聖書は創造の高みから書かれているという意味で奇跡の書です。
人間には不可能なことでありますが、神が私たちのもとに住まわれ
私たちが神の内部に生きるならば、可能になります。
聖霊によって生き、観察し、認識するという方法です。
ボーレンという神学者は、「聖霊論的生き方」と表現しております。
「高み」とは「至高」であり、聖書の言う「至聖所」です。
「最深」とも言い換えられます。
人生や歴史を、「深み」から、「高み」から知るということは、創造主の側から
創造主と共に知るということでしょう。
日本人は霊の混沌の中で暮らしているともいえますが、それは霊的なものイコール
神的なものだという誤解に起因していると思います。
神とは創造霊であり、天使や霊界は被造世界であることを知る必要があります。
そして人の心はこの「霊」によってコントロールされます。
意識はより深い潜在意識に支配されます。より高い霊が、より強い影響力をもって
おります。ですから至聖所に生きる、神のふところに生きることが、もっとも充実した
暮らしを生きることになります。
歴史家のトインビーは、それぞれの文明は、それぞれの宗教を土台に成立している
と語りました。政治形態や文化の基盤に、それぞれ特有の「霊」が働いているといっても
よいでしょう。
文明の交流は宗教の対話まで掘り下げられなければならないとも言えるかもしれません。
カール・バルトは晩年、「神学の研究として、ローマ・カトリック主義、その次に東方諸教会、
そして次にキリスト教以外の諸宗教」の研究を願い「しかし、通常これらのもの取りかかる
のとは全く別の方法でやる。つまり、普遍的なものがが基盤であって、その上に、おそらく
イエス・キリストが最高峰としてそびえるというのではなく、イエス・キリストが根拠であり、
この根拠によって、諸宗教と、おそらくなお、全く新しい対話が開かれるであろう」
と語りました。
(「神学者カール・バルト」J・ファングマイヤー:加藤常昭他訳・アルパ新書)
マルコ福音書16章には、復活の主ご自身が、弟子たちと共に地の果てまで福音を
宣べ伝えたとあります。
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