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尾道・鞆の浦2泊旅行⑤[完]〔3日目帰路編〕

2023年09月28日 | 旅行記

2泊3日の旅の最終日。荷物を「汀邸 遠音近音」に預かってもらって散策に出かけます。鞆の浦を散策したら、荷物を引き取って鞆の浦を出発、最後に福山城に行ってみようと思います。鞆の浦の散策マップに歩いたコースをプロットしてみました。

(黄色点線が歩いたコース。鞆の浦の中心街の散策はレンタサイクルすら不要、徒歩で十分というコンパクトさということが分かりました。)

散策コースはざっくり言うとこんな感じです。「遠音近音」→船番所跡→常夜燈エリア→昔ながらの街並み→鞆の浦歴史民俗資料館→沼名前神社→ささやき橋→海岸沿いの道→国立公園の碑→「遠音近音」。

それでは出発です。

(大通りに出ると停車していた、福山駅と鞆の浦を結ぶ「鞆鉄バス」。ボンネットバス(猫バス)も稀に走っているらしい。)

■船番所跡

船の出入りと安全を監視するため、江戸初期に最初の鞆奉行 荻野新右衛門重富によって崖の上に築かれました。

(現在の建物は昭和30年頃に再建されたもの。)

■波止場

大きな花崗岩を積み上げた防波堤で、江戸時代に築かれたものでは国内最大規模。延長・修理を繰り返し、現在の総長144mになったのは文政7年(1824)。

(車が余裕で進入できる幅があります。)

魚釣りのポイントになっているようで、何人か釣っていました。

(江戸時代の建築物とは思えない堅牢さを感じます。)

ここから港の弧の形に添って歩いていくと、鞆の浦のシンボル「常夜燈」が見えてきます。

(遠目に見ても、大阪の堺市の「堺旧燈台」と同じくらいの大きさがあります。)

■鞆ノ津の力石

江戸時代、船の積荷の陸揚げ・積み込みに従事する「仲仕」たちが、祭礼の場などでこの力石を持ち上げて、その力と技を競ったもの。

(この祠の横に3個、沼名前神社の拝殿の横に20個あるそうです。結構な数、ありますね。(笑))

「鞆ノ津の力石」は港の弧の形の❝頂点❞あたりにありますが、ここから見た常夜燈。

(人の大きさと比べると「堺旧燈台」よりも大きいかも。大きさの基準が「堺旧燈台」で分かりづらくてすみません。(笑))

常夜燈へのアプローチはこの路地を通ります。

(観光パンフレットにも写真が載っていた路地の景色。)

■保命酒屋(鞆酒造株式会社)

現在4社が製造販売を続けている保命酒。その中でも最も古くから保命酒を作っているのがここ「保命酒屋」です。

保命酒(ほうめいしゅ)は生薬を含むことから「瀬戸内の養命酒」とも呼ばれるリキュール。中村吉兵衛吉長が鞆の浦に移り住み、家伝の薬方をもって万治2年(1659)に製造したのが始まりです。

(以前職場の方から福山出張のお土産でいただいたことがあります。未開栓でパントリーにありますので、養命酒のように飲んでみたいと思います。)

■太田家住宅

母屋や保命蔵など9棟から成る建物群で、江戸中期から末期にかけて保命酒の醸造で栄えた中村家によって拡張・増築され、現在の規模になりました。明治期に回船業を営む太田家が受け継ぎ、国指定重要文化財に。

(住所表記のように見せた観光案内板と思われます。入り組んだ街並みですので、現在地が分かると散策しやすい。)

ひと際立派な間口の太田家住宅。

(9棟のうち、最も海側にある建物が現在修繕中で完全養生されていました。)

昔ながらの街並みが素敵です。一般の民家だと思いますが、昔懐かしい看板が普通に残っています。

(昭和世代の私は子どもの頃よく見かけた看板。)

保命酒屋、太田家住宅を抜けると、常夜燈のある港に到着です。

■常夜燈

海中の基礎から最上部までの高さは約10m。石造りの常夜燈としては日本最大。安政6年(1859)に建てられ、灯台の役割を果たしてきました。

(鞆の浦のシンボル的景色。)

常夜燈、間近で見ると巨大です。(ちなみに、「堺旧燈台」は約12m。)

(宿でまったりしていたので全く思い付きませんでしたが、夜に灯りが点いた常夜燈は格別の景色でしょうね。)

■雁木

潮の満ち引きに関係なく積荷の揚げ降ろしができるように工夫された階段状の船着き場。21段ある石段は文化8年(1811)に造られたと記録があるそうです。

(満潮か、石段の上の方まで海面が来ています。この港の弧の形がほぼ雁木に整備されているように見えました。)

近くに「鞆の港」の説明板がありました。「瀬戸内の中央に位置する鞆は、内海の潮の干満の分岐線にあたります。内海を航行する多くの船はこの潮に乗っての航法だったので、『潮待ち』をここで行いました。・・(中略)・・明治以降、鉄道の開通、汽船の就航等により『潮待ち』する船もなくなってしまいましたが、今日でも当時の港の活況を彷彿させる港湾施設がよく残っています。沖に突出する波止、常夜燈、雁木、港に面している豪商・回船問屋とその土蔵等、江戸時代の港町鞆の繁栄ぶりを示すものです。」

次は、常夜燈のある港エリアから、小高い丘になっている「鞆城跡」へ行ってみます。ここには「福山市鞆の浦歴史民俗資料館」がありますので、暑さから逃れての休憩も兼ねて入ります。

■福山市鞆の浦歴史民俗資料館

福山市制70周年を記念して鞆城跡の高台に建設されました。

(見学者は私たちのほか1組くらい。冷房やや弱めで汗がしばらく止まりませんでした。(笑))

小ぢんまりとした館内には、歴史資料やお祭りなどの民俗資料のほか、鞆の浦で幼少期を過ごした、世界的作曲家・箏曲家の宮城道雄さんの「春の海」(1929年発表)関連のもの等を常設展示。宮城道雄さんは8歳で失明する前に見た鞆の浦の海を思って「春の海」を作曲したと言われています。

(歴史編、観光編、祭編などの紹介ビデオが充実していて、鞆の浦のことを勉強できます。)

そして、ここは鞆城跡の高台なので、景色がとてもいいです。

(右端のクレーン車のブームが2本立っている丘にある建物が駐車スペースがなく断念した「淀媛神社」(と思われます)。)

別方向を見ると、「遠音近音」が見えます。

(右側のひときわ高い建物が「遠音近音」。)

次は、今日の散策で一番遠い「沼名前神社」へ行ってみます。ここから徒歩10分というところでしょうか。

■沼名前(ぬなくま)神社

海上安全に効験のある大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀る「渡守神社」と、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀り無病息災を祈願する「祇園社」、2つの神社が明治時代に統合され、「沼名前神社」となったそうです。

(誰もいません。(笑))

「鳥衾形鳥居」。寛永2年(1625)、福山藩第2代藩主 水野勝重(のちの勝俊)が長男勝貞誕生にあたり、その息災延命のため寄進したもの。広島県指定重要文化財。

(鳥衾(とりぶすま)とは、一般的には、屋根の大棟や隅棟の上に長く突き出した瓦のこと。)

沼名前神社は鞆の浦で行われる多くの祭の舞台となります。昨日中心街でにぎわっていたのは渡守神社の例大祭(の最終日)。それとは別のこの「お手火神事」が有名なようです。

(神輿渡御のためのお清めと氏子の厄払いのための神事。7月第2土曜日開催。)

沼名前神社は平安時代の延喜式にはその名が登場している由緒ある神社。それではお参りさせていただきます。

(酷暑です、、、目の前に階段が。(笑))

神門「随身門」。

(立派です。)

神門をくぐると、まだ階段は続きます。

(壮観というか威容を感じます。)

手水舎で清めようと思います。

(が、水が循環している様子もなく、何となく淀んでいるようにも見えたので、心の中で手と口を清めました。)

沼名前神社は地元では「祇園さん」と親しまれているそうです。

(「ぬなくま」とはなかなか読めないですね。)

拝殿前から振り返った景色。

(立派な石灯籠は、慶安4年(1651)、福山藩第3代藩主 水野勝貞の寄進によるもの。福山市指定重要文化財。)

拝殿。お参りさせていただきます。

(この拝殿の右横に、港でも祀られていた「力石」(福山市指定重要文化財)があります。)

御朱印をいただきました。

それにしても暑いです。集中力がなくなっていたのか、沼名前神社の見所のひとつ「能舞台」を見るのを失念しました。能舞台は、豊臣秀吉遺愛のもので、京都伏見城内にあったものを、元和6年(1620)の伏見城解体の際、福山藩初代藩主 水野勝成が徳川秀忠から拝領し、その後寄進されたもの。

次は、❝日本一短い橋❞「ささやき橋」へ。沼名前神社から3分ほどの所です。

■ささやき橋

悲恋の伝説の舞台となったここに建てられた石碑とのことです。

(橋っぽいけど橋ではないのですね。)

昔々、鞆の浦は「七島」(ななしま)と呼ばれる、橋でつながれた中州でした。百済からの使節役と大和朝廷の接待官が恋に落ち、夜ごとその橋のたもとで逢瀬を重ねましたが、発覚し2人とも海に沈められた。その後「鞆の七島」は地続きになりましたが、この悲恋の伝説を語り継ごうと、その橋のあった場所に碑として「ささやき橋」を建てました、、、という由来だそうです。

(合掌。❝橋❞の石板は歩いたり車が通ったりすると、ガタガタと音がしますが、大丈夫ですかね。)

■山中鹿之助首塚

毛利氏に滅ぼされた尼子十勇士の1人、山中鹿之助。天正6年(1578)年7月、尼子氏が滅亡し囚われの身となった山中鹿之助は「阿井の渡し」(岡山県高梁市落合町)で処刑され、その首は備中松山城に滞在していた毛利輝元に届けられ首実検が行われました。その後、鹿之助の首は備中松山城から鞆城へ送られ、当時の将軍足利義昭も首実検し、この首塚の近くに埋葬されたと伝わります。

(合掌。)

山中鹿之助と言えば、「われに七難八苦を与えたまえ」の名言が有名。新入社員の頃、某研修センターにこの名言が掲げられていて、「仕事とは七難八苦なのか、、、。」と暗鬱とした気持ちになったのを覚えています。(笑)

ここで、暑さもそうですが、お腹も空いてきて、ややバテバテとなってきましたので、遅めの昼食にします。海岸通りまで出ればお店もそこそこありますが、たまたま通りかかったこのお好み焼き屋が気になったので飛び込みました。

(「お好み焼き くまがい」。住宅街の真ん中にひっそりとありました。)

これまでいろいろあったのか、こんな❝注書き❞が出ていました。

(全く問題ありません。どの地域のお好み焼きでも大好きです。(笑))

シンプルなメニューと、「先代からのこだわりのソース、、、」という表記が好印象。

(さて何にするか迷います。)

焼うどん(すじこん入)と、、、

(妻のリクエスト。)

シーフードミックスにしました。

(焼うどんとお好み焼きをシェアしていただきました。)

美味しかったですねぇ。福山到着初日の昼食にラーメンかお好み焼きかで迷ってラーメンにしましたが、最終日にお好み焼きも食べることができました。偶然の❝伏線回収❞。(笑)

水分もたっぷり補給して、散策最終盤へ出発します。ここからすぐに海岸通りに出ることができます。日差しは厳しいですが、海風が気持ちいいい海岸通りを「遠音近音」に向かって歩きます。

(「遠音近音」の❝本館❞が見えてきました。「仙酔島 渡船のりば」はここなんですね。平成いろは丸もたくさんのお客さんを乗せて出航を待っています。)

ここには撮っておきたい❝名勝の碑❞があります。

■仙酔島展望地

(背景に弁天島のお堂が見えます。)

この道路向かいには、仙酔島や弁天島、鞆の浦の美しい景色を眺めることができる「福禅寺対潮楼」という名所があります。「遠音近音」から景色を堪能しましたし、高台に上るのがつらい暑さなので、スルーしました。

■福禅寺対潮楼(下から見たところ)

(この高台に上って、障子を抜いた窓から仙酔島の眺望を静かに味わう所です。)

仙酔島渡船のりばを回り込んで、「遠音近音」に近づいてみると、旧籠藤と❝本館❞の位置関係がよく分かりました。

(絶好のロケーションに建っていますね。)

最後に弁天島・仙酔島の絶景を撮り納めしておきます。

(仙酔島に渡ってこちら側を見るとどんな景色なのでしょう。)

散策はこれで終了。「遠音近音」に戻ります。確かこの路地を入ったところ、、、。

(送迎車で到着した時に案内してもらったから分かりますが、初見だと迷いそうです。)

「遠音近音」の旧籠藤の建物も撮り納めです。

(お世話になりました。)

この後、預かってもらった荷物を引き取り、「ホテル鴎風亭」への送迎車を呼んでもらいました。

(いい宿でした。鞆の浦の散策もとても良かったです。夏場以外の季節に来れば、最高の散策になるのではないでしょうか。)

「ホテル鴎風亭」を15時前に出発。福山駅方面へ向かいますが、帰りの新幹線の時刻までには余裕がありますので、「福山城」に行ってみることにします。走ること20分ちょっと、福山城に到着です。無料駐車場に入れることができ、天守閣に向かって歩き出すと、見えてきた天守閣がツートンカラー?

(何なのでしょう、天守閣のこちらの面は黒、隣の面は白って。)

天守閣に登ってみることに。正面(?)に回ると、美しい白の天守閣です。

(新幹線の車窓から何度も見ていますが、こんなに立派な天守閣とは失礼ながら知りませんでした。)

現在特別展も開催中ですが、常設展のみの見学とします。

(ペリー来航の時の老中筆頭、福山藩第7代藩主の阿部正弘。老中筆頭に抜擢されたのは何と28歳。39歳の若さで亡くなるまで福山藩(地元)に戻ってくることができたのは、たった一度だったそうです。その折、領内に入った時、農作業や道路脇で挨拶する領民に対し、馬上で笠を取って挨拶を返したというお人柄だったそうです。)

福山城を築城したのは、第2代将軍徳川秀忠から、西国の押さえにこの地に堅牢な城を築き治めるように指示された、水野勝成。何と福山城をたった2年で築城したそうです。

(初代福山藩主。「信長の野望」でも活躍中。(笑))

1622年に完成した福山城は、1931年に天守閣が国宝に指定され、1933年には伏見櫓、鉄筋御門、御湯殿も国宝に指定される貴重な建造物群でしたが、1945年の福山大空襲によって天守閣などが焼失、1966年に福山市市制50周年事業として再建され、現在に至っています。その後、2022年、築城400年の記念事業「令和の大普請」によって、天守閣の外観が復元されました。先程見たツートンカラーは、実は、鉄壁の福山城も城の北側は地形や堀などの守りが薄いことから、砲撃等への防御力を増強するため天守閣北面一面に鉄板が張られたもので、令和の大普請によって忠実に再現されました。

(撮影OKゾーンの天守閣の鯱(しゃちほこ)。)

「日本100名城に行こう」スタンプと、福山城登城記念証のスタンプをゲット。(笑)

天守閣最上階から新幹線のホーム方面を見た景色。

(ホーム近くに立派な櫓が建っていますが、いつも車内から見て福山城だと思っていたのは、この櫓だったかもしれません。)

別の方向にゴシック様式の建物が見えました。

(名のある教会かと思ったら、結婚式場だそうです。)

また別の方面には黒い雲も湧き上がっています。

(太陽の光の加減なのか、強烈な雨雲なのか。)

福山城天守閣、とても勉強になる博物館でした。映像や体験コーナーも充実していておススメです。駐車場への帰り道、今度はその意味を知った上で天守閣を眺めました。

(これが全て鉄板張りとは。知ってみると迫力を感じます。)

最後の立ち寄りスポットの福山城を出発し、レンタカーを返却、駅で夕食の駅弁をあれこれ見回って購入、新幹線のホームに上がりました。ホームの窓から、今見学してきた福山城を眺めます。

(櫓が立派です。先程勉強したところでは、初代藩主水野勝成が築いた当初の福山城は、5層の天守閣に加え、同じ10万石規模の大名の城の天守閣クラスの櫓(三重櫓)が6つもあったそうです。破格の規模と堅牢さを誇る日本有数の名城だったのですね。)

帰りも❝直通❞ののぞみに乗りました。福山駅の駅弁は穴子弁当が有名らしいのですが、すっかり売り切れでした。ということで、「さぼてん」のトンカツ弁当にしました。(笑)

(「ベラビスタ」の湯上りお休み処からもらってきた「瀬戸内茶」パックとともに。(笑))

これにて尾道・鞆の浦2泊旅行の全行程が終了。毎度のことならが、旅はいいですねぇ。尾道は2回目でしたが、初めての鞆の浦、とても良かったです。福山城の歴史なども勉強になりました。

この旅行記を書いている頃はさすがに少しは涼しくなってきているでしょうか。暦はどんどん進んで、あと数日で10月です。

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