『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』
神田桂一・菊池良著、宝島社、2017年
パロディやもじり、パスティーシュ(模倣)といったものが大好物なのです、ワタクシ。
一見するとバカバカしく、軽いものに見られがちなこれらのお遊び。でも、原点となる作品や作家の特徴やクセといったものをしっかりと咀嚼した上で、それらを効果的に真似たり、換骨奪胎して面白いものに仕上げるということは、実のところそんなに簡単ではございませんし、誰にでもできるというわけでもないんですよね。なので、面白いパロディやもじり、パスティーシュをものにするということは、相当に高度で洗練された知的遊戯なのではないか、とわたしは思いますし、それを上手くやれる方を尊敬してやまないのです。
その意味でもなかなか面白く、良くできていると思ったのが、今回取り上げる『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』であります。カップのフタの一部を剥がしてお湯を注ぎ、5分(もしくは3分)間待ってお湯を切り、ソースをからめて食す・・・という、カップ焼きそばを作って食べるまでの過程を、さまざまな作家や形式の文体模写で綴った、少し前から話題になっていた一冊です。
模倣されている面々は、太宰治、村上春樹、コナン・ドイル、ドストエフスキー、大江健三郎、夏目漱石、シェイクスピア、三島由紀夫、川端康成、アンドレ・ブルトン、宮沢賢治、芥川龍之介などといった古今東西の文豪たちから、星野源や又吉直樹といった新進の書き手、松尾芭蕉や相田みつを、俵万智といった俳人歌人詩人、さくらももこなどのエッセイスト、小沢健二や尾崎豊などのミュージシャン、そして人気ブロガーやYouTuberに至るまで多士済々。さらには『週刊文春』や『VERY』などの雑誌文体や新聞記事、求人広告、そして迷惑メールの形式まで模倣されており、全部で100通りのバラエティ豊かな文体で、カップ焼きそばを作って食べるまでの過程が描写されていきます。
太宰治『人間失格』や夏目漱石『坊っちゃん』、芥川龍之介『羅生門』といった、大作家のド定番作品の文体模写もそれぞれ面白いのですが(とりわけ宮沢賢治『よだかの星』の模倣は傑作でした)、それぞれの書き手(もしくは語り手)に合わせた面白い趣向が随所に凝らされているあたりも、なかなかお見事です。
たとえば、ジャーナリスト・池上彰編は、劇団ひとりなどのタレントを相手にしたニュース解説のやりとりを「カップ焼きそばの作り方解説」に置き換えたもの。また、村上龍&坂本龍一の対談は、お二人の対談集『EV.Cafe 超進化論』のパロディになっていて、いかにもこのお二人が「言いそう」なやりとりをうまく再現しております。
『ニューロマンサー』などの作品で知られるアメリカのサイバーパンクSF作家、ウィリアム・ギブスンの模倣は、炭水化物に “スピード”、作り方に “コード” などとルビが振ってあったりして、これまた実に「ソレっぽい」雰囲気で楽しませてくれます。また、官能小説家の宇能鴻一郎編では、食欲と性欲との密接で濃厚な絡み合い・・・もとい、関係が実によく表されておりました。
「麺の細道」と題した松尾芭蕉の模倣では、芭蕉の代表句4句がネタにされております。いずれも傑作なのですが、とくに「閑さや 部屋にしみ入る 啜る音」には、思わず声を上げて爆笑させられました。
中には「これはちょっとイマイチかなあ・・・」と思うような模倣もいくつかございましたが(コラムニストにして消しゴム版画家のナンシー関編は、ナンシーさんの大ファンであったわたしにはいささか物足りなさを感じました)、それぞれの書き手のクセや雰囲気を、総じてうまく再現しているように思いました。
とりわけよくできていると感じたのが、建築史家の井上章一編。ひらがなと読点(、)を多用した、井上さんの柔らかな文体が、実にうまく再現されておりました。こんな感じです。
「そっちょくにこう書くのも、どうかと思うが、おいしいとは思えないのである。めんはパサパサしていて、ソースもしょっぱい。しかしながら、おいしいと思う人のほうが多い。これは私がおかしいのだろうか。じぶんの味覚をおとしめられたような気がして、ずいぶん、きずついた。」
雑誌記事の模倣も傑作揃いなのですが、中でも『暮しの手帖』のそれは、この雑誌が持つある種の臭み(良くも悪くも)がしっかり活かされていて、なかなかの仕上がりでありました。また、ロック系音楽誌『rockin'on』の定番記事「2万字インタヴュー」の模倣も秀逸で、大いに笑わせてくれました。
文体模写のみならず、さまざまな漫画家の画風で文豪たちを描いた、漫画家の田中圭一さんによる「画体模写」イラストもなかなかの出来です。
「もし西原理恵子が宮沢賢治を描いたら・・・」も爆笑ものでしたが、わたしが一番のお気に入りなのが「もし青木雄二が川端康成を描いたら・・・」。青木雄二タッチの絵がこれほど川端康成にぴったり合うとは。背景の掛け軸に書かれた文言がまた、いかにも青木さんっぽくてイイ感じでした。
書き手に対しても、相当に高度で洗練されたセンスと、原点となる対象の咀嚼力が要求されるパロディやもじり、パスティーシュですが、書き手のみならず読み手も試されるところがあるので、なかなか油断ができません。
小説家・劇作家の井上ひさしさんは、自らが編んだ『児童文学名作全集』(福武文庫、1987年刊。残念ながら現在は絶版なので、どこかで復刊して欲しいところです)の最終巻である第5巻のあとがきで、読み手の「受信能力」について述べています。「書き手という発信機が送り出してくる電波=文章を、受信機=読み手がしっかりと受け止めること、これが読書である」と語った井上さんは、「理解できないのは、おもしろいと感じないのは、自分の受信能力に問題があるのではないか」という自己点検の余裕をもちながら、自己の受信能力=読みの力を鍛えることの重要性を説いていました。
井上さんがいう「受信能力」を鍛えて高めることは、パロディやもじり、パスティーシュを楽しむためにも必要なことのように思われます。なにしろ、原典となる作家や作品のことを知らなければ、その模倣を楽しむことができないのですから。
『もし文豪たちが〜』に話を戻すと、本書で模倣されている100通りの文体のうち、わたしが元ネタとなった原典を知っていたのは全体の8割5分程度、といったところでした。わたしの「受信能力」も、いまいち鍛え方が足りないようであります(とくに、最近の書き手には知らない人が多かったからなあ・・・)。
本書で初めて存在を知った書き手の中で、とりわけ興味が湧いたのは、北園克衛という詩人でした。戦前から1970年代にかけて創作活動を続けていた前衛詩人とのことですが、その模倣に現れる詩の形式がかなり独特なのです。こんなふうに。
カップ焼きそば
の蓋
のなか
のかやく
の袋
そして
やかん
のなか
のお湯
を
かける
さらに
湯切り
を
して
ソース
を
まぜる
一人
で
食べる
夜
の食事
こういう独特すぎる形式の詩を書いていたという北園克衛という人の詩を、なんだかやたら読みたくなって仕方なくなったわたしであります。
たかが文体模写。されど文体模写。大いに笑えながらも、読み手として試されているようなある種のコワさも感じる、なかなか侮りがたい一冊でありました。そして読んでいると間違いなく、無性にカップ焼きそばが食べたくなります。