創造

創造主とセルフイメージの世界

西郷隆盛-大山綱良-荘村省三

2015-01-06 16:31:28 | 歴史

http://plaza.rakuten.co.jp/wawanko/57060/

ドイツで発見された西郷隆盛の写真の信憑性は高まりつつあります。

乃木希典の左眼が義眼であったことも拡大写真から明らかにされました。問題は大山巌です。公式の記録によれば留学先のジュネ-ブから急きょ帰国したのは1874年(明治7年)10月です。しかし写真は3月に撮影されたとジュリアス・ヘルムは日記に記しています。

そこで写真の大山巌とされる被写体をよく観察すると、巌ではなく大山綱良に似ていることが分かります。戊辰戦争を西郷隆盛と共に戦い、西南戦争でも最後まで西郷と運命を共にしました。長崎で処刑されましたが葬儀は浦上の隠れキリシタン達によってとりおこなわれました。

一つの可能性としてヘルム氏がキャプションを記入する際、TSUNAYOSHIとIWAOをとりちがえたのではないでしょうか。

上記サイトは、大山綱良と荘村省三の関わりについても言及しています。西郷隆盛の長男、西郷菊次郎は父の「敬天愛人」という理念を台湾統治において実行し、人間愛に徹し善政を敷いたことで明治時代の真の国際人と称されました。(「西郷菊次郎と台湾」佐野幸夫著・南日本新聞開発センタ-)

その後台湾新総督に児玉源太郎、民政長官に後藤新平、農業技師に新渡戸稲造があたることになりました。

後藤新平は水沢市(現・奥州市)から15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になりました。その際、西郷隆盛に出会ったときのことを次のように記しています。

「明治4年ごろであった。自分は竜の口の細川侯藩邸内に起伏していた。それは太政官の少史、荘村省三という人の食客になっていたのである。荘村氏が出勤する時に、いつも供をして行った。ちょうど15歳のことである。・・・・・・それは暑い7月の晴れた日であった。その辺に差しかかると、むこうから、大きな男が、供をひとりつれて歩いてきた。・・・・・すると、主人の荘村少史が三歩ばかりこちらで、下駄をぬいで、下駄の上に足を上げて、お辞儀をした。これは土下座の代わりにする敬礼で、自分が子供の時、藩侯にした礼である。

・・・・・すると、むこうから来た大男は、荘村少史の方をむいて、ニッコリ笑って 『お暑うござんすな』といって、すたすた行き過ぎた。自分は、ぼんやり主人の後ろに立ったまま、不思議な男だ、不思議なお辞儀だ、と思っていた。すると荘村少史が『西郷吉之助』と自分の耳にささやいた。自分は、はっと思って、過ぎゆく大男の後姿を見送った。その時西郷さんは、薄色の背割き羽織に、短い袴、下駄ばきという姿で、大小を指し、両手をぶらりとさげていた。大男で、色は九州人としては白い方だという印象をうけた。大きなハッキリした眼に、愛嬌があった。太い眉毛が、今も眼に残っている。お暑うござんすな、といったときに、非常に懐かしい味があったように覚えている。」

歴史の点をつないでゆくと不思議な糸のようなものを感じます。聖書的に言うと摂理ということになるでしょうか。

ところでドイツで発見された西郷隆盛写真と西郷菊次郎の写真を比べて見て、やはり親子であるという感は否めません。

 

 

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