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酔生夢死ってわけでもないけれど、、、日々雑感

桜島、照国神社、両雄の像(鹿児島にて)

2019年11月20日 | まち歩き

鹿児島に出張してきました。

何度見ても、いつ見ても元気をもらえる桜島。

(ホテルにチェックイン、部屋の窓よりズームで。)

最近の桜島は、今月7日には噴煙が上空3800mに達する「爆発的噴火」が起き、翌8日には5500mに達する爆発的噴火が発生。

5500mは、1955年から残る記録の中で最大、5000mを超えるのは2000年以来19年ぶりだそうです。

翌朝日の出前の桜島。

(部屋の窓より。)

噴煙が北風に吹かれ南の方向に流れています。

7時オープンの朝食会場の窓際の席から見た桜島。

この日の日の出の時刻は確か6時50分くらい。

ゆったりとした雰囲気の中で美味しい朝食をいただき、部屋に戻って見た桜島。

完全に太陽が昇りました。

 

これから博多に戻るのですが、新幹線の時刻に若干余裕があったので、照国神社に寄って行くことに。

城山からタクシーで下って行くのですが、運転手さんからの豆知識。

「このあたり(城山)は竹がたくさん生えていますが、自然に生えたわけではなく、島津藩の時代、シラスの崖は雨が降るとすぐに崩れるので、『竹を植えよ』という指示で竹を植えたからです。斜面の緩急によって何種類もの竹を植え分けたのですよ。」

照国神社に到着。

(宿泊したホテルが山の上に見えます。)

まだ8時半頃なので、ご近所さんでしょうか、毎朝お参りされているような方がちらほらいるだけ。

(国旗(日の丸)がはためいています。)

照国神社は島津斉彬公をお祀りしていることは知っていましたが、日本の国旗「日の丸」を提案したのが斉彬公だったとは、恥ずかしながら初めて知りました。(タクシーの運転手さんに教えてもらいました。(笑))

(日の丸制定の由来の碑。)

碑文を要約すると、、、

1853年(嘉永6年)、日本の船(軍艦)に日の丸を掲げ外国船と区別することを斉彬公が幕府に提案。翌年、日の丸を「総船印」とすることが決定、1855年(安政2年)、薩摩藩が建造した船「昇平丸」に初めて日の丸が掲げられ、日の丸は、1860年(万延元年)に国旗に昇格、明治政府も、1870年(明治3年)には日の丸と国旗と定めた、、、とのことです。

(照国神社に隣接する場所にある斉彬公の像。)

お参りさせていただきました。

御朱印をいただこうと思いましたが、まだ授与所が開いておらず、今回は見送りました。

 

照国神社から鹿児島中央駅までぶらぶら歩いて行くことに。

まずは、ちょっとだけ反対方向に歩いて、西郷さんの像を見に行きました。

西郷さんの像の印象を記憶に残しつつ、甲突川沿いにある大久保利通さんの像へ。

途中、「キリスト教伝来の地」の碑があったりします。

かなり駅に近いですが、こちらが大久保利通像。

見たかったのは、台座に彫られた「大久保利通像」の文字。

微妙ですが、「通像」の2文字がずれています。

「西郷さんを殺した大久保の像だから、名前をわざとゆがめて書いた。」という話がまことしやかに言われています。

が、真実は、揮毫した当時の県知事の文字が元々ゆがんでいたのが原因だそうです。

ただ、当時地元では、大久保利通像を造ることに対して根強い反対意見もあった、という上記都市伝説が生まれる土壌はあったそうです。

 

鹿児島中央駅に到着。

爽やかな朝の散歩となったまち歩きでした。

 

気が付けば11月も20日を過ぎました、、、最近、曜日感覚がおかしくなっています。(笑)

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