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酔生夢死ってわけでもないけれど、、、日々雑感

日出町(大分県)散策

2021年04月03日 | 旅行記

大分県の日出町(「ひじまち」と読みます)を散策しました。

日出町は、「大分県速見郡」と言うよりも「別府市の北に隣接する」とか「城下かれいで有名な所」と言った方が分かりやすいかも。

(黒太線で囲んだ所が日出町。その下(南)が別府です。)

日出町で訪ねてみたい所は2つ。ひとつは、人間魚雷「回天」の訓練基地跡、もうひとつは、日出城址。

ちなみに、日出町を11時前まで散策して、別府で姪っ子たちと一泊している妻を迎えに行き合流、そのまま黒川温泉の「月洸樹」で一泊する計画です。

 

最初の目的地、「回天大神(おおが)訓練基地記念公園」へ。

私が「回天」のことを知ったのは、高校時代の書道の時間に友人がフリーのお題で「回天」と書いたのを見たのがきっかけです。その後、機会があれば「回天」に関する資料館などを訪ねてみたいと思っていました。

みなさんご存知の通り、「回天」は、太平洋戦争末期、日本の敗戦が目前となっていく中で海軍によって考え出された人間魚雷。脱出装置のない魚雷を人が操縦し体当たりする「回天」は、海の特攻兵器。

(公園前にある記念碑。「回天」の名の由来、「天を回らし戦局の逆転を願って」が刻まれています。)

「回天大神訓練基地記念公園」です。日出町にあった訓練基地一帯はこの記念公園を中心に遺構として整備され、公園内には実物大の回天の模型も設置されています。

(朝8時前、誰もいません。)

これが実物大の「回天」(模型)。

(人一人が乗り込むので、もちろん大きい。「回天一型改一」:全長14.75m、直径1m、全重量8.3トン、頭部炸薬1.55トン、搭乗員1名、速力30ノット(航続距離23km)/10ノット(航続距離78km)。)

こういう姿勢でハッチ下に乗り込みます。

(日によってはハッチを開けて内部を見ることができるようです。)

訓練基地の遺構の場所などが説明されています。

(ここは海際。)

実物大模型の隣にあるコンクリートのプールは「魚雷調整プール」で、ここに「回天」を沈めて水漏れ等のチェックをしていたそうです。

「回天」に乗り込んだ若者の銅像が海の方を向いて立っています。

(背景左の小山には「住吉神社」があります。)

公園の奥には、各隊の紹介と回天に乗り込んだ若者たちの写真や名前が展示されています。

(公園は見学無料。修学旅行などのコースとしても活用されているようです。)

「回天」は西日本を中心に数ヶ所で展示されています。(下記はネットで調べた情報。)

 ・靖國神社(東京都千代田区)
 ・湯豆腐嵯峨野(の枯山水の庭)(京都市右京区)
 ・呉市海事歴史資料館(広島県呉市)
 ・回天記念館、徳山港(山口県周南市)
 ・阿多田交流館(山口県熊毛郡平生町)
 ・平生町歴史民俗資料館、田名埠頭(山口県熊毛郡平生町)
 ・住吉神社、回天大神訓練基地記念公園(大分県速見郡日出町)
 ・貞祥寺(長野県佐久市)
 ・羽立峠(香川県さぬき市)
 ・予科練平和祈念館(茨城県稲敷郡阿見町)

 

「大神訓練基地記念公園」を眼下に見下ろす「住吉神社」へ。

(住吉神社から記念公園の方向を望む。)

戦時中、「大神訓練基地」の基地本部内には回天に関わった戦没者の霊を祀った「回天神社」がありましたが、戦後、「住吉神社」の境内に遷されました。

(住吉神社にある説明板。回天神社の御神器は回天の部品3種類。「縦舵機」(ジャイロ)、「発停装置」、「燃焼器推進軸受」。)

こちらが住吉神社の拝殿です。

回天神社の写真を撮るのを失念してしまいましたが、この拝殿の右側、少し下がっている瓦葺の建物が回天神社です。

ここにも「回天」の1/3レプリカが展示されています。

住吉神社からは海も見通せます。

(この仕切られたプールは、戦後に作られた養魚場で、現在は車海老の養殖場となっています。)

先程見学した「回天大神訓練基地記念公園」で感じた思いも込めてお参りさせていただきました。

 

次は「日出城址」へ向かいますが、道中、いくつかのスポットに立ち寄ります。

「若宮八幡神社」。

若宮八幡神社は1000年以上の歴史を有する神社ですが、その歴史は波乱万丈です。

建立は天徳3年(959)。建久7年(1196)には、豊後大友氏の始祖である大友能直が、豊後国7社のひとつとして崇敬し、新たに社殿を築造し社領を寄進。その後、大友氏が亡んだ後の文禄3年(1594)、豊臣家の直轄地となったこの地に入った代官の毛利兵橘は激しい気性のキリシタンで、社殿をことごとく破壊、御神体を海に捨て、境内に館を建築。御神体は村民たちにより秘かに引き揚げられ、安全な場所を転々とした。日出藩初代藩主の木下延俊は、慶長7年(1602)、破壊された神社を再建し、御神体を迎えて盛大な例祭を行い、復興を遂げ、神社はその後も代々藩主の崇敬を受けた、、、。

元禄16年(1703)に三代藩主の木下俊長によって建立寄進された楼門。

(町の有形文化財に指定されています。)

立派な拝殿です。

扁額には「木下家第十九代当主 木下崇俊」と書かれています。

境内にある石灯籠や鳥居をよく見ると、「豊臣」という銘が刻まれているものが多いことに気付きます。

(日出藩は木下家のはずですが、、、。)

これは、「日出藩木下家は豊臣の一族である」という思いが藩主代々に受け継がれていたことの表われとのことです。

ちなみに、私は発見できませんでしたが、初代藩主の木下延俊が奉納した鳥居には「木下右衛門太夫豊冨朝臣延俊」とあり、「豊臣」ではなく「豊冨」が用いられています。これは、豊臣家を滅ぼしてまだ日の浅い徳川幕府にはばかったため、だそうです、、、なるほどなぁ。

 

数分走って、「的山荘」に立ち寄ります。

的山荘は、馬上金山(現:杵築市山香町)の採掘で巨額の富を築いた成清博愛(なりきよひろえ)が建てた旧邸宅。

現在は日出町の指定管理施設として、城下かれい、鱧、関アジ・関サバ、ふぐ、豊後牛などを使った割烹料理を出す料亭になっています。

(「的山」は成清博愛の雅号。数々の炭坑や金山の採掘事業に失敗し、最後の望みとしてたどり着いた馬上金山で「山をあ(的)てたい」というのが由来だとか。)

皇族方も訪れられているようです。

敷地3670坪、落成大正4年1月、総工費25万円(現在の約7~8億円)。別府湾や高崎山を借景とした見事な庭園があります。

食事なしで庭園見学(無料)もできるそうですが、この重々しい玄関を入って行くのは心理的ハードルが高過ぎて、ここで退散。(笑)

(驚くほど立派な施設でございました。)

これで日出城址までの寄り道は終わりです。

 

「的山荘」から車で5分もかかりませんが、日出城址散策の起点となる観光拠点施設「二の丸館」の駐車場へ。

(「二の丸館」。土曜日の朝、清掃ボランティアの方々が集まり出していました。)

「二の丸館」にちょっと入ってみると、水槽に日出町の最大の特産「城下かれい」の赤ちゃんがいましたぁ。

(保護色で分かりづらいですが、写真に5匹は写っていると思います。)

それでは散策スタート。

日出城は、関ヶ原の戦いの後に日出藩3万石の初代藩主となった木下延俊によって築かれました。別名「暘谷城」(ようこくじょう)で、地元ではこの名で呼ばれることの方が多いそうです。

(右側の立派な瓦葺の御屋敷は「二の丸館」です。)

「二の丸館」の屋根下の外壁が城下かれいの鏝絵。

大分県の福岡事務所で入手しておいた「ひじ城址Map」片手にスポットを順に巡って行きます。

「滝廉太郎像」。

(滝廉太郎の御先祖の瀧家は、代々日出藩の家老などの要職にあった家柄だそうです。)

「帆足萬里像」。

帆足萬里(ほあしばんり)は、三浦梅園、廣瀬淡窓とともに「豊後の三賢」と称された日出藩時代の儒学者、政治家。蘭書を読みこなし、経済、物理、医学、天文などの各分野に通じていたそうです。

日出城の大手門は「日出小学校」の正門になっています。

石垣の上に校舎、不思議な景色です。

(お堀の向こうの海は別府湾。高崎山が薄っすら見えます。)

「鬼門櫓」。

(後ろの建物は「日出町歴史資料館」。)

櫓の北東隅の角を欠いた特異な建築構造となっていますが、古来より北東の方位が鬼門とされ、これを除けるため隅を欠いたそうです。(写真では櫓の左側だと思います。)

ここから海際へ下って行きます。

(絶景!)

この坂を下った所にある「人柱祠」。

城下海岸遊歩道の工事中に発見された岩盤をくり抜いた穴に、老武士らしき人骨が入った木棺、陶製の翁像、兜の金具などが納められており、築城当時の人柱と推定されています。

 

ここで日出城址の散策コースから少し外れて、城下海岸遊歩道を別府方面に100mほど行くと、この城下かれいの料理屋があります。

この料理屋の敷地に「城下鰈供養塔」と「城下鰈祭りゆかりの地」が並んであります。

時期はいつか分かりませんが、年に一度(?)、関係者が集まって城下かれいの供養を執り行うようです。

「ひじ城址Map」によると、ちょうどこの供養塔から先程の「人柱祠」の間の岸近くの海が「城下かれい生息地」と書かれていますので、供養塔がここにある理由なのかもしれません。

 

日出城址の散策コースに戻って、「暘谷稲荷」。

散策コースは、このあたりから海岸沿いの道(城下海岸遊歩道)から城址の石垣の上に上がっていく感じで、少し歩くと、この絶景を望むことができます。

(「ひじ城址Map」ではここからの景色を「東洋のナポリ」と絶賛しております。(笑))

散策をスタートしてすぐの日出小学校の正門と鬼門櫓の間に「日出の湧き水」という水場がありましたが、このあたりは「海底湧水ポイント」だそうです。日出は湧き水が豊富なようです。

(見た目には浅瀬ということは分かりますが、真水が湧いているかどうかは分かりません。それにしても水がきれいです。)

「軍艦海鷹之碑」。

「海鷹」は元々は旅客船「あるぜんちな丸」で、昭和16年に海軍に徴用され、航空母艦に改装されたそうです。南方作戦や、航空機による特攻隊や人間魚雷「回天」の訓練に使われたそうです。昭和20年7月に豊後水道で触雷し、駆逐艦に引かれてここ城下海岸に係留(着底)。米軍の空襲が激しくなる中、動けない「海鷹」は集中砲火を浴び中破、そのまま終戦を迎えました。この碑は、昭和57年、鎮魂と世界平和の願いを込め、建立されました。

「高浜虚子句碑」。

(日差しが強くて彫られた字が見えませんが、すぐ横に説明板があります。)

高浜虚子が大正9年に日出を訪れた時に詠んだ句「海中に 眞清水わきて 魚育つ」。(まさかの海底湧水スポットの俳句。(笑)) 昭和27年に句碑として建立されました。

日出城址は石垣が素晴らしいですが、特にこのあたりの石垣が美しいと思いました。

(とても緻密な石積み。そして簡単には登れない(侵入できない)ような複雑さ。)

ここが日出城址の石垣の東端。現在は、この幅の広い坂を挟んで、右手は日出小学校、左手は日出中学校。

それにしても見事な石垣です。

日出中学校の、ここが正門でしょうか。

この大階段のすぐ近くに「大サザンカ」があります。

(樹齢は400年以上、大分県指定天然記念物。)

歩いていて自然とこの場所に来ましたが、どうやら日出中学校の敷地内。昔は、日出藩の武家屋敷があったそうです。

そろそろ日出城址の散策コースを一周したことになります。

このお堀を渡ると、スタート地点の「二の丸館」に戻ります。

(桜がお堀の緑といい感じです。)

日出城散策コース、今日巡ったのは「30分でめぐるミニ散策」です。石垣、櫓、桜、海など、変化に富んだコースで、手軽に回るにはおススメです。(特に快晴の別府湾の眺望は絶景です。「東洋のナポリ」!(笑))

 

ここから最寄りの駅「暘谷駅」にキティちゃんがいっぱいいるというので行ってみました。

(「暘谷駅」。次の駅は「日出駅」。)

「サンリオハーモニーランド」があるので、サンリオのキャラクターが駅に溢れているようです。ここを入って左が待合室のようになっていますが、壁面などはキティちゃんだらけで、通称「キティちゃんの部屋」と言うみたい。(恥ずかしかったので、外から覗いただけですが。)

 

さて、残す立ち寄りスポットは2ヶ所です。

国指定天然記念物の「日本一の大蘇鉄」がある「松屋寺」(しょうおくじ)。

この山門をくぐると、池のある庭があります。

(山門の向こうでは、お寺の方が落ち葉を燃やしていて煙モクモクでしたので、写メなしです。)

本堂前の「大蘇鉄」が抜群の存在感を出しています。

こちらが江戸時代から「日本一」と名高い「大蘇鉄」。

(これが一株というのは驚きです。樹齢約700年、高さ6.1m、株元の周囲6.4m。)

この大蘇鉄は元々は府内城(大分市)に植えられていて、明暦2年(1656)、日出藩2代藩主の木下俊治が府内城番交代で帰城の際に持ち帰ったそうです。(って、こんなの持ち帰れるのぉ!)

これからの旅の安全をお願いし(お参りし)、御朱印をいただきました。

落ち葉を焼く煙モクモクがマシになっていたので、桜の写真をきれいに撮れました。

桜は今が満開、次週は散り始めるだろうなぁ、という感じでしたが、シャクナゲが次の主役として既にスタンバイ済みです。

最後の立ち寄りスポットは、松屋寺の道路向かいにある「龍泉寺」。

日出藩の家老を務めた瀧家の代々の墓所があり、滝廉太郎のお墓もここにあります。

瀧家代々の墓所。

この墓所の左サイドに滝廉太郎のお墓があります。

(中央奥の丸みのある墓石が滝廉太郎のお墓です。)

家老筋の累代のお墓も、「楽聖」と言われた滝廉太郎のお墓も、とても質素でした。手を合わさせていただきました。

 

さぁ、現在10時半過ぎ。妻たちは11時チェックアウトですから、ちょうどいい時間です。

レンタカーで別府の上人ヶ浜の「ガハマテラス」(AMANE RESORT GAHAMA)へお迎えにまいります。(笑)

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