創造

創造主とセルフイメージの世界

歴史認識について

2013-06-10 16:50:34 | 歴史

最近、歴史とその認識について取りざたされています。

過去の出来ごとのどの部分を抽出しするかが、認識する側の問題になりますが、少なくとも史実として残された記録や伝承には客観性がありますから、その第一次素材を元に考察することになります。

私にとって最大の課題は「復活」という史実です。新約聖書では主が十字架につけられたことと復活したことが最も大事なことだと述べられているからです。

これを解くにはアダムとキリストの対比を考える必要があります。自然的な人間としてのアダムと聖霊を注がれた人間としてのキリストです。

ここで自然とはもともとのオリジナルな被造物としての自然ではなく、創造主との関係を断ち切られた者、すなわち聖霊の油注ぎを失った存在としての人間アダムを指します。

それは死の力、破壊霊に支配された存在です。この世界での認識は、そもそもそのような限界のもとでの理解しかできません。

この世で常識と呼ばれるもの、あるいは自然認識および歴史認識と呼ばれるものは、認識する主体がすでにひとつのマインドコントロ-ルのもとにあるということです。

この限られた視界のもとに、自然あるいは歴史を理解しようとすれば、その限界の範囲内での現象は把握されますが、それを超えた現象や史実は見逃されてしまいます。

新しい人間としてのキリストは創造主の霊を宿した神と直結した人間性をもたれています。創造霊は被造霊をはるかに凌駕していますから、死の力を超越しておられます。

そのキリストをどうとらえるかが我々の課題です。それは復活という出来事を把握できるかどうかということでもあります。十字架は我々の罪を赦し取り除く力があります。

十字架に依存することに依って罪が除かれるとサタンの支配から脱出できます。そうしますと創造霊なる神が私たちの霊に宿り、キリストと同じように神と直結されます。

そして聖霊と共に認識する新たな分野が開かれます。アダムと子孫としての自分は、神なしの単なる視聴覚や脳細胞で認識していました。それはすでに霊的に捕縛され、永遠を見る目を失った状態での理解でしかありませんでした。

処女降誕から復活に至る歴史の事実としてのキリストの生涯が記されていても、その信憑性をまともに受け入れることは出来ないのです。そこで哲学的解釈や道徳的あるいは宗教的解釈が生まれましたし、今日でもそのような認識がなされる場合があります。

しかし聖書は聖霊を注がれた者たちによって書かれていますので、その創造主の目を持って読まなければ正しく理解できません。

事実、聖霊ともに生きる時、復活されて活きておられる主がいつでもどこでも私たちと共にいて下さることを認識するのです。目に見える自然とこの世界は目に見えない創造主によって造られ維持されていることが分かります。

人間であることは聖霊の内住のもとに無限の可能性を秘めていることが分かるのです。

霊の中に住まわれる創造主から偉大な力といのちが湧きあがることを体験するからです。

正しく歴史を知ることは本当の自分を知ることに通じます。

そして本物の人間の人生であるキリストを知ることが本当の自分を発見すること通じます。

そこに神に依って、罪と死の呪縛から解放された人生があります。

 

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