カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 C年 年間十六主日

2010年07月16日 | メッセージ(その他)
エス様のことを愛される皆様へ、

「魚が水の外に出たら、自由を失うように、理性のある霊魂は神から離れる時、奴隷になります。」
フランシスコ・サレシオ
お盆は7月13日から15日まで行う魂祭りのことです。以前は仏壇に盆棚を作り、真菰を敷き野菜の初物を供え、僧侶を招いて先祖の霊を慰めました。前年の盆以後に死者を出した家を新盆、初盆といいます。親族たちが新盆見舞いの訪問をするのが礼儀とされています。都会ではおおむね7月、地方では8月に行っていますが一定はしていません。このお盆の頃で夏の風物のひとつである金魚はふなの変種で、16世紀初めに中国から渡来し、観賞用の出目金、蘭鋳などの種類があります。『金魚をじっと見ている、目は金魚に向いているが、心は違うことを考えている。父と仲良く金魚すくいをしたことを思い出したりしている。ひとりでいる日暮れのさびしさ、金魚鉢から父がぬうっと出てくるような雰囲気も感じられます。』
さて、キリスト信者とは派遣された人です。イエス様に従ったものは皆、一人残らず派遣されています。実はイエス様自身この世に使わされて神様の心を示すことにしました。派遣されたキリスト信者の目的はイエス様と同じように人の心と体を癒し、命をもたらし、悪と戦う、清い心で神様を見ること、人の心に神様の平和を送りこむことです。イエス様に派遣去れて行ける場所は世界の全て、全ての人類の全人生です。つまり自分の居場所、それぞれの役割に応じて、家庭、職場、関わる共同体のことです。そして出発にあたり必要とされるのは持ち物や道具ではなく、イエス様の勇気、イエス様の憐れみ、イエス様が教えられた愛情だけで十分だとイエス様は何回も繰り返しおっしゃっています。布教の時に物理的な支えは、邪魔なだけです。イエス様の平和をもたらすのが最高の目標です。
ルカによる福音10・38-42
ある研究者は、マグダラのマリアが復活されたイエス様に出会った時、「ラブニ」(意味=わたしの先生)と呼んでいたことにとても驚いて困っています。なぜなら当時女性たちは、偉い先生の弟子になるのが許されていなかったのです。しかし当福音書で明らかにされたのは、イエス様が当時のラビ(先生)の間に初めて女性を弟子として認められたことです。このようにマグダラのマリアは女性にとって新しくイエス様に従う形のはじめになりました。またマルタとマリアの出来ごとの物語は、イエス様の弟子になる方法を語られています。キリスト教の中でマルタは活動する生活の象徴であり、マリアは感想的な生活の象徴です。最初の修道生活を送る兄弟の共同体の中でマルタ、マリア、ラザロがいました。その中にマリアは「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」とあります。さてこの表現は独特な発言に聞こえますが、実は当時のラビの弟子になることを示しています。使徒パウロもイスラエルの法を勉強する為にエルサレムに行った時に同じ言葉を使って、ガマリエルの弟子になったことが示されています。だからマリアはイエス様の弟子になったことで、イエス様がはっきりとそれを一番いい方法を選んだとおっしゃいます。注目するところはまだあります。ルカの福音書の当個所の直前に、イエス様がサマリア人たちに拒否されましたが、ここでマリアとマルタが心からみ奉仕とみ言葉を聞いたことによってイエス様を受け入れています。それがイエス様にふさわしい接待になりました。現在、優しい心でボランティアの奉仕が広がっていますが、キリスト信者にとってより深い思いから発生します。まずイエス様の言葉を聞き、それを受け入れ、小さい者におられるイエス様自身に使えることが出来ます。普通にキリスト信者は、奉仕活動によってイエス様に対する愛情を示すことになると考えるのですが、イエス様が今日の福音書で強調するのは、イエス様の言葉を聞きいれた後にこそ、より大きな愛を示すことが出来るということです。       モヨリ神父


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。