露草があまりにきれいに咲いていたので、写真にとった。さわやかさな朝にぴったりである。それを見て
「人は毎朝生まれ変わる」
そんな、言葉を思い出した。なるほど、いい言葉だな。露草の花もそんな言葉にぴったりくる。その植物の持つ生来の魅力であろう。
路傍に露草が咲いている。その良さに気づく。それを見て幸せに感ずる。癒される。自然という懐の深さ、色々な場面に出くわす。邂逅といっておこう。「人生は邂逅の歴史である」と、言ったのは亀井勝一郎である。私はその本との邂逅を持った。まさに人生は邂逅の歴史である。「邂逅」私の大好きな言葉でもある。
さて、仏教に目を転じてみると「縁」という言葉が浮かぶ。因縁果の縁である。
30代の頃だったと記憶しているが、こんなことを意識した事があった。「人生成りたくても成れるものでもないし、成りたくなくても成らなくては成らないことがあるな。」このことは、詰まる所、所詮、人間は自分で主体的に生きているようで、結果生かされているのだな、と、自覚せざるをえなかったことだ。だから、他力本願的な生き方をするということではない。結果としてそうなるということである。だから、神という考えを持ってこないと、説明できないことが多々あるのだ。私にとって神とは、自分を含めすべての外界のもの、森羅万象を動かしている力、意志ともいってもいい。そのことだ。
ちなみに「縁」つく字を集めてみると、縁日、縁談、縁側、合縁奇縁、袖ふれあうも何かの縁、縁台…。思いつくだけでも結構浮かんでくる。
仏教が日本に伝来したのは、西暦552年と538年の2説がある。まあ、6世紀で間違いないだろう。その後、キリスト教が伝来したのが1549年だったかな。学生の頃は午後に仏教伝来する。以後四苦八苦のキリスト教と暗記したことを覚えている。仏教以前の日本古来の宗教と言えば神道であろう。だが、残念なことに国家神道となり戦争に移用され誤った道にいってしまった。
水色の露草、素朴でとてもきれいですね。それでいて、品があります。
「私を見てください。」
って、呼びかけているように感じましたよ。
露草は、やはり、雑草の中、路傍にさりげなく咲いているから生き生きして見えるんですね。それが、花壇の中に人に植えられ咲いていたらどうでしょう。魅力は激減してしまいますね。やはり、自然界をながめると、自分の居場所というものが、あるんですね。そこに咲いているからいいんですね。そして、朝に涼しい外気に当たりさりげなく咲いている所に何ともいえない魅力を感じます。山野草も好きで結構やっていますが、それも、同じような理由ですね。あるべくしてありそこにあり、咲くべくしてその時に咲き、時の流れと共に短い花の命を終える。短いからいいんです。露草の命。
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