『知的生産術』
出口治明著、日本実業出版社、2019年
還暦の頃にベンチャー生命保険会社「ライフネット生命」を立ち上げ、古希になってから立命館アジア太平洋大学(APU)の学長に就任という、チャレンジングな人生後半戦を送っておられる出口治明さんが、自らの職業経験と思索から導き出した、知的生産性を高めるための方法論を伝授する一冊です。
知的生産性を高める・・・というと、なんだかちょっと構えてしまいそうですが、出口さんはのっけから、
「イノベーションは、そもそも『サボりたい』という気持ちから生まれます」
と、構えていた力が抜けるようなことをおっしゃいます。もともと「横着で、面倒なことは大嫌い」なタイプだという出口さんは、勉強時間を短くして遊ぶ時間を確保するために、勉強のしかたを自分なりに工夫していた、という子ども時代の経験などを踏まえつつ、知的生産性を高めるということは、
「いかに効率よく仕事をして成果を出すか。その方法を自分の頭で考え出すこと」
だと定義します。
ではなぜ、生産性を高める必要があるのか。出口さんは、「世界一進んでいる高齢化で、何もしなくてもお金が出ていく」という、現在の日本が置かれている状況に触れます。そして、今後の高齢化率の上昇により介護、医療、年金などにかかる支出がさらに増大していく中で、「何も改革を行わず、みんなが貧しくなるか」「知的生産性を高めて、経済成長するか」の2択を迫られている日本は、GDPを上げることで新たに増加する支出分を取り戻す必要がある、と力説します。
経済成長なんて必要ない、みんなで貧しくなればいい・・・などという、いささか精神主義的な理想論を語る向きが(とりわけ「知識人」や「文化人」とされる方面に)見受けられますが、これからの日本が置かれている状況を考えれば、それがいかに無責任な空論であるのかが理解されます。経済成長を目指すということはやはり大事なのだ、ということを、改めて感じさせられました。
加えて、現在の日本が「骨折り損のくたびれ儲け」な状況にあるという実態が、さまざまなデータの裏づけとともに語られます。1970年以降、日本はG7中で最下位の労働生産性しか上げていないにもかかわらず、正規雇用の社員の労働時間は、1990年代のはじめからほぼ、年間2000時間超のまま減少していないとか。知的生産性を上げて労働時間を短くしていくことは、労働者にとっても利益になることなのです。
知的生産性を高めるために必要なのは「社会常識を疑い、すべての物事を根底から考え抜く」ことだという出口さんは、物事を考える上で必要となる5つの視点を挙げています。
①無限大ではなく「無減代」(むげんだい)を考える(仕事を言われたままにやるのではなく、なくしたり減らしたり、他で代用できないかを考えること)
②「なぜ」を3回繰り返す(誰も疑わないことでも、腹落ちするまで深く考え直してみる)
③「枠」や「制約」の中で考える(たくさん時間を費やすよりも、上限枠や規制を設けることで、時間あたりの知的生産性が高まる)
④「数字、ファクト、ロジック」で考える
⑤考えてもしかたがないことは考えない
いずれも有益な視点なのですが、わたしがとりわけ大事だと思ったのが、「数字、ファクト、ロジック」で考える、ということです。
わたしたち人間は自分の成功体験や主観を絶対視し、自分が見たいものしか見ない生き物。なので、相互に検討可能なデータと、過去に起こった事実をもとにして実証的に理論を組み立て、ゼロベースから新しく発想することの重要性が説かれます。また、立場や文化、思想の異なる人が集まって議論する場においても、「数字、ファクト、ロジック」で合理的に議論し、結論を出すことの必要性も語られています。
「数字、ファクト、ロジック」で物事を見て考える習慣は仕事のみならず、ふだんニュースや情報に接する上でもとても役立つのではないかと、わたしは考えます。ネット、SNSには事実そっちのけで、自分の偏った思い込みや、荒唐無稽な陰謀説を振り回す向きが少なからずおりますし、マスメディアの報道にも、自説に都合のいい形で事実を大げさに伝えたりする例が多く見られます。
そのような中で、「数字、ファクト、ロジック」で世界と社会の姿を正しい形で把握することは、社会生活を営む上でも重要なことでしょう(思い込みに囚われず、世界の正しい現状を把握することの大切さを説いた翻訳書『ファクトフルネス』がベストセラーとなっているのも、そのことの重要性を多くの方が認識しておられるからではないか、と思います)。
考えるべきときには腹落ちするまでとことん考えつつも、考えてもしかたがないことは考えないほうがむしろ合理的、だという5番目の視点「考えてもしかたがないことは考えない」というのも、仕事はもちろん日常においてもとても役に立つ考え方だなあ、と思いました。
これもSNSでよく目にするのですが、自分が考えてもしかたがない、あるいは考える必要もないことを、延々とグルグル考え続けているのを見ていると、ただただ時間とエネルギーを無駄遣いしているようにしか思えなかったりいたします。それだったら、自分ができること、やるべきことに集中して粛々と取り組んだほうが、よほど有意義なのではないでしょうか。
自分の頭で考えるために必要なのが、良質な情報や知識。出口さんは有益な学びの方法として「人・本・旅」の3つを挙げます。
同質な人間ばかりに会うのではなく、自分とは異質な脳を持つ人に出会うこと。食わず嫌いはやめて、さまざまなジャンルの本を読むこと。旅に出て現場に身を置くことで、理解のレベルを上げること。こうした「人・本・旅」で得られた良質な情報や知識も、仕事の場はもちろんのこと、生きるクオリティを高める上でも役に立つのは、言うまでもないことでしょう。
能力を十分に発揮するためには健康も大切。とはいえ、出口さんはいわゆる「健康法」や「健康管理」にまつわる本は読まず、健康に関する諸説もまったく参考にはしないのだとか。わたしたちのカラダは一人ひとり違い、すべての人に通用する健康法などあるはずがない、というのがその理由です。なので、「自分に合ったやり方」で体調をコントロールすればそれでいい、とのこと。これもまた、実に理にかなった考え方であるように思いました。
本書の中でもっとも、わたしの気持ちに響いたのは、以下の一節でありました。
「この世の中では、「いいとこ取り」は、不可能です。2つのものを同時に手に入れることはできません。
世の中のすべての物事は、トレードオフの関係にあります。すなわち、何かを選ぶことは、何かを捨てることと同義です。
(中略)
何かを得れば、何かを失う。
人生はすべてトレードオフです。
何か新しいものを得ようと思ったら、何かを捨てなければなりません。その捨てた場所に、新しいものが入る余地が生まれるのです」
手帳を捨てることでミスが減り、腕時計を捨てることによって気持ちに余裕が持てるようになったことを語ったあとに続くこの一節。わたしには、単なるノウハウや方法論を越えた、生きていく上で大切な知恵を得たように感じられました。
わたくしごとながら、今年で50歳という、人生におけるひとつの区切りを迎えます。人生80年としても残りは30年。うかうかしていると、あっという間に過ぎ去ってしまうことでしょう。
残りの人生を、有意義で充実したものにするためにも、自分の得たいことや求めるべきことを明確にしていかなければなりません。そのためにも、取り入れるべきことは取り入れ、捨てるべきことはどんどん捨てるということを、意識してやっていかなければ・・・出口さんのお言葉に接して、そんなささやかな決意を胸に生きていこうと思ったわたしであります。
本書にはほかにも、判断の省力化や習慣による日々の蓄積につながる「マイルール」の効用や、アウトプットすることによる頭の中の整理術、仕事の順番は緊急度ではなく「先着順」でという話、部下の適性や意欲を活かして正しく人材を配置する「才能マネジメント」の方法・・・などなど、仕事の場で、そして生きること全般においても役に立ちそうな、さまざまな方法論と知恵が詰まっております。
始まったばかりの新年度、仕事の中身を進化させていきたいという方はもちろん、「平成」から「令和」に変わるにあたり、新たな人生を切り拓いていきたいという意欲をお持ちの方にも、本書は大いに前向きなヒントを与えてくれることでしょう。