カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
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「今週の公教要理の錠剤」54

2013年01月10日 | 神父様からメッセージ(C年)
C年 主の洗礼の祝日 2013・1・13
 「カトリック教会の教え」から
「 神の恵み」
私たちは自分で得たものではなく、他者から無償で予想しない時に「いただくもの」を感謝の心を持って受け取ります。そのような賜物を一般に「恵み」と言います。神様の恵みは物理的なものではなく、神様の自由な慈しみからいただく「喜び」「幸せ」「救い」です。このような神様の恵みはいろんな方法で頂くことになっています。場合によっては、自分が気付かない内に神様がご自分の愛を注がれて私達のこころを満たしてくださっています。それは人の人生の歩みの中で、神様が喜びの種のように蒔かれたり、人生を歩んでいく弱いわたしたちが特別に厳しい状態の時にも支えてくださる力となっています。このような神様の恵みは、特別な信仰の光で心の目が覚めるとそれを見出すこと出来ます。確かに神様にお祈りしながら大きな恵みをいただくことも出来ます。そしてイエス様が行われたように、イエス様のお母様であるマリア様もなさったように生きて行けば、私たちの心は神様の恵み、あるいは神様の愛と思いで満たされます。神様の恵みの正体は神様から時や事情にこだわらず、自由にいただいた喜びです。しかしそれだけではなく、自分の人生の中で、神様の働きを見出し信仰の目でそれを確認すれば、それは神様から頂いた恵みだと認めることが出来ます。神様の恵みは時によってイエス様により近く従うことだったり、あるいは自分の性格を変えるほどイエス様と同じように行うことによって表すことが出来ます。信仰の中で生きる人々は人生の苦しい出来ごとの時でも、罪の中でも、神様の恵みとその働きを見出すことが出来ます。なぜなら苦しい時にこそ人間はより大きな愛を理解し、より大きな愛の経験によって苦しみに直面しても、それを乗り越えることが出来ます。聖人達はいろんなところで、罪の中でさえも神様の無償の恵み(光)を見出していました。また人の罪や人生の辛さを通しても、神様はそれに大きな慈しみに変えてそれを通して人間により大きな喜びと愛を備えられます。
                                  モヨリ神父


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