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宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

中島春雄さん追悼読書・・・怪獣と特撮の仕事を愛した男が、プロ根性と誇りに満ちた半生を語り尽くした『怪獣人生』

2017-10-22 13:15:05 | 映画のお噂

『怪獣人生 元祖ゴジラ俳優・中島春雄』
中島春雄著、洋泉社(新書y)、2014年
(親本は2010年に洋泉社より刊行)


2017年も、さまざまな分野で一時代を築いた方々の訃報をたくさん耳目にしておりますが、ゴジラの初代スーツアクター(ぬいぐるみ役者)をお務めになった元俳優・中島春雄さんが、8月7日に88歳で逝去されたという訃報は、わたしにとってとりわけショックで悲しいものでした。
中島さんはゴジラシリーズ第1作目の『ゴジラ』(1954年)から、第12作目の『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』(1972年)まで、18年にわたってゴジラ役を演じたほか、ゴジラシリーズ以外の東宝特撮映画や初期のウルトラシリーズでも、多くの怪獣を熱演してこられました。また、特撮映画以外でのさまざまな映画でも、端役として出演をしておられました。
中島さんの功績を偲ぶべく読んだのが、今回取り上げる『怪獣人生 元祖ゴジラ俳優・中島春雄』です。80歳を越えた中島さんが、怪獣役者として、そしていわゆる「大部屋俳優」として生きた自らの半生を初めて語った2010年刊行の単行本に新たなコメントを追加して、2014年に新書版として再刊されたものです。

昭和4(1929)年の元旦に、山形県酒田市で生を受けた中島さん。子どもの頃から大の飛行機好きだったこともあり、13歳で海軍を志願して空母や航空隊に配属。敗戦後は進駐軍のドライバーなどの職を転々とする中で俳優学校に応募し、その卒業とともに東宝へ入社することに。
当時の東宝に所属していた俳優たちは、スター級の「Aホーム」と、いわゆる大部屋俳優が属する「Bホーム」に分かれていて、中島さんが属していたのはBホームでした。映画の中では特に目立つこともない端役の仕事のみならず、「ケレン師」と呼ばれる危ない役を引き受けることもあったBホームの役者たち。中島さんも、1953年の戦争映画『太平洋の鷲』(翌年『ゴジラ』を手がけることになる本多猪四郎監督と円谷英二特技監督の初タッグとなる作品)で、日本では初めてとなる火だるまのファイヤースタントを演じたりしておりました。
1954年の夏。そんな中島さんのもとに、表紙に『G作品』とだけ記された台本が届けられ、そこに登場する「怪物の役」に指名されます。それがのちに『ゴジラ』となる企画でした。中島さんはこの作品で初めて、“特撮の神様” 円谷英二と会うことになります。
「キツい仕事だけど、やれるかい?中島くん」と円谷監督に念を押されながら、G作品こと『ゴジラ』の現場に飛び込むことにした中島さん。「キツい仕事でもゴジラ役をやり遂げる覚悟はあった」とはいえ、まだ誰も見たことがない空想上の怪獣をどう演じたらいいのか悩んだ中島さんは上野動物園に出向き、ゾウやクマなどさまざまな動物の動きを観察し、研究を重ねました。
そして始まった『ゴジラ』の特撮現場はやはり過酷なものでした。分厚いゴムで作られていたゴジラのぬいぐるみはかなりの重さで、しかも固くて動きにくいものだったとか。しかし中島さんは持ち前の体力と「必ずやり遂げる」という熱意と覚悟で、ゴジラ役の仕事をこなしていったのです。
はじめのうちは、分厚いぬいぐるみの中に閉じ込められることで「孤独」を感じていたという中島さん。しかし、現場が続くうちに「孤独」という気持ちは薄らぎ、ゴジラを演じることが「気持ちがいい」と感じるようになったといいます。

「広々としたセットにビルや道路が細かく作られている。見渡すと、本当に自分が巨大な体になったような気がしてくる。三台のキャメラが自分を狙っている。Bホームの俳優は、キャメラ一台が自分にまともに向くことも滅多になかった。それが三つだ。ゴジラは堂々たる主役だ。本番になって『スタート!』と、キャメラが回り出すと、大怪獣ゴジラの気分で暴れることができた」

そう。ゴジラは紛れもなく映画の主役であり、たとえ自分の素顔が画面には映らなくとも、中島さんにとって晴れの舞台であることに変わりはなかったのです。
全身全霊でゴジラ役に挑んだ中島さんの覚悟と熱意は報われ、映画『ゴジラ』は大ヒット。円谷監督の絶大なる信頼を得た中島さんは、以後の東宝特撮映画でゴジラをはじめ、ラドンやモスラなどのスター怪獣を熱演していくことになります。本書『怪獣人生』には、中島さんが怪獣を演じた数々の東宝特撮映画や、端役として顔出し出演した黒澤明監督の作品などにまつわるエピソードがふんだんに語られていきます。

本書を読んでいて強烈に感じられたことは、中島さんの怪獣役者としての徹底したプロ意識でした。
『ゴジラ』の大ヒットを受けて製作された『ゴジラの逆襲』(1955年)以降、中島さんは円谷監督からゴジラや対戦相手の怪獣のアクションをつけるという、時代劇における「殺陣師」の役割を全部任されるようになりました。 “オヤジさん” こと円谷監督は、「人をやる気にさせたり任せるのが上手だった」と中島さんは振り返っていますが、それだけ中島さんのプロ意識に絶大なる信頼を寄せていたということだったのでしょう。
怪獣を演じる役者として必要な心構えを、中島さんはこのように語っています。

「ぬいぐるみの役者ってのは、監督のいいなりになっていて、務まるもんじゃないとは思うね。結局、オヤジさんにだってぬいぐるみがどう動けるか、わからないんだもの。わかるのは入っている本人だけ。だから、怪獣の立ち回りを面白くするのは、役者に全部かかっているわけ」

セット入りの時、中島さんはぬいぐるみを着ないすっぴんの状態で取っ組みあいを考えたり、セットの中を歩いては歩幅やミニチュアの位置関係をカンで動けるくらいに覚えこんだ、といいます。円谷監督は、本番前のテストでの中島さんたちの動きを見て、その場で本番を撮影するときのカット割を組み立てていたといい、操演(人の入らない怪獣やミニチュアなどを操作すること)スタッフもテストの時の動きをよく見て、細かい打ち合わせなしで本番の動きに合わせてくれていたのだとか。映画黄金期の東宝特撮映画が、熟練した技術と高いプロ意識を持ったスタッフのチームワークによって支えられていたことがよくわかります。
中島さんはこうも語ります。

「怪獣の芝居は、こけたら終わり、はい、カットじゃいけないと思う。最近の怪獣は役者が寝たら、もう起きられないから仕方なくカットしてるんじゃない?怪獣は役者に工夫がないといけないね。自分で色を点けないと面白くないよ」

中島さんは、最近の特撮ものにおける怪獣の芝居が物足りない原因を、自分で考えた芝居ではない「真似」だからだ、と語ります。そして、自分の役者人生を振り返ってみて自慢できることがあるとしたらただ一つ、「真似しなかった」ということであり、それは、何もノウハウがないところから特撮を考えた円谷監督にしても、怪獣映画の本編ドラマの演出をゼロから考えた本多猪四郎監督にしても同じだ、と。
スタッフと演者が試行錯誤を重ねつつ、ゼロから築き上げていったノウハウによって創り上げられた『ゴジラ』をはじめとする東宝特撮映画。だからこそ時代を超えて生き続け、さらには国境を超えて愛される存在になったということを、つくづく感じます。
本書の最後のほうで、中島さんはこう語っておられます。

「映画のことを『総合芸術』っていうでしょ。撮影。美術。照明。録音。いろんな技術のプロや役者が集まって、監督の命令で一本の作品を作り上げるのが映画っていう意味だね。
特撮映画は子供も大人も楽しめる娯楽映画だよ。でも、全員の力を合わせて造るって意味では、最高の総合芸術じゃないかと僕は思うよ」


ともすれば「子どもだまし」だと軽く扱われがちな特撮・怪獣映画。しかし、それを創り上げる仕事に一貫して抱き続けた、中島さんの強い誇りとプロ意識が溢れているこのお言葉には、強く強く胸を打たれました。

中島さんの渾身の芝居でいきいきと生命を吹き込まれた、ゴジラをはじめとする怪獣たち。それらはこれからも末永く時代を超えて生き続け、国境を超えて愛される存在となっていくことでしょう。
中島さん、本当にありがとうございました。そして、どうかゆっくりとお休みになってください・・・。