現や熊野権現などのように権現名で神を呼ぶこともある。家康は東照大権現と呼ばれた。明治政府の行った神仏分離により、これまで権現号を名乗っていたところが神社を名乗るようになり、多くの場所で権現の名称が削られた(http://www.ohaka-im.com/butsuji/butsuji-gongen.html)。

(7) 釈迦の寺院を祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)というが、その守り神が牛頭天王(ごずてんのう)であるという説もある(http://members.jcom.home.ne.jp/3366537101/sub3.htm)。
 牛頭天王は、日本伝来後、様々な要素が合体した。日本では、牛の神様とされ、京都では公家たちが牛車を使っていたため、八坂の地に牛頭天王を祀る祠が作られたのではないかとも言われている。同じ地に祇園寺と八坂神社もあり、平安時代の御霊会・祇園会などであがめられた。八坂神社は元々は高麗系の八坂氏の氏神で農耕神だったとも言われている。牛頭天王は全国の八坂神社・祇園神社・津島神社で祭られている(http://www.ffortune.net/spirit/tera/hotoke/gozu.htm)。

(8) 鰐口の多くは鋳銅(銅の鋳物)製であるが、まれに鋳鉄製や金銅(銅に鍍金を施したもの)製のものも見られる。通常は神社や仏閣の軒先に懸けられ、礼拝する際にその前に垂らされた「鉦の緒」(かねのお)と呼ばれる布縄で打ち鳴らすもので、今日でも一般によく知られている。その形態は偏平円形である(http://www.city.kawasaki.jp/88/88bunka/home/top/stop/zukan/z0305.htm)。

(9) 比叡山麓の日吉大社(滋賀県大津市)より生じた神道の信仰に山王信仰(さんのうしんこう)があった。日吉神社(ひよしじんじゃ)、日枝神社(ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は、日吉大社より勧請(かんじょう。注・神仏を迎え奉ること)を受けた神社で、大山咋神(おおやまくいのかみ)と大物主神(おおものぬしのかみ)を祭神とし、日本全国に約三八〇〇社ある。神仏習合期には山王、山王権現、日吉山王などと称されていた。猿が神の使いとされている。比叡山は、もとは日枝山(ひえのやま)と呼ばれていた。初めは日枝山の神である大山咋神のみを祀っていたが、大津京遷都の翌年である天智七(六六八)年、大津京鎮護のため大和国三輪山(みわやま)の大三輪神(おおみわのかみ)、すなわち大物主神を勧請した。
 比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、大山咋神と大物主神は地主神(じぬしのかみ)として延暦寺の守護神とされ、延暦寺は、この両神を「山王」と称した。これが、「山王神道」を発展させた。山王神道では山王神は釈迦の垂迹であるとされた(http://www.din.or.jp/~a-kotaro/gods/kamigami/ooyamakui.htmlhttp://www.niigata-u.com/files/ngt2003/hie1.html)。

(10) 八幡信仰は、大分県の宇佐(うさ)を発祥地として日本全国に普及した。地域や時代によって、信仰対象が変化してきた。戦いの神、鍛冶の神、海の神、焼畑の神、等々である。北九州の地方神であった八幡神は、奈良時代の聖武天皇による東大寺大仏造立事業に貢献したとして、七五二年の大仏完成後、都に迎えられ、一品(いっぽん)という最高位を授けられた。七六九年の僧道鏡を天皇にしようとした事件などでも国家の危機を救ったとされて鎮護国家神になった。天皇の即位や重大な事業については、その報告が宇佐八幡宮に派遣されて祈願を受けた。八幡神は応神天皇であるとも解釈されるようになった。七八一年には、朝廷から大菩薩の神号が贈られた。東大寺をはじめ奈良、京都の大寺の境内に鎮守の神として勧請された。

 京都の石清水(いわしみず)八幡宮は、八六〇年に宇佐から勧請され、僧侶が運営する宮寺(みやでら)であった。さらに八幡神の本地仏は阿弥陀如来であると考えられるようになった。しかし、明治政府の神仏分離政策で仏教色が一掃され、僧侶の関与はなくなった(http://senmon.fateback.com/soukagakkai/shukyou/hachiman_kami.html)。


野崎日記(433) 韓国併合100年(72) 廃仏毀釈(6)

2012-08-04 22:04:11 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 

(1) 「不受不施」(ふじゅ・ふせ)の「不受」とは、謗法(ぼうほう。注・仏法をそしり、真理をないがしろにすること)の供養(くよう。注・仏、菩薩、諸天などに香・華・燈明・飲食などの供物を真心から捧げること)を受けないということである。「不施」とは、謗法の人のために祈念・読経・唱題をしないということである。

 日蓮宗不受不施派とは、京都妙覚寺一九世仏性院・日奥(にちおう)を派祖とする日蓮宗の一つのことである。日奥は、一五六五年、京都に生まれ、二八歳の時、妙覚寺一九世を譲り承けた。一五九五年九月、豊臣秀吉が、先祖並びに亡父母追善のため、京都東山の妙法院に大仏を建立し、千僧供養(せんぞうくよう。注・一〇〇〇人の僧を招いて食を供して供養すること)を執行しようとして、諸宗に僧侶の出仕(しゅっし。注・緊急に参加すること)を招請した。しかし、未入信者・謗法者である秀吉の供養出仕に応ずることは、法華宗の行規である「不受不施」の宗義を破ることになるという理由で、日奥は秀吉の出仕命令を拒否し、妙覚寺を退出し、丹波小泉に蟄居(ちっきょ)した。その際、日奥は秀吉に『法華宗諌状』を提出した。一五九六年七月一二日、大地震が起こり、問題の大仏殿が崩壊した。

 一五九九年一一月、今度は、徳川家康が、大仏供養を受け入れた日蓮宗の他の宗派(注・出仕派・受派という)と日奥を論争させ、出仕させようとしたが、日奥は出仕を拒否し続けた。その結果、日奥は、対馬への流罪を言い渡された。一三年にわたる流罪生活の後、日奥は、一六一二年に京都に帰った。一六二九年、徳川秀忠が崇源院大夫人菩提のため、芝増上寺において、諸宗の僧侶に諷経(ふぎん。注・ 経文を声を出して読むこと)を命じた。これが発端となって、身延山(受派)と池上本門寺(不受派)との間に訴訟合戦が起こり、一六三〇年二月、、日奥は、幕府に逆らう不受不施派の首謀者と裁決され、再度、対馬に流されることになったが、その直前に日奥は、亡くなっている。これは、「死後の流罪」と言われている。

 一六六九年三月、徳川幕府は、不受不施寺院の寺請(注2で解説する)の停止を発令し、不受不施は明治に入っても禁制(注・法令によって禁止されること)であった。この禁制は、一八七六年に解除されたのであるが、じつに、この派は、二〇〇年にわたって禁制されていたのである(http://homepage3.nifty.com/y-maki/bd/bd09.htm)。 

(2) 仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請ける制度である。寺請制度の確立によって民衆は、いずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となることを義務付けられた。寺院では現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという形が定まり、寺院は、一定の信徒と収入を保証される形となった。

 その目的において、寺請制度は、邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙ったものであったが、宗門人別改帳など住民調査の一端も寺院に担わせていた。こうして、仏教教団は、幕府の統治体制の一翼を担うこととなった(http://gankaiun.com/bukkyou/25.html)。

(3) 中山忠能は、明治天皇の生母・慶子(よしこ)の父。一八六四年七月、長州藩が武力上洛を支持、しかし、禁門の変で長州藩兵が敗北した直後、謹慎を命じられる。一八六七年一月の孝明天皇の死に伴う大赦によって処分解除。長老として岩倉具視らと共に王政復古の政変を画策、政変後、三職制が新設されて議定(ぎじょう)に就任した。三職制とは、一八六七年の王政復古の大号令に伴い、定められた政治の最高幹部制度で、総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職を指す。議定とは、議員のこと(http://www.memomsg.com/dictionary/D1367/485.html)。

(4) 飛鳥時代の仏教伝来以来、日本の古い神道は仏教と混ざり合った。これが、「神仏習合」である。神道には、根本聖典がないことが、神学を形成していく上で障害となっていた。江戸時代の国学者の平田篤胤(あつたね、一七七六年生まれ)は、法華宗や密教、キリスト教などの他宗教や神仙道を取り入れた「平田派国学」を作り上げた(菅田[一九九四]、一〇二~一〇四ページ)。この平田派国学の流れから明治維新の思想的一面が形成された。儒教や仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうというのがこの思想であり、明治維新の尊皇攘夷運動のイデオロギーに取り入れられた。彼らが、神仏分離、廃仏毀釈の運動を起こし、神道国教化を推進したのである。日本民族の固有の精神とは、明治時代に本田親徳(ちかあつ)や、本田の弟子・長沢雄楯(かつたて)らによって打ち出された思想である。人間の心は、根源神の分霊である「直霊」(なおひ)が、「荒魂」(あらたま)、「和魂」(にぎたま)、「奇魂」(くしたま)、「幸魂」(さきたま)の四つの魂を統御するという日本古来の「一霊四魂」説を整理したのが、彼らの思想である。

 彼らが唱道する復古神道は、天之御中主神(あめのみかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の造化三神を根源神としている。『古事記』では、天之御中主神が、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしている。その名の通り天の真ん中にいる神である。その後、後の二神が現れ、すぐに姿を隠したとしている。この三柱の神を造化三神といい、性別のない「独神」(ひとりがみ)という。

 高御産巣日神は、天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。本来は高木の神格化されたものを指したと考えられている。「産霊」(むすひ)は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神とともに「創造」を神格化した神である。

 神皇産霊神は、死と再生を司る神でもあった。『古事記』の大国主命(おおくにぬしのみこと)の物語に異母兄弟の八十神(やそがみ・多くの神)に謀殺されて、蘇る物語がある。八十神たちは稲羽(いなば)の八上比売(やがみひめ)に求婚したが、ことごとく断られてしまったのに、大国主命は助けた因幡の白兎の知恵を授かり、とうとう八上比売の心を射止めた。これに怒った八十神たちは、「山の赤い猪を追い落とすから、捕まえろ」と言って、猪に似た大石を真っ赤に焼いて落とした。待っていた大国主命は落ちてきた焼石に焼かれて死んでしまった。その母の刺国若姫(さしくみわかめひめ)は嘆いて、神産巣日之命に助けを乞うと、その二人の娘、蚶貝比売命(さきがいひめのみこと)、蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)という貝の精を遣わし、大国主命を作り活かしたとされる。このように、神皇産霊神は、いったんは死なせて、新たに生まれ変わらせる神でもあった(http://shrine.s25.xrea.com/sansingosin.html、および、   http://www.honza.jp/author/3/takahashi_hideharu?entry_id=515)。


野崎日記(432) 韓国併合100年(71) 廃仏毀釈(5)

2012-07-29 21:45:07 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 四 浄土真宗による執拗なキリスト教批判

 東本願寺派円光寺(えんこうじ)に樋口龍温(りゅうおん)という僧侶がいた。一八六五年から東本願寺高倉学寮において、当時の仏教を取り巻く思想状況を講義し、その講義録が生徒のノートとして残されている。「急策文」というノートがそれである(小林・栗山[二〇〇一]、一九ページ)。

 それによると、仏敵は四つある。要約する。

 <いまや仏敵が四方にいる。一つは、偏見による儒者。二つは、憶説(注・根拠のない推測よって説かれる説)だけで決めつける古道と称する神学者。三つは、地球が円く、星でなく地球が動くという説を唱える天文学者。四つは、海外から入ってくる耶蘇教。以上である」(小林・栗山「二〇〇一]、一九ページより転載)。

 小林・栗山[二〇〇一]の解説によれば、一つは、朱子学派、陽明学派、古学派、その他の儒学者を指している。



 朱子学派は、林羅山(はやし・らざん、一五八三~一六五七年)、山崎闇斎(やまざき・あんさい、一六一九~八二年)、貝原益軒(かいばら・えきけん、一六三〇~一七一四年)などが象徴的存在である。



 陽明学派は、中江藤樹(なかえ・とうじゅ、一六〇八~四八年)、熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん、一六一九~九一年)が代表格である。



 古学派は、伊藤仁斎(じんさい、一六二七~一七〇五年)、荻生徂徠(おぎゅう・そらい、一六六六~一七二八年)などが指導者であった。

 彼らを含めた儒学者たちは、来世主義・彼岸主義の仏教を否定し、現世・現実主義を重視する倫理観を持つ。幕末の儒者たちは、神儒一致観念に染まり、水戸学派の尊皇思想と結びついた政治的発言を繰り返していた。



 二つは、復古学派の荷田春満(かだの・あずままろ、一六六九~一七三六年)、賀茂真淵(かもの・まぶち、一六九七~一七六九年)、本居宣長(もとおり・のりなが、一七三〇~一八〇一年)などである。彼らは、古代の自然・世界観を重視し、仏教の反自然性を批判していた。平田篤胤(一七七六~一八四三年)の記紀神話に基づく宇宙創造説も仏教批判の急先鋒であった。


 三つは、本多利明(ほんだ・としあき、一七四三~一八二一年)、伊能忠敬(いのう・ただたか、一七四五~一八一八年)、山片幡桃(やまがた・ばんとう、一七四八~一八二一年)などの科学思想家。彼らの宇宙論が、仏教の須弥山(しゅみせん)説批判になっていた。つまり、仏教の地獄・極楽説が否定されたのである。



 四つは、開国後のキリスト教宣教師であり、とくに、J・L・ネビアス(John Livingstone Nevius, 1829~93)やJ・エドキンス(Joseph Edkins, 1823-1905)が主要な仏教批判者であった(小林・栗山「二〇〇一]、一九~二〇ページ)。



 新政府が、キリスト教禁圧に踏み切った時、東西本願寺はそれに追随した。キリスト教批判の風潮に乗ることによって、仏教を再起させようとしたのであろう(同、二〇ページ)。このことは、神仏分離令に対抗すべく、明治元年に宗派を超えて結成された「諸宗同道徳会盟」の「課題八ヶ条」の次の条文に表現されている。そこには、「王法仏法不離之論」と並んで、「邪教研窮毀斥之論」が配されている。前者では、仏教の持つ護国的意義が述べられ、後者では、護国を実践すべく邪教のキリスト教の排斥(毀斥)に努めようとするものである(同、二〇ページ)。

 明治元年から、東本願寺は学寮、西本願寺は学林、というそれぞれの付属研修所で、キリスト教の研究が始められた(同、二一ページ)。学林の講師に安國寺淡雲(あんこくじ・たんうん)という人がいた。

   小林・栗山[二〇〇一](二一~二二ページ)の紹介によれば、淡雲は、一八三一年生まれ、博多の西本願寺派明蓮寺の住職であった。その講義録、『護国新論』は反キリスト教色の強いものであった。この書は、一八六八年に刷られ、南山大学図書簡に所蔵されている。淡雲は、岩倉具視との人脈があり、西本願寺において、朝廷との交渉掛であった。慶応四(一八六八)年、新政府より「耶教門」の「取調掛」を命じられて、キリスト教排除活動に従事することになった。「諸宗同徳会盟」に参加し、明治五(一八七二)年、神祇省廃止とともにに新設された教部省に出仕、明治三〇(一八九七)年、本山の学林総理となった。排耶運動の重要な担い手であった

 淡雲の『護国新論』は、<非常に評判が高く、上辺だけのキリスト教批判ではなく、深くキリスト教研究をした結果として、七八枚の小さな冊子にすぎないが、非常に深い博識によって裏付けられたものである>(『中外新聞』四四号、慶応四年六月六日付、現代語に要約)という最大級の絶賛を受けたほど反キリスト教運動に大きな影響力を持った(小林・栗山[二〇〇一]、二二~二三ページに依拠)。

 ただし、淡雲の講義は、実際には、<キリスト教は人倫を破り、国家を害する邪教である>という「牽強付会」(けんきょうふかい、注・都合の良いように無理に理屈をこじつけること)なものでしかなかった(小林・栗山[二〇〇一]、二三ページ)。<十戒で父母を敬えというが、キリスト教に聖人で孝子が一人でも出たであろうか>、<十戒は、君主を敬えと教えていない>、<十戒は、天主を信じない者は、例え、親孝行しても、君主を敬わっても、地獄に堕ちると決めつけている>(同ページ)。しかし、淡雲のキリスト教批判は、かなりレベルの低いものであったと小林・栗山[二〇〇一]は、淡雲を切って捨てている(同)。

 「護法家としての淡雲の果たした役割は、新たな排耶論の形成に寄与したばかりでなく、邪教門一件諸家応接取調掛として、諸宗同徳会盟における結社活動の場で、あるいは教導職として実際の闢邪運動を指導し教化に努めたことである」(同、二三ページ)。

 しかも、その著『護国新論』は、末寺まで浸透していたらしい(同)。

 淡雲とともに、反キリスト教運動に大きな力を発揮したのが、藤島了穏(ふじしま・りょうおん)である。彼は、真宗西本願寺派の学僧で、明治一五(一八八二)年、から七年間、フランス、ベルギーに留学した。その間、フランスのインドシナ侵略を目の当たりにし、キリスト教国による植民地侵略に危機感を募らせた。帰国後、西本願寺に執務し、国家主義教学の主張を行うようになった。留学前の明治一四(一八八一)年に平易な文章で著した小冊子『耶蘇教の無道理』は仏教信者に対して大量に無料配布された。

 この小冊子は、三編からなり、一八八一年六月から一か月ごとに一編ずつが出された。第一編は、天地創造説を批判し、全能であるはずの天主はなぜに害悪な生物をこの世に創ったのかと問うた。第二編は、原罪説批判であり、禁断の木の実を食するアダムとイブ、それをそそのかす蛇の邪悪さをあげつらい、人間が子々孫々まで先祖の罪に苦しめられる不条理を非難している。第三編はノアの洪水説についてであるが、「天主暴虐洪水を降ろす」と批判している。<父たる天主にせよ、子たる耶蘇にせよ、世を救うことがあまりにも不十分である>というのが、この小冊子の基本的視点である。

 西本願寺は全国で反キリスト教の講座を開き、この小冊子を聴衆に無料で配った。京都の会所では、発行後すぐに数千部が配られ、一八八二年の一年間だけで、七〇万部が配布されたという(『開導新聞』一〇六号、一八八二年七月一七日付。一一一号、一八八二年七月二七日付;小林・栗山[二〇〇一]、一二ページより)。信者の中には、寄進として、一度に一万部、二〇万部も発注した人もいた(同)。

 西本願寺が設置した反キリスト教講座を持つ教院数は、一八七七~八三年に九四から一四八に増加し、講社数も、同期間に二九から五三〇まで急増した(『日本帝國統計年鑑』、「全國教院及講社」第四、五回。小林・栗山[二〇〇一]、一二ページより)。

 『仏教演説集誌』という刊行物がある。一八八二年の第二号は、博労町劇場では一八〇〇人の聴衆を藤島は集め、聴衆のすべてに件の小冊子が無料で配布されたと報じている。少なくとも排耶運動の先頭に立ったのは、真宗西本願寺派であった(小林・栗山[二〇〇一]、二四~二六ページ)。

 おわりに


 政治的判断を優先したがために、あまりにも心情的すぎ、けっして哲理的なものではなかった反キリスト教の護国・護法論であるが、これらは、キリスト教の哲理と深いところで格闘しなければならないという真摯な姿勢を仏教界にもたらした。それこそ仏教界は、腰を据えてキリスト教、ひいては、西洋哲学の深さに直面して、自らを省みなければならなくなった。成熟してくる市民社会において、新しい立脚基盤を仏教界は築く必要性に気付くことになった。もっとも激しくキリスト教に対峙した真宗内で、近代的哲理を獲得して行く努力が祓われるようになったのである。

 その代表的な人物が、井上円了(えんりょう、号は甫水(ほすい))である(27)。あらゆるジャンルにまたがるその著書は一〇〇冊を超える。中尾祖応(そおう)編集の『甫水論集』がある(中尾[一九〇二])。

 井上は、人間の認知できる範囲を「求心性」、その範囲外のものを「遠心性」と区分し、科学を含む一般の学術を求心的なもの、宗教を遠心的なものとする。この両者の間にあり、科学から宗教へと媒介するのが、「純正哲学」であり、それは、宗教的心理に至る「方便」であるとした(中尾[一九〇二]、一〇、二九~三〇ページ)。井上は言う。

 「純正哲学にて地定したる不可知的の門内に本領を定め、之を実際に応用して宗教の成立を見るに至る」(同、二六ページ)。

 人間が認知し得る領域を人間の認知範囲を超える領域との接点である哲学にこだわることによって、人知を超える宗教的な境地に達することができると井上は言っているのであろう。それまでのように、国家論ばかりを振り回してキリスト教を攻撃するだけでは駄目で、きちんとした哲学・科学によって、キリスト教を克服しなければならないという信条を井上は持っていた。

 井上は、「天地万物の変化作用一定の秩序和合ありて万物万化皆整然として条理ある」とも言う(井上[一八八七]、七二ページ)。

 万物の生成・流転は「大智大能」の神が生み出したものではなく、「天然に出るもの」、「自然にして進化したるもの」、「天然の理法」である(井上円了『真理金針・続々編』、一八八七年(三四、三六ページ)、峰島[一九七一]、六六八ページより転載)。

 天地は悠久無限のものであり、初めもなければ終わりもない。その世界はつねに閉じたり開いたりする。それが人智を超えた真理である。その真理を感得できるものこそ、仏教であり、神が天地を創造したというキリスト教ではないと井上は断じるのである(井上[一八八七]、一八五~八六ページ)。

 しかし、そうした観相的立場だけでは、現実を乗り切ることはできないとも井上は言う。「社会」の真理は競争にあるので、今日の日本は、「国権拡張国力養成」を急務とする。宗教といえども、この現実を無視してはならない、「宗教の本意は必しも世間に関せざるに非ざる事」、「布教の方便は時勢に応じて」変わる必要があることと説く。にもかかわらず、日本の仏教界は、理論偏重でありながら、その水準が低く、僧侶の道徳的精神は貧困であると井上は批判している(『真理金針続編』一八八七年、六~一〇ページ。峰島[一九七一]、六七〇ページより転載)。

 キリスト教が、世界を席巻しているのは、キリスト教国の国力が強いからである。仏教も布教するためには、日本の国力を増強しなければならない。これが、「護法愛国」である(同、一三ページ。峰島、同、六七一ページより転載)。

 巨人、井上円了ですら、国家から自立できる宗教を構築しなかった。この姿勢が、国家権力を背景にアジアに布教する韓国併合時の日本の仏教の基本形になってしまったのである。


野崎日記(431) 韓国併合100年(70) 廃仏毀釈(4)

2012-07-28 12:16:36 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 三 長州閥と浄土真宗本願寺派

 大日本帝国憲法(以下、明治憲法と略する)は、明治二二(一八八九)年二月一一日に発布され、翌年の明治二三(一八九〇)年一一月二九日に施行された。

 その第二八章は、「信仰の自由規定」の名の下に、「信仰の自由」どころか、いわゆる邪宗門(20)を取り締まる規定としてあまりにも有名になった条項である。

 「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限に於て信教の自由を有す」。

 そもそも、法律とはそういう性質を持つものであるが、ここでは、目的の「信教の自由」という文言よりもその前文の制限条項の方がより重い意味を帯びている。

 明治憲法は、公的には、一八八六年末から八八年にかけて審議されたものであるが、実際には、それ以前から専門家たちに草案作りが権力者によって依頼されていた。

 ここでは、明治六(一八七三)~明治七(一八七四)年に作成された青木周蔵「大日本正規」に当時の高級官僚層の宗教観を見る。青木は、一八七三年には外務一等書記官としてドイツに官費留学していた。この「大日本正規」は、留学中のベルリンで一九七三年二~三月に起草されたものとされている(稲田[一九六〇]、一九四ページ、草案の文章は、この文献に依拠した)(21)。青木の草案は、日本に憲法を作るという主張をもっとも明確に打ち出していた木戸考允(たかよし)の依頼によるものであるので、当時の支配層の宗教観を知る上で格好のものと考えられる。 

 現代語訳で要約しながら、青木草案を説明する。

 <日本の政治機構は、まだ幕末の公儀中心の政治体制から脱却していない>。<君も民も同じように治められるべきということが正しいことであり>、制限付きではあるが、<国民の権利、自由および平等が>確保されるべきことが憲法草案の冒頭に配置されている。その点では、正式の明治憲法よりも先進的なものであった(尾佐竹[一九八五]、八ページ)。

 しかし、青木の憲法草案には、仏教以外、とくにキリスト教を禁止するという条文がある。
 草案第一二章、<耶蘇教およびその他の宗旨を禁止するべきである>。
  草案第一三条、<日本国で主として信仰されるべき宗旨は釈迦教であるべきである>。

 憲法で、日本人が信仰してはならない宗教とか、信仰すべき宗教とかが明示されること自体が、今日の良識からすればとんでもないことであるが、しかし、ここでは、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていたまさにその時期に、高級官僚によって、声高に仏教を推進させることが唱えられたことを重視しておきたい。それは、明治中央政府の大教宣布運動を手直しする強い意志の表現であった(中島[一九七六]、五ページ)。

 中島三千男は、ここには、岩倉具視(ともみ)らを中心とする宮廷貴族層と、青木・木戸らの「エタティスト層」(etatists=国家至上主義者)との間にある宗教認識のズレが現れているとの認識を示している(中島[一九七六]、八ページ)(22)。



 駐日英国公使の通訳であったアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)の一八七一年九月三日付日記には、英国代理公使アダムス(Francis Ottiwell Adams)(23)が本国に送った「条約改正」に関する書簡の中で、岩倉具視との談話の内容が記載されている。

 アダムスによれば、岩倉は、「キリスト教禁止を解けば、この国に革命をもたらすことになり、近世の方針をそれまで採ってきた政府は打倒されることになる」と語ったという。アダムスは岩倉に言った。「わたしが予想するもう一つの危険は、宗教の問題である。維新以来、天皇の政府は、仏教に対して一種の十字軍的な行動をとってきた。わたしの理解するところでは、その目的は仏教を廃棄し、それにかわって、神道を復活させようというものである。このような政策はヨーロッパ人の観点から見ると、じつに危険に満ちている。どこの国でも、農民や下層階級は、それぞれの宗教を概して形式的な意味で遵奉しているにすぎないが、その宗教の中で生まれ育っただけに、その祭礼や儀式に愛着をいだいており、それを上から強制的に変えようとする試みに、つよく反発するにちがいない」。

 岩倉は答えた。「天皇の政府は仏教を廃棄せよという布告を発したことはない。維新以来、政府が追及してきたのは、二つの宗教が混合している場合を取り上げ、神道を純化しようとしたことである」、「仏教は死滅したも同然であり、僧侶は無為に日を過ごし、戒律を犯してばかり居る、身体だけが丈夫な人間である」、「その仏教は多くの神社に忍び込み、これを汚染してきた。そこで神道を司る御門がこの汚染を取り除き、神社を純化することになった」、「全体として政府が仏教に好意を示さなかったことは確かであり、各地で多くの仏教寺院が破壊されたことも事実であるが、御門の命令は、かかる措置は僧侶と農民を含む、関係者の合意の下に実施されるべきであるというものであった」。



 ここには、天皇を神に祀り上げたいという岩倉具視の意志が示されている(24)。さらに、アダムスは、越中富山、信州松本などで廃仏毀釈をめぐる騒動があったことの理由を質した。このことについての岩倉の弁明。「その理由ははっきりしている。それらの地方で、変革が民衆の同意を待たずに行われたからである。この点で、藩庁は政府の厳しい叱責を受けた」。

 それでは薩摩はどうなのか。薩摩では仏教の寺院が大量に廃寺に追い込まれたというが、多くの民衆は、依然自分の家で、ひそかに仏教の儀式を遵奉しているというではないかと、アダムスは詰問した。

 岩倉の答え。「元来薩摩には寺院の数はそれほど多くなく、廃寺は何の反対も引き起こさず、且つ僧侶の同意の下におこなわれた。僧侶は喜んで還俗し、新しい生活に入った」。「ここの家で仏教の教義が実施されているという点であるが、そのうわさは正しい。しかし、それは仏教の特殊な宗派の信者、「門徒」の場合に限られることである。この宗派は、薩摩では約三百年も前から禁止されてきた」(萩原[二〇〇八]、二九一~九三ページ)。

 このような、強烈な神道至上主義者であった岩倉具視に対抗していたのが、長州閥であった。彼らは、宮廷貴族を抑えるために、仏教勢力を利用しようとしたのであろう。長州閥の人脈があった島地黙雷が、効果的な大教院離脱運動を展開できたのも、こうした明治政府内の「宮廷貴族層」と長州閥の「国家至上主義者層」との角逐があったことの産物であると見なすこともできる。

 既述のように、明治五(一八七二)年一月、島地黙雷は、欧州歴訪の旅に出た。それは、当時の西本願寺の第二一代新法主・大谷光尊(こうそん、法名は明如(みょうにょ))の命令によって、法主の実弟・梅上沢融(うめがみ・たくゆう、法名は連枝(れんし))の補佐役として随行した旅であった。この時に、同じく欧州に派遣されたのが、赤松連城(れんじょう)であった。この赤松連城も周防徳山の西本願寺派・徳応寺(とくおうじ)の住職であった(25)。

 赤松連城も一八七三年に岩倉使節団に英国で会っている。彼は、明治七(一八七四)年に帰国し、寺法を定めた明治一二(一八七九)年の太政官布告の草案を書いた(http://episode.kingendaikeizu.net/40.htm)。彼も、島地黙雷とともに、岩倉使節団の一員として同じく欧州にいた木戸孝允と頻繁に会合していた。明治政府の宗教政策を転換させたがっていた木戸孝允が、島地たち西本願寺派僧侶の影響を強く受けていたであろうことは、十分に想像される(http://homepage1.nifty.com/boddo/ajia/all/eye5.html)(26)。


野崎日記(430) 韓国併合100年(69) 廃仏毀釈(3)

2012-07-27 09:02:07 | 野崎日記(新しい世界秩序)

 二 大教院運動に抵抗した島地黙雷

 大教院運動を担う教導職に、上述のように、仏教界から結構多数者を参加させたが、その位は総じて低かった。教導職の職位には一四の階級があった(18)。しかし、僧侶の階級は、第六番目の「権小教正」(ごんしょうきょうせい)以下であった。

 まず、浄土真宗の僧侶たちが、大教院運動への反対運動を組織することになった。真宗の僧侶と門徒の農民が宗教一揆を起こした。これを「護法一揆」(ごほういっき)という。とくに、浄土真宗大谷派の僧侶・門徒による一揆が目立った。この一揆は、明治三(一八七〇)年から明治六(一八七三)年の間に集中している。大規模な一揆としては、明治四(一八七一)年に三河国の碧海(へきかい)郡と幡豆(はず)郡で発生した「三河大浜騒動」、明治五(一八七二)年に越後国の信濃川流域で発生した「新潟県分水(ぶんすい)一揆(19)、明治六年(一八七三)年に越前国大野郡・今立郡・坂井郡で発生した「越前護法大一揆)」などが挙げられる(吉田[一九八五」;三上[二〇〇〇]による)。

 西本願寺派の島地黙雷(しまじ・もくらい)は、一八七三年一〇月、「大教院分離建白書」を提出して、神道と仏教を合併させる意図で組織された大教院運動に反対する運動を開始した。島地は、大教院運動を「正教混淆」と批判し、信教の自由を訴えた。西本願寺は、島地の運動に強く反応し、大教院からの仏教の分離を申請した。そして、上述のように、一八七五年、信教の自由の獲得を理由に東西本願寺が大教院から離脱し、大教院は廃止された。

 教部省は、「信教の自由保証の口達」(教部省口達書」を発布し、一八七七年に自らを廃止した。それとともに、寺社を統轄する機関として内務省に寺社局が創設された(安丸・宮地編[一九八八]、五四二ページ)。 

 島地黙雷は、監獄布教など社会問題に取り組むなど、多方面に活動した僧侶である。一八三八年、周防国(山口県)の専照寺の四男に生まれた黙雷は、一八六四年に火葬禁止令を出した長州藩の廃仏政策に反対した。同じ頃、大洲鉄然(おおず・てつなん)らとともに真宗僧侶に兵士教育を施し、長州の倒幕運動を支援し、倒幕派との人脈を形成した。

 黙雷は、鉄然らと京都に上り、西本願寺に入る。江戸時代には、門主とその家臣によって運営されていた本山を改革すべく、門末(注・末寺)から優秀な人材を登用することを提案し、その提案は法主に採用された。

 西本願寺は、海外の宗教事情の視察のために、黙雷たちを欧米に派遣した。時期が、岩倉使節団の渡欧と重なったこともあり、パリなどで政府高官たちと黙雷は頻繁に接触していた。
 外遊中、大教院の設立によって、神主仏従という構図になっていた状況を伝え聞いた黙雷は、ただちに大教院の分離を訴える建白書を日本に送った(「三条教則批判建白書」、一八七二年)。帰国してからも、大教院やその管轄省庁の教部省への批判を繰り返した。大教院の廃止に黙雷は大きな影響を与えたのであるが、それには、彼の長州閥との人脈が功を奏したようである。
 その後も、監獄布教など社会問題に取り組むなど、仏教者そして啓蒙思想家として、多方面に活動し、明治三八(一九一一)年に亡くなった(http://www.ohaka-im.com/jinbutsu/jinbutsu-shimaji.htmlより)。島地黙雷の著作全集がある(二葉・福嶋編(一九七三~七八)。

 以下で、「三条教則批判建白書」を要約的に紹介する。

 <海外留学中の僧の身で謹んで書きます。我が国の宗教は廃れています。欧米の宗教が隆盛を誇っているのとは対照的なことです。私の意見を朝廷が聞き届けて下さるなら私は死んでもよいと思っているほどです。
 政治と宗教とは別物です。けっして混淆すべきものではありません。政治は人が作るものであって、一国に通用するだけです。しかし、宗教は神が作るもので、万国に通用するものです。政治は利己的なものですが、宗教は利他的なものです。国は、自分を割いて敵国に譲ることはありませんが、宗教は、自己を捨てて他人を救うことに本分があります。

 政治は自国を富ますべく、他国と争います。それは、虎狼の心です。宗教がこの心を制するのです。

 往々にして、人はこの異なる二つのことを混淆してしまいます。西洋もかつてはそうでした。しかし、いまの西洋ではそうではありません。しかるに、省令はこの二つを混淆してしまっています。

 三条教則の第一には、「敬神愛国の旨を体すべきこと」とあります。敬神とは、宗教であり、愛国とは政治です。ここには、政治と宗教の混同があります。そもそも宗教は万国人のものです。仏陀は、「平等の大悲一切衆生を救済す」と教えてくれます。真の道とはほど遠いキリスト教ですら、「愛神愛人」と言っています。そして、キリスト教は万国に普及しています。宗教とは、一国に限定されるものではありません。

 三条教則にある「敬神」とは我が国に限る神なのでしょうか。それとも万国に通じるものなのでしょうか。

 我が国に限る神であるとすれば、万国に普及しているキリスト教に勝てるはずはありません。神は神です。宗教によって説き方が異なるだけです。

 ところが、我が国の神なるものの教えを過去、何人(なにびと)が立てたでしょうか。我が国の神の宗教を開いた人はありません。それなのに、省令は、ただ神を敬することを勧めるだけです。神を詳しく説くわけではありません。神に仕えるわけではありません。どうしてこのようなことに民衆は心を通わすことになるのでしょうか。

 天神地祇、水火草木に存する八百万(やおよろず)の神を敬させるのであれば、これは、欧州の児童も蔑んで笑うでしょう。エジプト、ギリシャ、ローマ、イギリス、フランス、ゲルマンなどの諸国における古代の人々は、衆多の神を尊奉しておりました。しかし、紀元前四〇〇年代、ギリシャの偉大な哲学者ソクラテスは衆多の神を廃して単神説を立てました。それは、当時の論と違っていたので、ソクラテスは刑死になりました。古今東西、これを惜しまない人はいません。多数の神を信じる人は欧州にはいません。多数の神を崇めることを、欧州では「ミトロジー」(神話学)と称し、図画彫刻の玩物として扱います。

 多神教が存在していたのは、自然の摂理を人間が解明できなかったからです。文化が開明している現代、不思議が解明されるようになった現代、多神教は終わったのです。いまやアフリカ、南アメリカ、東南諸洋島、アジアやシベリアの野蛮な地においては、なお多神教が尊奉されています。しかし、文明が発達している欧州では、多神教は甚だしく卑しめられています。臣の私は、本朝のためにこれを恥じます。あえて忌み嫌われることを恐れずにこのようなことを申しますのは、そのためであります。

 三条教則の第二章「天理人道を明らかにすべきこと」について申し上げます。宗教には徳、功、情の三つが必要です。ところが、省令の第二章は、効、つまり実績だけを強調するものです。宗教は民心を掴むことが肝要です。ところが、「天理人道を明らかにする」ということは、学問の深さに依存してしまいます。これでは、どうして救済を求める愚民の心の中に入ることができましょうか。学識や学風に違いがあるからこそ、各国の文化の違いが生まれます。それでは宗教になりません。宗教は差異を超えるものです。「天理人道」は宗教ではありません。

 三条教則の第三章「皇上を奉戴し朝旨を尊守せしむべきこと」についても私は案じます。尊王は国体であり、宗教ではありません。いわんや、現在のわが国は、専制の形であり、立憲の体裁をなしていません。

 三条規則にある「教部省出仕の僧侶、その本山を旧主と称し、その宗門を旧宗と称すべき云々」にも私には納得ができません。教部省に仕える僧侶は、本山の支配を受けるべきではないというのが、この省令の趣旨なのでしょうが、私には解せないことです。僧侶と本山との関係は、君臣の関係ではなく師弟の関係です。旧主という言葉には昔の君という響きがあります。昔の君主を棄てて、新たに朝廷の臣になれと命じられるのでしょうか。私は二君に仕えることができません。

 欧州の新聞には、日本政府が新しい宗教を作り、人民にこれを押し付けようとしているとの記事がありました。私は、そのような馬鹿なことがあるはずはないと思っていました。しかし、後に、このことが真実であることを知り、驚愕してしまいました。宗教とは、神が作るものです。法律によって作られるものではありません。

 宗教には、神と人間の間に立つ開祖が必要です。日本の神道を日本の唯一の宗教とするには、誰が開祖になるのでしょうか。

 宗教は、和らいだ心の地に安んじ、開化をもたらすものでなければなりません。国の富強と文物を盛んにし、法制を詳しくし、学術を励ますのは、政治家の任務です。これを宗教家に頼もうとするのは間違っています。宗教は、こうした任務を担う政治家の心を正すものです。
 欧州開化の源は、宗教によらずして学により、キリストに基づかずしてギリシャ、ローマに基づいていることは、三歳の児童でも知っています(要約は、http://8606.teacup.com/meizireligion/bbs/55の現代語訳に依存した)。