近代日本始まって以来の大震災の中で、維新の原点に立ち返って新たな道を模索する時がきました。今、米国海兵隊員が日本の自衛隊と共に、救援のために懸命に働いている姿を見て、160年前
海兵隊員の水兵として、ペリーの黒船に同船していた唯一の日本人、仙太郎のことが浮かんできます。
香山栄左衛門の説得を振り切って、再び米国に帰った仙太郎は、世話人ゴーブルの故郷ニューヨーク州ハミルトンバプテスト教会でバプテスマを受けることになります。
宣教師になったゴーブル夫妻と共に、神奈川(横浜)に上陸したのは1860年でした。
その一年前、オランダ改革派のフルベッキ宣教師は長崎に、そしてブラウン宣教師とシモンズ医師は神奈川に到着しました。
フルベッキが志士たちと近代日本の形成にいかに大きな影響をあたえたか、近年明らかになりつつあります。
岩倉使節団の構想もフルベッキ博士によるものでした。そしてこの使節団に同行した唯一の米国人宣教師がゴーブルでした。彼は甲板で岩倉具視と会談した時のことを忘れることがなかったようです。土佐藩の雇われ教師にもなったことがありましたので、藩主の山内、岩崎弥太郎や後藤象二郎とも個人的に出会っております。
しかし、フルベッキ師とゴーブル師が直接協力したという記録はありません。
そういう意味では志士たちと仙太郎が、特別な関わりをもったとは言えないでしょう。同じ栄力丸の漂流民であったジョセフ・ヒコの方が坂本龍馬と交流し、米国の情報を話したのではないかと言われています。
しかし、フルベッキが、オランダでの少菁年期にモラヴィアンの感化を強く受けたことを思う時に、バプテストとしてのゴーブルや仙太郎と、深いところでリンクされていることが分かります。
モラヴィアンもバプテストも、再浸礼派(アナ・バプテスト)の刻印を帯びているからです。
ドイツとスイスにルーツをもつアナバプテストは、信仰によるバプテスマを主張し、結果として再浸礼を主張しましたが、農民戦争の先導者という誤解による嫌疑をかけられたたために、カトリックと改革者たち両者の激しい弾圧と迫害にさらされました。
その一人が、やがてチューリッヒを追放され1520年代モラヴィアに逃亡したバルタザン・フープマイヤーです。
モラヴィアはボエミア(チェコ東部)にあたり、ヨハン・フス(1369-1415)の出身地です。
フスは、英国留学中、宗教改革の先駆者と言われ聖書を英訳したジョン・ウィクリフ(1320-1384)
の教えを継承しました。徹底的改革派(ラディカル)とも言われた再洗礼主義はこの地に受け入れられました。
敬虔派とも呼ばれた彼らの強調は、聖書の研究討論、日常生活への応用そして聖霊の働きでした。
やがてフォン・ツィンツェンドルフ(1700-1760)によるモラヴィアン派教会の設立に至ります。
彼らの影響は、キルケゴールやウェスレイに、そして日本近代化に多大な貢献を果たしたフルベッキ博士に及びました。
フルベッキの感化を受けた幕末維新のリーダー達、そして先駆者たちのしもべとした仕えた仙太郎、
両者は近代日本の表側と隠れた部分を担いましたが、その清冽な生涯において相通づるものがあります。
瓦礫と挫折からの日本の新たな再建は、このような精神的霊的土台のもとに始められされるということを思います。
(参考資料)
「再洗礼派-宗教改革のラディカリストたちー」出村彰著(日本基督教団出版局)
「基督教全史」E・E・ケァンズ著(聖書図書刊行会)
「日本のジョナサン・ゴーブル」カルヴィン・パーカー