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大石内蔵助の長男、大石主税【刃上樹剣信士】のお墓 最年少の義士(享年16才)
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先ほどの中門をくぐると、山門があります 扁額に書かれた「泉岳寺」の文字は墨蹟研究家、大野約庵 の筆によるものです と、いかにも大野約庵という人がどのような人か知っているような説明ですが... ごめんなさい 全然分かっていません |
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吉良邸討ち入り後、吉良上野介の首をこの井戸で洗って 主君、浅野内匠野頭の墓前に供えたことから「首洗い井戸」と言われています |
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上野介の首は浅野内匠頭【冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士】の墓前に供えられました 大石内蔵助を始め四十七士のお墓は主君を守るかのように左側に隣接してあります 無類の酒好きだったと言われる < はお参りした人が かけるお酒で黒ずんでしまっています |
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大石内蔵助の長男、大石主税【刃上樹剣信士】のお墓 最年少の義士(享年16才)
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叔父・甥の義理を結んでいた菅野六郎左衛門の高田馬場での果し合いに助太刀を 買って出たことでも知られる剣客、堀部安兵衛【刃雲輝剣信士】のお墓(右) 内蔵助以下全員「刃」と「剣」の文字が入った戒名ですが、これは自決 を表しているようです |
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父から吉良家との繋がりの深い家柄の大島家へ仕官するよう強く勧められ旧主への忠義と 父への孝行との間で板ばさみになり、討ち入り前に切腹した萱野三平【刃道喜剣信士】(左) 「仮名手本忠臣蔵」では腰元のお軽と駆け落ちをし、自害する早野勘平として描かれており 48人目の赤穂浪士とも呼ばれています |
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さて、泉岳寺の塀(左)に沿って学校や住宅に挟まれた細い道を北西の方に進むと 大石内蔵助外16名が預けられた熊本藩細川家の下屋敷の跡地があります |
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内蔵助外16名は細川家の下屋敷に預けられ、翌 元禄16年2月4日 ここで切腹しました |
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内蔵助が切腹した石は・・ |
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今でも当時のまま残されています |
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高野山にも【冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士】(浅野内匠頭)のお墓(中央)と 【忠誠院刃空浄剣居士】(内蔵助)外四十六士各霊のお墓(左)が建立されています |
昨日の事始めから急に時間が早まるようで
気忙しいです。
忠臣蔵は何度も映画やTVで見ていますが
こうして書いていただくのが一番判りよいです。
今でも大型観光バスでたくさんの人が義士祭に来られたり、
映画やTVで放送されたりするのは 仇討ちをする「忠臣蔵」が 日本人好みのハナシだからでしょうね。
今はいませんが、実家の父も「忠臣蔵」を見ていました・・・
ものの考え方が大きく変わってきた今
ふと思います
お父様もそんなところがお好きだったのでしょうね
「忠臣蔵」は祖母のお伴をして小さな頃は映画
長じてからは歌舞伎とよく出かけたものでしたが
今ではストーリーより戒名に「刃」や「剣」の文字が入ることなど別のことに興味がわきます