トレルチという歴史家は「人は現在の体験を通してのみ過去や歴史を認識する」と語りました。
つまり、私たちは自分で見たことや聞いたことでなければ、信じられないということなのでしょう。
問題は、自分がどれほどの体験と洞察力をもっているかということです。
勝負事でも、自分以下の実力は認識できますが、自分以上の相手の力はかいもく検討がつかないものです。
人間理解、あるいは自然観察も、それなりの認識力、観察眼が要求されます。
たとえば、動物が人間や自然をどのように見ているかということは興味深いことです。
ある爬虫類には不動の物体は目に入らないらしいです。
ところで私たちは被造物として、被造物を観察し、認識する訳ですが、創造主なる神を認識する
にはどうすべきでしょうか。
ここで、人間のいのちの限界を知らされます。神は神のいのちとその認識力によってのみ理解
されます。
神にして人である主イエスを知ろうとして、多くの歴史的研究や考察がなされています。
それは「現在の自分の体験と理解力」によってなされています。
しかし、神を知り主を理解するためには、神のいのち(ゾーエー)をもちそのレベルからでなければ
真の姿を理解できません。
「聖霊によらなければ誰もイエスを神の御子と信じることはできません」とあるとおりです。
永遠のいのちとは創造主のいのちそのものであります。
「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできません」と主が言われたように、創造主から
生まれるという体験によって、創造主とその永遠を知覚(霊で認識)することが可能になります。
聖霊の認識力によって、聖書が神の書であり、歴史は主の物語(His Story)であることが分かります。
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