想い続けることができれば、その想いはいつか成就する

その日その日感じたことを詩、エッセイ、短歌、日記でつづります。野菜も育ててます。

自家菜園から想う

2016年11月20日 | エッセイ

震災6年11月20日

 

   菜園の様子を紹介します。その他,日野菜、パパイヤなどもそだてています。里山農法と称して基本は鶏糞と中和の為の石灰来以外は使いません。 後は自然とどう仲良く付き合うかを考えています。

  我以外は師であり、自然は最高の教師でもあります。自然の摂理の中から色々学びます。畏敬の念も大事にします。今の子に欠けているのは畏敬の念です。
 

  今後は珍しい品種や花なども植えてボタニカルガーデンもやったり、ブルーベリーもどうかと考えています。
終活テーマは自然ですので、その観点から考えています。無理をせず、自然の力を生かすことです。

  生来、そのものが実存するということは、そこに何らかの価値が内包されていると考えます。その価値を最大限伸ばす事が私の務めと考えています。
 

  自然は価値のない人間はこの世に誕生させません。後はケセラセラ、成るようになり、成るようににしかならないのが世の常と思います。

  また、諸行は無常でもあります。森羅万象、刹那刹那日々変わっていきます。常識を過信してはいけません。その根底も常々変化しています。私は発見はいつも、常識を疑うことから始まると思っています。富士山も五合目の景色と山頂の景色が違うように、自分の立ち位置により見え方は変わって来るのです。

 庶民には庶民の目線があります。権力者には権力者の目線位置があります。それが、違えば見え方も違って来るのが自然です。このことはとても大事なことです。自分は固定的なものではなく、常々変わっているのです。

 戦後の農地改革など、誰が想像したでしょう。小作人はいつでも小作人でしかありませんでした。それが、終戦と共に大きく変化したのです。誰がこんなことを予想したのでしょうか。農地制度は特に第二次大戦後、GHQの指令により、地主制が解体され小作人も土地がもてるようになりました。

 いわゆる小作人の立ち位置が変わって来たのです。今までの目線が変わったのです。どうでしょう。そうすると景色が変わって見えて来たのです。

 今、貧困と富裕層の差が日本でも益々開きつつあります。どちらに属するかにより、立ち位置が変わって来るのです。

 そうです。今、教育界では絶対評価方法がとられていますが、現実は私は相対評価が正しいと思います。もし、人間がいないと仮定するなら、絶対的なものも存在するでしょうが、我々の社会は人間の眼から見ての社会です。すべての仕組みも人間が考え出したものなのです。ですので、絶対評価といっても結局は人間が評価する社会ですので、相対的の物事はとらえることからは逃れられないのです。ですので、文科省のいう絶対評価は間違っていると思います。現場でも困っていることと思います。やはり、偏差値でみるしか仕方がないのです。

 真っ黄色のひまわり畑で黄色い服をしてても目立たないと同じようなことです。その補色の色があってこそ、黄色い服も人に注目されるのです。世の中ダイヤモンドが浜の真砂のようにたくさんあったら誰が宝石とみとめるでしょうか。それと、同じです。稀少であるが故に価値があるのです。昔のバナナがそうでした。高かったですね。滅多に食べられませんでしたが、今はどうでしょう。言わずもがなです。

 

鶏糞を入れ石灰で中和しています。

ほうれん草です。左は冬瓜

白菜、右は大根

ほうれん草とソラマメ


九条太ネギとジャガイモ

小豆


ヤマトイモだったかな?


じゃがいも、左の少し見えるのがほうれん草

大根


太ネギとイチゴ 左下のが、バジル

コメント
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