読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

熊本よかとこ味なとこ、がまだせ!応援旅(第2回)傷ついてもなお、威容を誇る名城だった熊本城

2016-09-22 20:44:06 | 旅のお噂
下通アーケード街にある中華料理店「紅蘭亭」の太平燕で腹ごしらえしたあと、まずはさっそく熊本城へ足を向けることにいたしました。
熊本地震により、石垣や塀が崩れるなどの被害を受けてしまった熊本城。その被害を伝える映像や写真は、何度となくメディアを通して目にしてはおりました。ですが、実際に目にした熊本城とその周辺の被害は想像以上のものでした。しかし、しっかりと地震に持ちこたえることができたところも多く、そこからは昔からの知恵と技術の底力のようなものも感じられ、大いに感銘も受けたのでした。

目抜き通りである通町筋から歩いてきたわたしは、まず長塀に沿って歩みを進めました。


現存する城の塀では日本一の長さという、国指定重要文化財の長塀は、地震により途中から無残に倒壊してしまいました。崩れた部分はすべて、シートにより覆われておりました。接近しつつあった台風への備え、ということもあったのかもしれません。

長塀に沿って歩いていくと、飯田丸五階櫓が見えてきました。石垣が大きく崩壊しながらも、両側に積み上げられた大きい石の列により櫓自体の崩壊を免れることができ、「奇跡の一本柱」として多くの人に希望を与えた、あの櫓です。しかし、櫓自体は手前に茂る木によって残念ながらよくは見えませんでした。ただ、建物の倒壊を防ぐための鉄骨製の支えに守られた櫓の一部を、かすかに窺うことはできました。
そして、続いて見えてきたのは馬具櫓です。ここも中の小さめな石が溢れ出るように石垣が崩れていますが、やはり隅に積み上げられた大きい石の列が、建物の倒壊を防いでおりました。

やがて、城の敷地の中に至る行幸坂の手前にたどり着きましたが、現在はそれ以上敷地の中に立ち入ることはできません。そこに立っておられた、ボランティアのガイドと思しきおじさまは、城の見取り図が描かれた案内板を示しながら、外から建物を見学できる場所について、まことに気さくに、かつ親切にお教えくださいました。

ありがたいことに天気は晴れではありましたが・・・いやはや、そのぶんけっこう暑かった。ちょいと冷たいものでもいただこうかなと、お城に隣接している観光スポット「桜の馬場 城彩苑」の一角「桜の小路」に入りました。

熊本のうまかもんやお土産を売るお店が横丁風に立ち並んでいる「桜の小路」。そこで、阿蘇産の牛乳からつくられたというソフトクリームを買って味わいました。・・・ははは、どこかに出かけると必ず食べたくなるのよね、ご当地のソフトクリームを。

コクのある甘さが口いっぱいに広がる、濃厚なミルクの風味が最高なソフトクリーム。おかげさまで身体も冷えて元気も出ました。

同じく「城彩苑」の一角にあるのが、アトラクション型の歴史体験施設「湧々座」(わくわくざ)。こちらも地震の影響か、入ることができないスペースがございましたが、入館自体は大丈夫でした。
ここには、地震によって落下した石垣の石や、天守の瓦がいくつか展示されておりました。

上の写真は、天守の最上階付近から落下した瓦です。そこには、墨で書かれた個人のお名前や住所の一部が。昭和34年に天守の復元工事が行われるにあたり、市民から寄付を募る「瓦募金」が行われたそうで、寄付を寄せた方々のお名前と住所が、天守を葺いた瓦の裏面に墨書きされたのだとか。そこからは、当時の熊本の皆さんが天守復活へ寄せた想いが伝わってくるようでした。

こちらは、崩落した石垣の石から見つかったという人物の図像。推定では加藤清正公により築城されていたころ、石垣の末永い安泰を祈念すべく石工が彫刻したのではないか、との説明書きが添えられておりました。ちょっとユーモラスな感じですが、その表情はなんとも穏やか。石垣再建のときには、きっとまたその一部として組み込まれて、再び石垣の支えとなってくれることになるんだろうなあ。

お城の横に広がる「二の丸広場」に沿って歩くと、再び天守が見えてきました。

天守を背にして伸びる塀と石垣にも、崩壊している箇所がございました。

さらに歩みを進めていくと、「戊亥櫓」(いぬいやぐら)が見えてまいりました。

ここもまた、隅に積み上げられた大きい石の列により、石垣の崩壊による櫓の倒壊をしっかり防ぐことができておりました。
石積みに活かされた昔からの知恵と技術が、建物の倒壊を食い止めているさまを目の当たりにして、思わず目頭が熱くなってくるのを感じました。

そしてたどり着いたのは、熊本城を築城した加藤清正公(地元の皆さんからは敬意と親しみを込めて「せいしょこさん」とも呼ばれております)を祀った加藤神社です。

神社へと続く参道からは、石垣とともに大きな木が根元から倒れているさまが見えました。また、参道沿いには崩れた石や土砂を詰めたと思われる黒い袋も、うず高く積み上げられておりました。


加藤神社の境内からは、目下のところは立ち入ることのできない天守を、けっこう間近で見ることができました。

確かに天守は、瓦の多くや鯱が落ちてしまっている上に、最上階の窓ガラスも割れてしまっているという痛ましいありさまでした。
ですが、真っ青な空を背景にそびえ立つその姿から、威風堂々とした美しさまでが奪われてしまったわけではないということも、つくづく感じ取ることができました。地震で傷ついていてもなお、熊本城は紛れもない「名城」でありました。
「せいしょこさん、どうか熊本の皆さんを、自然の猛威からお守りくださいませ。そして、今回の熊本の旅が良いものとなりますように・・・」
加藤神社での参拝で、わたしはそう願いをかけたのでありました。

加藤神社をあとにして、車道に面した北東側を歩むと、そこにも崩壊している箇所がありました。

国の重要文化財に指定されている「東十八間櫓」と「北十八間櫓」。いずれも、石垣とともに建物自体も無残に倒壊してしまっておりました。修復には、かなりの時間を要することでしょう・・・。

実際に自分の足で歩き、目の当たりにした地震による熊本城の被害。メディアが伝えた映像や写真だけではわからなかった被害の大きさを実感し、大いに衝撃を受けました。
ですが、被害を受けている箇所が多い一方で、しっかりと地震に持ちこたえている箇所が多かったのもまた、紛れもない事実でありました。昔から伝えられてきた技術と知恵は、激しい自然の猛威に対して無力なだけではなかったのです。
熊本城の全体が元の姿に戻るには、20年ほどの時間がかかるだろうといわれます。しかし、昔からの知恵と現代の英知、そして熊本の皆さんをはじめとする多くの人たちの熱意で、間違いなく美しい熊本城が蘇っていくことでしょう。
わたしもこの先、少しずつ蘇っていく熊本城の姿を、しっかりと見届けていきたいと思ったことでした。

(第3回に続く)