一方、新公会堂辺りはとてもカラフルで飛火野とは対照的です 写真は全部で6枚、5回のクリックでご覧ください |
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奈良の紅葉はまだまだ談山神社、長谷寺等々ありますが 今日はもう時間切れ・・ 残りは帰ってからアップします |
10.11奈良旅行・紅葉狩 |
一方、新公会堂辺りはとてもカラフルで飛火野とは対照的です 写真は全部で6枚、5回のクリックでご覧ください |
奈良の紅葉はまだまだ談山神社、長谷寺等々ありますが 今日はもう時間切れ・・ 残りは帰ってからアップします |
10.11奈良旅行・紅葉狩 |
観光客でいつも賑う奈良公園ですが、飛火野(とびひの)だけはそんな喧騒とは別世界 己がいつの時代にいるのか・・ 時の流れさえも忘れてしまいそうな飛火野が好きです |
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飛火野の秋 |
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10.11奈良旅行・紅葉狩 |
興福寺境内 | 興福寺南円堂 |
雨は一向にやみそうもないので正暦寺から他の紅葉には回らず興福寺に行くことにしました 興福寺では創建1300年にあたり、23日まで五重塔初層・東金堂後堂の特別公開中でしたが 平日の上にあいにくの雨と言うこともあってか、待たずに入れゆっくりと拝観することが出来ました 東金堂後堂では、50年ぶりに本来の場所に戻られた正了知(しょうりょうち)大将像を拝観 正了知大将像はなぜ国宝、重文にならないのかと訊ねたところ、ほとんど人目に触れることが ない(50年に一度?)ものは、その対象から外れるとのこと へぇ~、知りませんでしたぁ 特別公開の次は、今春リニューアルオープンした興福寺国宝館へ・・ 去年、人気に火のついた阿修羅像の前は遅々として進まず 昔はのんびり拝観出来たのに。。 それでも遠巻きにじっくり拝観出来ましたが、あっと言う間に閉館時間になってしまいました 雨が降っているのでぶらぶら散策と言うわけにもいかず、7時に予約していた食事を早めてもらい 粟ならまち店 へと向かいました 粟は人気のお店で直近では予約がとれないこともあります とくに今回、ならまち店と共に予約しようと思った 粟 清澄の里 は年内は予約がいっぱいで なんとか来年の1月中旬に予約がとれたと言うほどの盛況ぶりです 築130年の古民家を改装した粟ならまち店は、以前「勝南院(しょうなみ)文助」という日本料理屋さん だったのですが、雰囲気は良かったものの、これと言った特徴が無かったからでしょうか・・ この「粟」のように目を見張る盛況ぶりではありませんでした |
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大和の伝統野菜と世界の伝統野菜 |
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10.11奈良旅行・紅葉狩・うまいもん |
本堂石垣 |
本堂の紅葉 |
22日の奈良は朝から雨でしたが、空はわりと明るく、正暦寺に行くには願ってもない撮影日和でした 正暦寺は「錦の里」と呼ばれ、紅葉の名所として知られる一方、日本で最初に清酒が醸造された場所でもあります 近年、正暦寺の菩提酛(ぼだいもと)が復元され、奈良の酒造メーカーはこの菩提酛を使った日本酒を造っています その中の何種類かの利き酒をしましたが、正暦寺の菩提酛は甘口で酸味が強いのが特徴のようです |
10.11奈良旅行・紅葉狩 |
春日大社宮司職舎 |
元々、高畑(たかばたけ)は神職が住む町として開けた地で、志賀直哉が代表作「暗夜行路」を完結させたのも ここ 高畑に自ら設計して建てた家で、でした ゆったりとした時の流れにすっかり魅了された私が四半世紀の間、住みたいと憧れ続けている地でもあります 昨夜帰ったばかりで、写真の整理がまだできておらず、紅葉狩と言う割にはこじんまりとした紅葉でスミマセン |
10.11奈良旅行・紅葉狩 |
今春、法隆寺を1300年にわたって守ってきた大工さんたちが住んでいたと言う法隆寺西里を歩きました 瓦屋根に白壁の民家そして土塀と、昔ながらの町並みを今も残す集落の中にあったモダンな造りの家 門の脇には、この地を訪れる人をもてなすかのように小さな花壇が設えられており、可愛い猫の置物が ちょこんと座って道行く人に笑顔を振りまいていました |
先月行った直島でのこと・・ 宿泊したホテルからほど近い町営バスの停留所と背中合わせに不思議な鳥居がありました どう見ても足が短すぎます 海岸側から見たら下まで見えるのかしら、と正面に回ってみましたが やっぱり同じ 家に帰ってから、神号額に書かれた恵比須神社を手掛かりにネットで検索すると 直島百景と言う墨彩画のサイトに作品116「琴弾地の浜」と言う題で、この鳥居が描かれていました そこに描かれた当時の鳥居は普通の高さの鳥居のように見えました 長年のうちに砂に埋まってしまったのでしょうか だとしたら、次に行った時は・・上の方しか無い? |
付近にあった江戸幕府の米蔵が由来となった地名・蔵前から蔵前橋と名付けられました この付近には江戸時代から「富士見の渡し」と呼ばれる渡し船がありましたが 関東大震災発生により消滅し、昭和2年(1927)震災復興事業によって蔵前橋が架橋されました ※ 「富士見の渡し」は舟上から富士山が良く見渡せたのでこの名がついたと言われており 「御蔵の渡し」とも称され、現在の蔵前橋の下流側にありました 葛飾北斎の「冨嶽三十六景 御厩川岸 両國橋夕陽見」にも描かれています
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東京の橋(隅田川) |
深緑色の橋はゆるやかな3つのアーチからなる厩橋 |
江戸時代、西岸に幕府の馬小屋があったことから、ここからの渡し船を「御厩(おんまや)の渡し」と言っていました 明治5年(1872)、定員を超える花見客を乗せた渡し船が転覆し十数人が死亡する事故が発生してからと言うもの この渡し船を利用する人もいなくなりましたが、上流の吾妻橋から下流の両国橋まで かなりの距離があるため 不便を感じた地元住民が費用を出し合い、明治7年(1874)木製の賃取り橋を架橋したのが厩橋の始まりでした しかし架橋はできたものの民間での維持管理は困難で、明治20年(1887)東京府に寄付されました 明治26年(1893) 木橋の老朽化でトラス鉄橋に架け替えられましたが、関東大震災によって大きな被害を受け 昭和4年(1929) 震災復興橋梁として架設されたのが、現在の厩橋です
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東京の橋(隅田川) |