先週末の17日から19日までの3日間にわたって、熊本市を旅してまいりました。
わたしにとって25年ぶりとなる熊本訪問は、あの熊本地震から5ヶ月を迎えた熊本市の「いま」を目にする旅でもありました。
震災からの復興にはまだ時間がかかりそうな「いま」の現実とともに、前を向いて日常を取り戻そうとされている、熊本の皆さんの明るさにも触れることができた今回の旅。熊本のいいところや美味しいもの、そして素敵な人たちとの出会いもいろいろとあり、想像以上に楽しく思い出深い3日間となりました。
これから何回かにわたり、熊本旅でのお噂のご報告、ゆるゆると綴ってまいりたいと思います。
わたしと熊本との最初のかかわりは、はじめにも申しました通り25年前に遡ります。当時勤めていた会社から単身赴任を命じられ、やってきたのが、熊本市から阿蘇に向かう途中に位置する熊本市のベッドタウン、大津町でありました(ああ、そういえばこの大津町にも、熊本地震による被害が及んでいたのでした・・・)。
大津町での単身赴任暮らしは1年ほどでありましたが、熊本市からは少々離れていたこともあり、当時は熊本市へ出かけることがほとんどありませんでした。加えて、慣れない土地での一人暮らしの心細さに職場への不適応が重なり、精神的に不安定だったヤワなわたしは、熊本の街を楽しむような心の余裕もございませんでした。いま思えばずいぶん、モッタイナイことであったなあと悔やむばかりなのですが。・・・まだお酒もロクに飲めなかったからなあ、あの頃のオレは。
その後は、長きにわたって熊本に出向く機会がありませんでした。ここ数年の旅といえば鹿児島と別府ばかりで、同じ隣県であっても熊本にはなかなか足が向きませんでした。・・・熊本と宮崎のあいだには、険しく深い山が横たわっておったのでありますよ。地理的にも、心理的にも。
そんな、険しく深い山を乗り越えようと思うキッカケとなったのが、4月に起こった熊本地震でした。
同じ九州の、それも一度はかかわりを持ったことのある隣県の熊本で、二度にわたって震度7の大地震が起こったという現実に、少なからずショックを受けました。
とにかく自分にできる支援をと、ささやかながら義援金の寄付や熊本県産品の購入をやってはきましたが、それだけでは不十分ではないのかという思いが、わたしの中にはありました。
隣の県なのだし、ここはやはり一度は直接、熊本へ出向いておくべきなのではないか。そこでささやかながらもお金を落とし、現地の皆さんとも触れあいながら、熊本の「いま」をすくい取ることで、微力ながらも自分なりに「がまだす」(熊本のことばで「がんばる」という意味です)熊本を応援できないだろうか・・・。
かくてわたしは、秋に考えていた東京行きの計画を棚上げにして、熊本へ出かけることに決めたのでありました。
とはいえ、25年という長きにわたって足を運んでいなかった熊本行き、それも普段は鉄道派のわたしにとっては不慣れな高速バスでの旅ということで、出かける前は楽しみにしつつも若干、緊張気味ではありました。・・・慣れないコトをやろうとすると妙に肩に力が入るタチなもんで。
その上、出かける直前になって発生し、近づきつつあった台風16号の動きにも、ずいぶん気を揉まされました。当初の進路予想では、連休中には九州直撃という最悪の展開であったのが、その後は徐々に速度が遅くなり、なんとか連休中は影響は免れそうだな、というありがたい展開へと変わってきました。よしよし、そうでなくちゃいけんよ、という嬉しい気持ちで、予定どおりに出発を決行することにしたのでありました。
迎えた9月17日の朝。出発地点の宮崎駅前に、熊本行きの高速バス「なんぷう号」が止まっておりました。近くのコンビニで缶ビールとおつまみを買い、予約しておいた座席に身を沈めました。
車体の横っ腹には「熊本・大分の皆様に元気を‼︎」というメッセージが。
そう、大分も地震で大きなダメージを受けた場所でありました。次は大分(といってもわたしの場合、まずは第二の故郷たる別府ということになるのですが・・・)にも出かけなくっちゃな。
7時半前、バスは熊本へ向けて発車いたしました。ありがたいことに、出発の朝の宮崎市には青空が広がっておりました。
熊本に向け、九州自動車道を快調に走り続けていた「なんぷう号」でありましたが、熊本市までもうしばらく、というところで渋滞に巻き込まれました。場所は、震度7の激震に二度にわたって襲われた益城町の近く。そう、まずここで、震災から5ヶ月となる熊本の現実に接することになりました。
九州自動車道の益城熊本空港ICから嘉島ICの一部は、まだ災害復旧の真っ只中。本来なら上下2車線ずつの道路は片側のみとなり、そこで1車線の対面通行規制が行われていたのです。その手前ではズラリと車が詰まっていて、けっこうな渋滞ぶりでありました。これも間違いなく、震災によりもたらされた「いま」の現実。受け入れなければなりません。
そのあたりではさらに、震災がもたらした「いま」の現実を目の当たりにすることになりました。
屋根をブルーシートで覆った住宅や、取り壊し中の住宅でした。
通行規制区間を過ぎ、高速道を降りて熊本市内に入ってからも、屋根をブルーシートで覆った住宅や、倒れたままの墓石が目立つ墓地を車窓から目にしました。一連の地震がいかに只事ではなかったのかを、あらためて思い知らされたのでした。
予定の時刻から30分以上遅れてではありましたが、無事に熊本市の目抜き通りである通町筋に到着することができました。
幸いなことに、熊本城の上に広がる空も明るい晴天。そう、この景色に会いたかったのですよ。
時刻はまもなく正午という頃合い。ここはまず、熊本のうまかもんで腹ごしらえをしなければと、たくさんの人で賑わう下通アーケード街へと足を踏み入れました。
何を食べようかと思案しつつ歩くことしばし。まずは「太平燕」(たいぴーえん)からスタートしてみるか、と老舗の中華料理店「紅蘭亭」に入りました。
太平燕とは、中国福建省の料理をオリジンとして、明治時代に熊本に伝わったという麺料理。春雨を使った麺の上には、炒めた豚肉や魚介類、野菜がたっぷりと盛られ、揚げたゆで卵が添えられます。
ここ「紅蘭亭」の太平燕、スープは一見こってりとしているようですが、その味は実にスッキリ、それでいて旨みもしっかりあるという優れものでした。上にたっぷり盛られた具も嬉しい限りでしたねえ。
そして、一緒に注文した蒸し餃子も、中の具がしっかり詰まっていて食べ応えがありました。おかげで生ビールが美味しいこと美味しいこと。真っ昼間からしっかり、2杯飲んでしまいました。
震災から5ヶ月後の「いま」の現実に揺れ動いていたわたしの気持ちに、熊本のうまかもんはしっかりと、元気を与えてくれました。
熊本城の前に立つ熊本信用金庫の壁面には「がんばろう!熊本」の文字とともに、でっかいくまモンが微笑んでいたのでありました。
(次回に続く)
わたしにとって25年ぶりとなる熊本訪問は、あの熊本地震から5ヶ月を迎えた熊本市の「いま」を目にする旅でもありました。
震災からの復興にはまだ時間がかかりそうな「いま」の現実とともに、前を向いて日常を取り戻そうとされている、熊本の皆さんの明るさにも触れることができた今回の旅。熊本のいいところや美味しいもの、そして素敵な人たちとの出会いもいろいろとあり、想像以上に楽しく思い出深い3日間となりました。
これから何回かにわたり、熊本旅でのお噂のご報告、ゆるゆると綴ってまいりたいと思います。
わたしと熊本との最初のかかわりは、はじめにも申しました通り25年前に遡ります。当時勤めていた会社から単身赴任を命じられ、やってきたのが、熊本市から阿蘇に向かう途中に位置する熊本市のベッドタウン、大津町でありました(ああ、そういえばこの大津町にも、熊本地震による被害が及んでいたのでした・・・)。
大津町での単身赴任暮らしは1年ほどでありましたが、熊本市からは少々離れていたこともあり、当時は熊本市へ出かけることがほとんどありませんでした。加えて、慣れない土地での一人暮らしの心細さに職場への不適応が重なり、精神的に不安定だったヤワなわたしは、熊本の街を楽しむような心の余裕もございませんでした。いま思えばずいぶん、モッタイナイことであったなあと悔やむばかりなのですが。・・・まだお酒もロクに飲めなかったからなあ、あの頃のオレは。
その後は、長きにわたって熊本に出向く機会がありませんでした。ここ数年の旅といえば鹿児島と別府ばかりで、同じ隣県であっても熊本にはなかなか足が向きませんでした。・・・熊本と宮崎のあいだには、険しく深い山が横たわっておったのでありますよ。地理的にも、心理的にも。
そんな、険しく深い山を乗り越えようと思うキッカケとなったのが、4月に起こった熊本地震でした。
同じ九州の、それも一度はかかわりを持ったことのある隣県の熊本で、二度にわたって震度7の大地震が起こったという現実に、少なからずショックを受けました。
とにかく自分にできる支援をと、ささやかながら義援金の寄付や熊本県産品の購入をやってはきましたが、それだけでは不十分ではないのかという思いが、わたしの中にはありました。
隣の県なのだし、ここはやはり一度は直接、熊本へ出向いておくべきなのではないか。そこでささやかながらもお金を落とし、現地の皆さんとも触れあいながら、熊本の「いま」をすくい取ることで、微力ながらも自分なりに「がまだす」(熊本のことばで「がんばる」という意味です)熊本を応援できないだろうか・・・。
かくてわたしは、秋に考えていた東京行きの計画を棚上げにして、熊本へ出かけることに決めたのでありました。
とはいえ、25年という長きにわたって足を運んでいなかった熊本行き、それも普段は鉄道派のわたしにとっては不慣れな高速バスでの旅ということで、出かける前は楽しみにしつつも若干、緊張気味ではありました。・・・慣れないコトをやろうとすると妙に肩に力が入るタチなもんで。
その上、出かける直前になって発生し、近づきつつあった台風16号の動きにも、ずいぶん気を揉まされました。当初の進路予想では、連休中には九州直撃という最悪の展開であったのが、その後は徐々に速度が遅くなり、なんとか連休中は影響は免れそうだな、というありがたい展開へと変わってきました。よしよし、そうでなくちゃいけんよ、という嬉しい気持ちで、予定どおりに出発を決行することにしたのでありました。
迎えた9月17日の朝。出発地点の宮崎駅前に、熊本行きの高速バス「なんぷう号」が止まっておりました。近くのコンビニで缶ビールとおつまみを買い、予約しておいた座席に身を沈めました。
車体の横っ腹には「熊本・大分の皆様に元気を‼︎」というメッセージが。
そう、大分も地震で大きなダメージを受けた場所でありました。次は大分(といってもわたしの場合、まずは第二の故郷たる別府ということになるのですが・・・)にも出かけなくっちゃな。
7時半前、バスは熊本へ向けて発車いたしました。ありがたいことに、出発の朝の宮崎市には青空が広がっておりました。
熊本に向け、九州自動車道を快調に走り続けていた「なんぷう号」でありましたが、熊本市までもうしばらく、というところで渋滞に巻き込まれました。場所は、震度7の激震に二度にわたって襲われた益城町の近く。そう、まずここで、震災から5ヶ月となる熊本の現実に接することになりました。
九州自動車道の益城熊本空港ICから嘉島ICの一部は、まだ災害復旧の真っ只中。本来なら上下2車線ずつの道路は片側のみとなり、そこで1車線の対面通行規制が行われていたのです。その手前ではズラリと車が詰まっていて、けっこうな渋滞ぶりでありました。これも間違いなく、震災によりもたらされた「いま」の現実。受け入れなければなりません。
そのあたりではさらに、震災がもたらした「いま」の現実を目の当たりにすることになりました。
屋根をブルーシートで覆った住宅や、取り壊し中の住宅でした。
通行規制区間を過ぎ、高速道を降りて熊本市内に入ってからも、屋根をブルーシートで覆った住宅や、倒れたままの墓石が目立つ墓地を車窓から目にしました。一連の地震がいかに只事ではなかったのかを、あらためて思い知らされたのでした。
予定の時刻から30分以上遅れてではありましたが、無事に熊本市の目抜き通りである通町筋に到着することができました。
幸いなことに、熊本城の上に広がる空も明るい晴天。そう、この景色に会いたかったのですよ。
時刻はまもなく正午という頃合い。ここはまず、熊本のうまかもんで腹ごしらえをしなければと、たくさんの人で賑わう下通アーケード街へと足を踏み入れました。
何を食べようかと思案しつつ歩くことしばし。まずは「太平燕」(たいぴーえん)からスタートしてみるか、と老舗の中華料理店「紅蘭亭」に入りました。
太平燕とは、中国福建省の料理をオリジンとして、明治時代に熊本に伝わったという麺料理。春雨を使った麺の上には、炒めた豚肉や魚介類、野菜がたっぷりと盛られ、揚げたゆで卵が添えられます。
ここ「紅蘭亭」の太平燕、スープは一見こってりとしているようですが、その味は実にスッキリ、それでいて旨みもしっかりあるという優れものでした。上にたっぷり盛られた具も嬉しい限りでしたねえ。
そして、一緒に注文した蒸し餃子も、中の具がしっかり詰まっていて食べ応えがありました。おかげで生ビールが美味しいこと美味しいこと。真っ昼間からしっかり、2杯飲んでしまいました。
震災から5ヶ月後の「いま」の現実に揺れ動いていたわたしの気持ちに、熊本のうまかもんはしっかりと、元気を与えてくれました。
熊本城の前に立つ熊本信用金庫の壁面には「がんばろう!熊本」の文字とともに、でっかいくまモンが微笑んでいたのでありました。
(次回に続く)