創造

創造主とセルフイメージの世界

イエスは岸辺にたっておられた

2024-04-08 10:05:23 | 福音

ナザレのふせやに

【 ヨハネ福音書21章1-17節】

21章は付録の部分と言われます。書き足りなかったことを示されて追加されたのです。奇妙なことは二度も復活の主に出会ったのに、ガリラヤに帰って、琵琶湖の4分の一ほどのなつかしい湖で漁をしていることです。

もしかしたら、主の復活の噂を聞いても信じられずにエマオの村に急いだあの二人の弟子のように、エルサレムにいる危険性を覚えて逃げる思いで里帰りしたのかもしれません。

ペテロは主に出会ったはずですが、それでも確信が持てなかったと考えることもできます。本名は、風に揺らぐ「葦」の意味で、すぐ信じても、次の瞬間は疑うという弱さを持っていたようです。

主に倣って水の上を歩んでも、波を見て恐ろしくなりズブズブ沈みかけたこともありました。一番弟子を自負しながら十字架を前にした主を知らないと三度も裏切りました。

復活は人間の世界や経験を超えた、創造主の世界ですから容易には理解できません。

ヤゴは水中で生まれ育ち、やがて空中に挙げられて翼をもつトンボになりますが、水の中にいる限り陸のことはわかりません。

多分半信半疑の思いの弟子たちは、以前からの漁に戻りました。いつどこに網を降ろしたら、網にかかるか、長い経験で知っていました。しかし、一晩労苦しても一匹の魚も獲れません。

夜が明け始めて岸辺に立つ誰かが「子たちよ、獲物はありませんね」、「船の右側に網を降ろしてごらんよ。」と叫びました。

その声に従ったところ、おびただしい数の魚が網にかかりました。

主はずっと岸辺で見守っておられたのだと現在完了形で記されています。

復活の主は、いつでもどこでも共にいてくださるのですが、弟子たちは世と自分の働きだけに夢中になって、一番大切な方をすっかり見失っていたのでした。

私たちも自力だけに頼って、内住の聖霊様を軽視すると、霊の目が曇り仰ぐべき復活の主を見落としてしまいます。

この弟子たちの経験は、やがて主の働きをすることになる、伝道と牧会の教訓でもありました。

神からご覧になると、この世界はご自分から離反し霊的に死んだ状態です。

ガリラヤ湖は地中海よりも水位が低く、盆地の中にありますから、突風が吹いて大荒れになると非常に危険になりました。

 そのような死の海から、引き揚げて救い出すのが伝道であり、救いであります。ヨナは大魚の胃の中で僅かな酸素を吸ってかろうじて生き延びましたが、水中では呼吸できませんから窒息死します。

 息(ルーアッハ)がないと肉体が死滅するように、神の息がないと霊的に生きてゆけません。

 「人間をすなどる漁師にしてあげよう」(マタイ4・5)と、かつて主は約束されましたが、それは罪と死に沈んでいる人々が悲惨な闇の淵から引き揚げられて、聖霊の息吹によって霊のいのちによみがえる働きにたずさわることを意味します。新生(神生)して永遠の神の子にされるのです。

そして主はパンと魚で共に食事をされました。

神との交わりのなかで、神の子は成長(聖化)します。人間としての誕生と成長があるように、神の子は聖霊によって生まれ、聖霊によって成長して主の働き人にされます。聖霊によって新生したのですから、聖霊によって聖化されます。聖霊は、十字架の贖いの血を通して私たちの不信仰と罪を絶えず洗い清めて、主との永遠の交わりに導かれます。三度、主はペテロに「私を愛するか」と語られます。シモンからペテロ(岩)に改名されたのは、信仰告白による新生のときでしたが、自分に失望し悲しむことによって、かえって主を仰ぎそのみ言葉に頼りはじめたときに文字通りゆるぎない羊飼い、牧者として建てられてゆきました。

愛する主よ

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復活の主の現われ

2024-04-01 11:04:16 | 福音

うるわしの白百合

【コリント第一:15章1-111節】

復活の主は日曜日に三度お姿を現わされたので、弟子たちはユダヤ教の土曜安息をやめて、日曜日に主をたたえ礼拝するようになりました。そして今日、全世界はこの日を祝日としています。

「二、三人私の名によって集まるところに私もいる」と約束された復活の主は、この礼拝にも共にいてくださるのです。肉眼では見えなく、現われがなくても、主は共におられます。

先週アナニアとサッピラ夫妻の嘘についてなぜ神は厳しい処置をなされたか学びました。ちょうど安倍元総理がやめろと言ったキックバック制を残したばかりに自民党が揺らいでいますが、どこかで金銭に依存しようとする政治家の姿は他人ごとではありません。水原一平通訳がギャンブル依存症であることを告白して大騒動になっています。この依存という言葉は信仰、あるいは信頼の類似語です。

偶像を捨てずに「残した」アカンの罪で、イスラエルはアイという小国に敗北しました。教会が世に勝利して栄光を現わしてゆくにあたり内部に偶像礼拝があると障害になることを教えられます。

 創造主でなく、被造物に頼る偶像礼拝はサタンとの関係が断ち切れないので結果的に神と敵対関係に入ることを意味します。

ギャンブル依存症は、嘘をつくようになると言われます。「サタンは初めから嘘をつき、騙し盗み、殺し滅ぼす」とあり、自力では脱出が困難です。「占い」とか新興宗教やカルト宗教、古い伝統宗教も一度関係を持つとなかなか縁を切れません。イデオロギーでも同じです。深層で悪霊と契約が結ばれて逃れられないからです。エジプトの支配下にあったイスラエルもそうでした。かもいと門柱に塗られた羊の血のみが、その関わりを断ち切ったのです。罪の結果サタンと死の支配下に落ちたこの世界は容易に解放されません。

人類とこの世は始まって以来、ずっと闇の力に縛られ、その悲惨な現実にさらされてきましたから復活が信じられないのは当然かもしれません。創造主である神との交わりを失った世界は滅びるからです。

ユダヤ教の指導者だったパウロも主の復活を信じることはできませんでした。復活はフェイクニュースだと確信して、嘘つきは殺されなければならないという律法に従ってキリスト教徒の逮捕と処刑に加担していたのです。

ところが復活の主は太陽よりも明るい光の中でパウロに現れました。それが自分だけの幻覚でないことが、弟子たちの証言で明らかにされました。

そして十字架に追いやったナザレのイエスこそ、罪のための贖いを成し遂げて、至聖所を開かれ、創造者と被造物の隔ての壁を取り除かれた救い主であることを悟りました。

創造主である聖霊が注がれその光に照らされ、天に引き上げられて、そこにおられる父と御子に出会い、永遠の交わりに入れられます。

「見ないで信じる者は幸いです」とあるように五感を超えた世界です。

夜が明けると漆黒の闇から地上の大自然が姿を現すように、太陽よりも輝く創造主の光が、見えない天を照らし出します。そのようにパウロは霊の目が開かれて復活の主に出会いました。

神は天使セラフィムでさえもまともに見ることが出来ない(イザヤ6・2)聖なるお方です。

私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなた方は命令を守り、傷のない非難されるところのない者でありなさい。その現れを、神はご自分の良しとされる時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主です。ただひとり死のない方であり近づくこともできない光の中に住まわれ、人間が誰一人見ることのない、また見ることのできないお方です。誉れととこしえの主権は神のものです。」(テモテ1・6の14-)召された方々はこの光の中に移されました。

それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(10節)とパウロは主の血潮と聖霊によってすでに祝福に入れられたと述べています。私たちも被造物である自分と世に頼るのでなく、私たちの光となりいのちとなって内住されている神に一瞬一瞬お頼りしましょう。主が輝いてくださるからです。

救いの主はハレルヤ

 

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紫の衣

2024-03-26 21:14:41 | 福音

金や銀の

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栄光への脱出

2024-03-17 14:29:27 | 福音

【ルカ福音書9章28₋36節】

栄えの主イエスの十字架

40日間の受難節に続いて40日間、弟子たちに現れた復活節がきます。

31節の最期departureは「立ち去る」「出発」の意味で原語、エクソドスは「脱出」或いは「解放」を意味します。映画化された小説「栄光への脱出」はホロコーストを逃れたユダヤ人がイスラエル建国する様を描いていますが、モーセによる出エジプトになぞらえています。イスラエルを導いてエジプトを脱出したモーセと天に挙げられたエリヤが現れたのは十字架による律法の成就と復活を指しています。

律法を破り、罪を犯す者は死の刑罰を受けなければなりません。全被造物は人類の罪によって死の支配下に陥っています。死の奴隷にされた者の解放は、罪なき神の小羊の十字架刑による代罰のみによってなされます。

それゆえに御子の十字架に歩みが律法を代表するモーセと、復活の予型となったエリヤによって確認されたのでした。主イエスが十字架への道を辿られたのは、神殿の大庭で小羊の血による清めと聖所でのパンと燭台の光による神への接近の成就です。被造物が死から解放されて、永遠の創造主のもとに登るのはこの贖いの道しかありません。エジプトでの奴隷生活からの解放は霊能者の持つ杖だった蛇を、アロンの杖だった蛇が飲み込む奇跡に始まりました。最終的な脱出を実現したのは門柱とかもいに塗られた子羊の血でした。

閉ざされ至聖所への道は御子の十字架と復活によって永遠に解放されました。

主は十字架上で血を流され、至聖所への道を塞いでいた幕を裂かれました。

イエス様の復活によって死はいのちに飲み込まれました。創造主の霊こそが、もろもろの被造霊を治められるのです。エクソドスはエクソシストを想起させますが究極の悪魔払いが主の贖いによってなされました。

35節「これは私の愛する子、私の選んだものである。彼の言うことを聞きなさい。」は主がバプテスマによって聖霊を受けられた時と同じ宣言です。主の十字架と復活への道は「御霊によって」なされたとヘブル書にあります。十字架は私たちの身代わりであると同時に「私たちも主と共に十字架で葬られた」(ローマ6・4)とありますように、私たちは日々、自我とこの世依存に死に、聖霊と共に神のいのちに生きるのです。

 レントとイースターが40日の対になっているように、被造物依存に死に、創造主依存に生きることは一つです。代罰によって私たちを義とされた主は、御霊を与えられることによって勝利の道を備えられました。

「主と共に肉が十字架につけられ、主と共に復活のいのちを生きる」のです。苦難は私たちを神依存に導き、神の栄光に備えます。自我が砕かれ死ぬことによって、神のいのちの奇跡が現れるからです。

自分が行き詰まるときに、主に本気で頼ることしかできなくなり、神に働いてもらうことになるのです。

人のいのちよりもはるかに強い神のいのちの働きです。

土の器である自分の中に永遠のいのちの宝が宿られています。その器が砕かれると永遠のいのちの川が流れます。また内住の聖霊の光が破れを通して輝きます。復活の主は現われがないときでも、ともにおられます。御霊も自覚がなくとても永住されています。

避難所で自分の弱さ醜さを痛感され自分に絶望した青年が来られました。

いざとなった時にいかに自分がなさけないかを知らされます。「クワイ河収容所」という本でアーネスト・ゴードンは日本軍の捕虜体験を述べています、すさんでゆく自分たち捕虜たちの姿を見た時に絶望したと書いています。

過酷な現実に出会うと相手を責めたり、自分を責めたりして心が傷つき病んでゆきます。

ゴードン氏はそんななかで、聖書の学びをはじめやがて牧師になりました。

 彼はこう結んでいます。

「神は私たちの死の家の中に入ってこられる。私たちを、そこから外へ導きだすために。」

罪に満てる世界

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2024HAPPYイースター

2024-03-08 21:44:33 | 福音

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「主による喜び」

2024-03-03 21:07:24 | 福音

紫の衣

【ルカ福音書10章17₋24節】

信仰とは神体験であり、私たちの内で神が活きて働かれることです。

しかし私たちは自分で何事かをなしたかのように高ぶる危険性があります。

荒野の40日の祈りとサタンとの戦いは人間が主となって、行動するよう誘われたことでした。

創造主なる神を無視して被造物である人間のみを立てて、神と私たちを分断することが悪魔の性質です。

人間が主人となり自分中心の自我自賛の生活へおびきだして、神から離された被造物世界に閉じ込めようとするのです。

ダニエルが3週間祈った間、天使ガブリエルの降臨を妨げた悪魔に対して、ミカエルの援軍によって壁が除かれたのでした。

 

70人の伝道を霊的に見られた主は「サタンが、稲妻のように天から落た」と言われました。

神の近くでサタンはいつも人を告発(ヨブ記・黙示録12章)してきましたが、聖霊によって悪魔は高い座から落とされたと言われたのです。

へブル書10章22節に「邪悪な良心」とあるように告発の霊が絶えず私たちを責め、縛ってきます。。

しかし主の御霊が、いと高き神の至聖所に私たちの霊を引き上げられますと、平安と喜びが訪れます。

それは人間の働きではなく神ご自身の働きです。「永遠のいのちの書に名が記される」という意味です。

 

弟子たちは表面的なことのみを見て、自分に悪霊が従ったように思う危険がありました。

主は「私の内におられる父が、ご自分の業をしておられる」(ヨハネ14:10)と語られたように聖霊ご自身に目を注ぎ、この方を誇り、喜び頼るようにさとしました。

実際は、弟子たちにサタンが服従するのでなく、聖霊様に服従するのです。

聖霊様が私たちの前面に立たれ、サタンに立ち向かい、み言葉を通して悪霊を追い出されます。

同時に人々のため、隣人のため、とりなしの祈りをなされます。

 

カルヴァンは「栄光は主に、恥は我に」と語りました。肉を誇るカルトの道へ敵は誘います、絶えず主を見上げ主により頼むことが大切です。

自力を頼り喜ぶのでなく内住の造り主を誇り喜ぶのです。

私たちには霊という至聖所があり、そこは神が住まわれる天でもあります。

天にまします我らの父よ」と祈るのは、内住の聖霊様を呼ぶことでもあります。

聖霊は神のいのちの源泉であられ、御父と御子との永遠の交わりに入れてくださいます。

そして人間の考えや知恵をはるかに超えた真理に導かれます。

霊の世界を明らかにされ、創造霊と被造霊、天使や堕落天使サタンとの違いを教えてくださいます。

幼子のように弱くても、主に頼る時、全てが可能な絶大な力を現わしてくださいます。

罪とがをゆるされ

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絶望から希望へーエレミヤ書17章

2024-02-19 09:33:30 | 福音

今年は2月14日から3月30日までレント(受難節・四旬節)に入りました。

国が滅んでゆくさまを、身をもって体験したエレ

ヤの苦悩を思わせられます。人々の不信を悲しみ涙した主イエスの嘆きと荒野の40日をも想起させられるシーズンです。

人の心を深く見たエレミヤに、神に信頼せずに人に信頼し、表層的な生き方をするイスラエルに対する絶望を覚えました。

 

しかし、ペテロやパウロにおいても深い自己絶望体験が、あったことが分かります。

自分だけは主を裏切らない、それはペテロの信念であり自己信頼でありましたが、見事に裏切ることになりました。

パウロもパリサイ主義者として自負と誇りと自信にあふれていたのでした。

バビロンの捕囚は、神がイスラエル自身に深い自己省察を与えられるために許された試練でした。

 

2章13節、「湧き水の泉である私を捨てて。多くの水溜を作った」とあります。

自己依存は深い意味での偶像礼拝です。聖霊信頼と「天地を造らなかった神々は地からもこれらの天からも滅びると言わなければならない」(10章11節)とあります。

 

そして23章24節「天にも地にも私は満ちているではないか」と主は語っておられます。

 

自分とこの世に絶望することは、真の希望の始まりです。

33章3節「私を呼べ」とあります。

主に頼って祈る時に主が答えて祝福と回復を与えられます。

 

現代は御子が世に来られ、十字架の血を通してご自身を私たちに与えらました。

私たちの内に聖霊様が宿られています。

自分に絶望したとしても、造り主にして全知全能者がともにおられるのです。

このお方には無限の可能性があり、確かな希望があります。

自分が弱い者であることを知ることによって、いのちの湧き水であるお方をより頼むことを学びます。

そこに永遠の祝福の泉が湧き上がります。

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新しい誕生

2024-02-05 11:18:05 | 福音

【ペテロ第一の手紙1章1-12節】

人間は人間の親から生まれる第一の誕生があり、神から生まれる第二の誕生があります。

ですから新しく生まれる(新生)ことは神生であります。

神は霊Spiritなので、霊的に生まれるともいえます。

旧約時代は清い動物の血の贖いを通して、神の物質的体的恵みが与えられました。

しかし、人間の深みである霊魂の救いは神の小羊である御子イエスの十字架の贖いとその血によって実現されました。

血にいのちがあると書かれているように、御子の血は神のいのちであり、そのいのちが注がれることによって神の聖霊といのちが私たちに注がれています。

聖霊が私たちの霊に触れて、闇に閉ざされていた霊をよみがえらせてくださること、これが新生であり永遠のいのちです。

神がご自身を与えられた客観的事実が、聖霊によって私たち一人一人に主体的に与えられることでもあります。

父と子と聖霊の創造主が、私たちに創造主のいのちを与えられるのです。

 

造られた被造物のいのちは有限であり、やがて尽き果ててしまいます。

しかし聖霊は永遠に私たちの内に住まわれますから、御子を復活させたように尽きざるいのちに生かしてくださいます。

それは朽ちることのない永遠の資産でもあります。イサクが飢きんに見舞われた時、豊かなエジプトへの逃亡を考えました。しかし神は「この地に滞在しなさい。私はあなたと共にいてあなたを祝福しよう」と語られました。(創世記26・3)

真の豊かさはこの世にあるのでなく、創造主なる神ご自身にあることを実証されました。

神の子として誕生する者に神は永遠のいのちと尽きない資産を用意されておられます。

放蕩息子が父のもとに立ち返った時、父は喜びのあまり、最上の栄誉と資産を惜しげなく与えられました。

 

旧約時代の祝福は天使を通して与えられました。それは限定的であり外的なものでした。第二の天である聖所の恵みでありました。しかし、御子が私たちのために成し遂げられた贖いの恵みは、至聖所にまで至る恵みです。

第三の天におられた聖霊が私たちに内住されることによって、私たちは天使を超えた、父なる神の子とされているのです。

天使でさえも預かりえない神ご自身のいのちを与えられたからです。

天地を創造し、その似姿に私たちを造られた神の愛は、とてつもなく深く偉大です。

 

主はいのちを与えませリ

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神による建築

2024-01-22 10:38:41 | 福音

【コリント第一の手紙3章1₋17節】

風は

 神は人となられたことによって、人間としての弱さや死の悲惨を体験されました。そのようにして私たちと一体になられ深く私たちを理解してくださいました。また、十字架の贖いを通して、ご自身の霊を私たちに住まわせてくださいました。

 「御霊に属する人」とは神が宿られる人間という意味です。その結果、人が神のいのちを体験する恵みが与えられました。今日、人類は地球外に飛躍する宇宙体験をすることで新たな世界を知ることが出来るようになりました。しかし聖霊は宇宙を超える創造主のいのち(ゾーエー)と世界を体験させてくださるのです。

コリントの教会のクリスチャンは、そのような神的生命を与えられていながらその自覚に乏しく、「肉に属する人」のように生きていました。そのために、他人と自分を比べて劣等感を持ってねたんだり、優越感をもって見下したりしました。私はパウロ派だとか、私はペテロに属すと言って派閥を作り「虎の威を借りる狐」のようにふるまいました。

 絶大な聖霊を住まわせていながら、人に依存しようとしたのです。

そこでパウロは、神の恵みに目が開かれるように勧めます。

キリスト者とは神的いのちの種を宿す畑であり、主が語られた種まきのたとえのように、種が根付いて芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶようになる者だということです。

続いて建物のたとえが語られます。

建物は目に見えない土台と外観の部分から成ります。

土台とはキリストご自身であり、幕屋からいえば隠されている聖所であり、至聖所です。

そこはイエス様の十字架の贖いによる神との交わりの場所であります。人生の本当の基礎は、聖霊による祈りにあります。ここで私たちは神体験が許されています。聖霊は、私たちの内でいつも父なる神と御子との交わりにみちびき神の永遠のいのちを養っておられます。目に見えない祈りの生活こそ最も重要な土台なのです。

神と交わりを通して神を深く知ることが出来、滅びることのない神的永遠のいのちを体感するのです。

次に目に見える外観の構造部分の二種類の材料、一つは壊れない不朽の金銀宝、もう一つは木や草やわらについて語られます。

これは私たちの目に見える人間関係や日常生活のたとえです。

 前者は御霊ご自身が、私たちと共にあって主導される時間と行動を指します。イエス様は「父が私の中で語られ行動されておられる」と証言されました。神の宮とされた者の中で、聖霊なる神が働かれます。

 そこに神の栄光が現れます。金銀宝のような不朽の業績がなされるのです。

それに対して、自分が主導者となり、人間的いのち(プシュケー)だけに依存して語り行動するならば、木や草わらのように一時的なものやがて焼け落ちてしまう成果しか残らないというのです。それでも、聖霊の宿る神殿ですから永遠の救いに与っていることは確かですが。

ここでは神の建物として聖霊様に働いていただくように、祈りつつ生活するように勧められています。

皿洗いの伝道者は主を仰ぎつつ働き、彼を通して多くの人が励まされ救われました。

造船の仕事をされていたOさんがよく「主の手は短かろうか」と語っておりました。私も心が不安になる時、創造主にして贖い主、いつでもどこでもともにおられる主を思うとほんとうに深い平安に満たされます。

「飲むにも食べるにも主の栄光を現わしなさい」とあります。日々の暮らしの中で主は働かれます。

主は私たちの心に住まわれ、私たちと共に働き、戦っておられます。

そして、ついには私たちの体を栄光の復活体に変えられます。

いつも主を仰ぎ、喜びと感謝を捧げましょう。

 

天なる喜び

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主の通られる道

2024-01-08 14:45:45 | 福音

(  マルコ福音書1章1-15節)

能登地震の被災者と救援者のため、羽田空港での衝突事故犠牲者遺族のため祈ります。

1月7日は旧暦(ユリウス暦)を用いる東方教会のクリスマスです。新暦(グレゴリウス暦)の西方教会では6日が博士の来訪した公現日です。

 いずれにせよ、主をお迎えするために、その道を備えることが必要です。

そのためにバプテスマのヨハネが現れて、主に「立ち返る」悔い改めを説きました。

聖霊のバプテスマを授かる方が通られる道を備えるためでした。

ところで、マルコ福音書はクリスマスの出来事よりも、主イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられ、天が裂けて聖霊が鳩のようにご自分に下られたことからスタートします。 

神の受肉であるクリスマスを重んじる西方教会に対して、聖霊による神化と復活をより重視する東方教会の違いを反映しているかのようです。前者は創造主の被造物への降下を、後者は被造物の聖霊による神化をたたえているかのようです。神としての主と、人としての主は本来一つなのですが、どちらかを強調することによって東西に分裂したと言えるかもしれません。先日のNHK宗教番組でロシア正教の宣教師ニコライ主教がカトリックとプロテスタントをひどく警戒したと語られていましたが、今日のロシアとウクライナの戦争にはそのような背景があるのかもしれないと思わせられました。

マルコ福音書は人として誕生することより、聖霊を注がれて神の子として新生(神生)することの恵みを強調したかったのでしょうか。主は私たち人間と連帯されるため、同じ立場に立たれました。

神としての全能性を現わされるよりも、人としてへりくだり、内住の御霊に依存されて奇跡を行われました。

そして十字架で血による贖いを成し遂げられることによって、聖霊なる神が、罪人である私たちにも住まわれる道を備えられました。「私が道であり、真理でありいのちである」となられたのです。

ですから、私たちは主を信じて頼ることによって自分も神の宮とされ、神の子として新たに誕生します。

 神の霊から生まれる者は、神の子として永遠の交わりの中に挙げられます。私たちの霊は天使よりもはるかに高い永遠の神のいのちに活きています。

 生まれつきの自然の知識では得られない、聖霊による理解が与えられます。グノーシス(知識)を超えたエピグノーシス(神からの知識・啓示)です。人間の知力では栄光の主を知ることはできません。聖霊が霊の目と耳を開いて父と御子との交わりに導かれます。

主は御霊Spiritがご自身の中で働かれるのをご覧になりました。またこの世界を超えた諸霊spiritsの現実を見られました。荒野でのサタンは、イエス様に自分を神とする自己依存に道に誘惑しました、しかし主はへりくだって御霊とその言葉に依存されて勝利されました。

十字架によって自我に死に、全面的に神に信頼してゆだねる時に、聖霊ご自身が働かれます。

今日、私たちの内におられる御霊は、内側に道を備え、外に現れてくださいます。

霊から心へ、そして体へと。

主の血はその通り道を清めてくださり、神の歩まれる道を備えられます。

神の宮から活ける川が流れるように、神は私たちの内に、愛、喜び、平安、寛容、慈愛、親切、忠実、柔和、自制という実を結ばれます。実です。また、知恵、知識、預言、癒し、奇跡、信仰、異言、解き明かし、霊の見分けるなどの力(カリスマ)を現わされます。聖霊は東西の分裂に和解と一致をもたらされるでしょう。

日々、主を仰いで、主が喜んで働いてくださるように祈りましょう。

(参考サイト)

西方教会と東方正教会の違いとは? 三位一体論から人間観、救済観、復活観まで : 教会 : クリスチャントゥデイ (christiantoday.co.jp)

イスラエルの預言

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神の子の誕生

2023-12-25 21:35:31 | 福音

【ヨハネ福音書1章1-18機節】

 徳島県松茂町のクリニック釈羅(フランシスコ D ぺニア記念病院)庭のブルー・エンジェルス機です。2022・4・17みんなで写真をとりました。青は藍色、青石、そして日本のサッカーチームのジャパンブルーですが、また大祭司が身につける聖なる装束色であり、聖霊のシンボルです。外国人観光客が日本の青いイルミネ―ションが素晴らしいと言っていました。大谷選手や山本投手が来季プレイするドジャースの名の由来はドッチボールにも充てられたドッジ、すなわち身を「よける」にあり、、ニューヨークブルックリンで歩行者が路面馬車などをを「ひらりとよける」ところからメジャーリーグの名がつけられ、東海岸から西海岸のロスアンジェルス(ザ・エンジェルス)に移ったのだそうです。

私が夜間の神学校時代、昼間、NHKホール建築の測量の助手のアルバイトをして、クリスマスの日に寂しい思いでぼんやりしていたところ 上空にアクロバット飛行隊が現れてMerry Christmas と見事な文字を描いたのをみて感動しました。 航空自衛隊はブルー・インパルス(青の衝撃)ですが米国海軍はブルー・エンジェルスですが松茂の教会墓地がある航空霊園近くにその本物の機体があるのに驚きました。

 ところでクリスマスカラーの赤は主の血、白はその血によって清くされること、黄金は神の臨在、そしてグリーンは永遠のいのちを意味します。創世記にエデンの園の至聖所の「いのちの木」について記されています。

 人類の父祖は、その木に目を向けることもせず、「善悪を知る木」(創世記3・5)に魅せられました。その実を食べれば自分が神のような主人公になり、神は必要でなくなれるという誘惑されたのです。「食べる」とは「受け入れて一体化する」ということを意味し、霊的なことを例えで表現しています。原罪とは創造主を無視し、被造物である自分やこの世のみに頼ることです。その結果人類と全被造物は霊的な闇の支配下に陥りました。

神の御子である主が、受肉して人になられた時、その人間の高ぶりが明るみにされました。

しかし御子を受け入れて信じて頼る時、人は神から生まれ、神の子にされる奇跡が起こると⒓節にあります。「受け入れる」とは「迎え入れる」「食べる」「いただく」と同意語で、「信じて頼る」ことです。

 いのちの木のシンボルでもあるクリスマス・ツリーには博士が導かれたベツレヘムへの星が飾られます。赤や金色グリーンのオーナメントボールは満ち満ちた聖霊の実と賜物を指しています。

 やがて十字架で流される主の血には、全ての罪が洗い清める力があります。主を信じてお頼りするとき、真っ黒な心が真っ白にされ、そこに聖霊なる神が宿られて、神の永遠の命の中に迎え入れられます。

 パウロは「神が貧しくなられたのは、私たちを富ませるためです」と語り、アタナシオスは「神の御子が人になられたのは、人を神の子にするためであった」と語りました。

 神がこの世に下られ、私たちの罪を負われ、その血によって罪の赦しをなしとげ、信仰を通して聖霊を注がれて、死んだ霊をよみがえらせ、永遠の解放をもたらされました。私たちは人間の子として生まれるだけでなく創造主の子として誕生するのです。

 クリスマスの最大のプレゼントとは、神ご自身です。創造主の中にすべてが満ち溢れています。神は長い間、準備をしてプレゼントを用意されました。帰ってきた放蕩息子に父親が、喜びのあまり最善最高のものを惜しげなく与えたように、神は私たちに一番大切なものを用意されました。ごちそうを料理した者にとって、それを食べていただくことが大きな喜びなのです。

 造られたこの世界にはない宝もの、永遠の神とそのいのちを幼子のような心で受けましょう。神が私たちの中に住まわれて、重荷を負って下さり、絶えず罪を清めてくださり、その全能の力を現わしてくださいます。私たちの創造主は、私たちにご自身のいのちを与えて永遠の恵みのなかを生きてほしいと願っておられます。

Holy Night

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悔い砕かれた心の者へ

2023-12-05 11:28:42 | 福音

【イザヤ書57章14₋21節】

主を迎える準備、主の通られる道を用意する、それがアドベント(待降節)の時です。

旧約時代はメシアを待望しました。現代はその主を心に迎え、体も贖われる再臨の主を待望する時代です。

主と出会うには、その前ぶれがあります。わたしも学生の時、キリスト研究会という十人ぐらいのサークルに参加し、ワディングトン宣教師の指導を受けました。主催者は山口県出身の角谷先輩でした。

休日には少年刑務所を訪ねて劇をしたり、義援活動をしたり、山村友の会と言って、教会のない地域のために

学校の教室を借りてそこで寝泊まりして、紙芝居や民家で交わりの時を持ちました。

 ジンギスカン料理を食べて、寒さに抵抗力をつけました。夜は足首や要所に新聞紙を巻き付けて用心して寝たりしました。そんな中で主への備えがなされたのだと思います。いわば先輩クリスチャンの中のイエス様、聖霊様に出会っていた訳です。そして直接、主に祈るように導かれました。「永遠いのちとは御子及び父なる神との交わりです」とありますように。

 ヨブは絶望と失意の中でエリフという若者を通して主と出会い、パウロはステパノの説教を聞き、怒って迫害しましたが、やがて復活の主に出会ったパウロも同じです。

 

心砕かれた者とは、打ち倒され絶望した者という意味ですが、信仰の決心が出来たみ言葉の一つは十字架上での「わが神わが神、何故私を見捨てられたのですか」という主の祈りでした。

 イエス様にとって、神はいつでも親しい父でありましたが、この時はどこかよそよそしく遠くのお方に叫ばれているようです。見捨てられるとは全くの絶望状態です。神がいない世界と言えるかもしれません。

 ですが、ここに深い恵みを感じました。自分のように神とは縁のないような世界に生きる者、その所に主が来ておられる。14節の預言のように「いと高く」「永遠の命を持たれ」「聖なる」神が「心砕かれてへりくだった人」、闇の中に下られたのです。

 それは「霊」を活かし、魂を活かすためであったとあります。 

 イザヤはこのように救い主キリストの到来を正確に語りました。

旧約時代、エレミヤやイザヤが嘆いているのは、民の二心であり高ぶりであり、その結果、砕かれるためにイスラエルは呪いと悲惨の中に置かれました。罪と弱さを自覚するために。

主がこの世に来られる時に「人々の心が現れる」とあります。本来、人間の心は主を迎える準備はないということです。聖家族を宿す余地はなかったのです。

自ら幼子のように無力な者であることを示されて、神のみ前にへりくだること、その心の小道を主が入ってくださるのです。

岸田総理が夏季休暇に読まれたという本の一冊「アマテラスの暗号」を電子書籍で読んでみました。神道が旧約聖書と関連していると言ことをかなり詳しく述べていました。しかし「あとがき」に日本人は自虐史観によって自分を卑しめると教育や国力を弱めてしまうので、もっと誇りを取り戻さなければならないとありました。

旧約の預言者たちは自分と民の神への不信と二心の罪を悲しみ、警告していることを見逃しているように思えました。かつて自らを一等民族と誇り、韓国やアジアの人々を二等三等民族として神社崇拝を強要したのでした。

へりくだる心に聖霊なる神が宿られます。

クリスマスとは、神がその分身であるご自身を私たちにプレゼントされる驚きの出来事です。

その永遠のいのちである宝をご自分のものにして、真の誇りに生きてほしいと主は切に願っておられます。

 主の前に自分の弱さを誇り、ゆだねる時に、宮から活ける川が流れたように神ご自身が私たちの生活に現れてくださるのです。

入れまつる家あらず

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2023・メリ-クリスマス

2023-11-28 11:17:11 | 福音

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ダニエルと天使ガブリエル

2023-11-20 10:54:56 | 福音

【ダニエル書9章】

ダニエルが罪の告白をしたときに、天使ガブリエルが近づいて神の言葉を伝達しました。4百数十年後、祭司ザカリヤとヨセフ及びマリヤに現れることになる天使です。

天使の存在について、疑うことがありますが、自分の経験からすると、高ぶっているときは遠い存在のように思え、自分の足りなさ罪深さを知らされへりくだる時はかえってありありと感じることがあります。

人間は高ぶりやすい性質なので、自分を高くするサタンが同調して、私たちを支配して、霊的な目をふさぎ、神や天使の存在やその働きを見えなくするのかのかもしれません。

10章には天使ガブリエルがサタンに妨害されて、ダニエルに近づけない3週間、ダニエルが祈り、天使ミカエルが戦ってくれたので接触できたことが語られています。義人だと誇ったパリサイ人は実は神から遠ざかり、罪を悲しんだ取税人は神に近かったともあります。

 エリヤやエリシャの時代、イスラエルは偶像礼拝がはりこび、民は疲弊しました。しかしそのような困難な時代、天使の著しい働きがありました。

自分という被造物を誇り、頼る時、私たちの心の焦点は外的な世界に向きますが、自分の罪深さや弱さを知る時に、内住の聖霊なる神に目が注がされます。世の宝に目がくらむと、永遠の神の宝が見えなくなるのです。

弱さを通して自分が脇役であり、主役は神ご自身であることを心得て、主にゆだねると目には見えない素晴らしい世界があることを知らされます。被造物の力でなく、創造主の無限の力を見ることになります。

ダニエルはバビロンに捕らわれた囚人の一人でした。年も若く権威もありませんでしたが夢を解く賜物を与えられていました。神を心からおそれ敬っていたからです。

偶像礼拝を拒否してライオンの檻に入れられましたが、襲われませんでした。6章22節、「神が天使を送られて獅子の口をふせいでくださった」と不思議なことを語っています。

サムソンは熊を引き裂き、ダビデは熊やライオンを打ち負かしましたが、ダニエルは何の抵抗もせずにライオンと過ごしました。彼の従順と柔和な性格が目に見えるような気がします。

 神は彼に特別な啓示、救いの計画を、天使を通して明らかにされました。

24節の70週は象徴的に解釈すれば十分な期間で、文字通りには、一週を7年として70×7=490年。

罪を贖い、永遠の義をもたらすメシヤは490年後に現れることになる。それは至聖所に油注ぎ、すなわち聖霊を注いで永遠の救いを成就するためです。至聖所となられた主はヨルダン川で聖霊を受けられて公生涯を3年半歩まれ、十字架上で罪の贖いを成就され、復活された後弟子たちに聖霊を注がれました。

これを正確にみると、アルタシャスタ王の勅令はBC457年。AD26年主のヨルダン川でのバプテスマと聖霊の注ぎ。457(BC年間)+26(AD年間)=483年

62(週)×7=434年。7(週)×7=49年。 434+49=483年

次に27節、一週は7年間で半周は3年半。キリスト時代のローマ帝国、或いは教会時代を挿入して、終末時代の7年とする。「荒らす忌むべき者」が両者にかけれます。

黙示録13章5節には42カ月(3年半)とあります。

エゼキエル38章の預言を当てはめる解釈もあります。

 私たちは天使よりもはるかにすばらしい聖霊なる神内住の油注ぎいただき、霊的にはすでに永遠の御国に生きています。そのために御子がこの世に下られました。体の贖いという完成に向かって希望をもって主を頼りつつ、主と共に神のいのちと力の中で歩んでゆきましょう。

栄光の雲が宮に満ちて

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神の力によって

2023-11-06 15:46:51 | 福音

主にハレルヤ

【エペソ書3章】

パウロはユダヤ教パリサイ派としてのキリスト教徒迫害者から復活の主との出会いによる劇的な回心をしました。 旧約聖書と新約聖書の共通性と違い知ると信仰がよく分かります。

普通はユダヤ教からキリスト教が生まれたのだと言われますが、正統的には旧約聖書もイエス・キリストについて書かれているのですから、むしろ旧約は間接的予型的にイエス様について記され、新約は直接的な現われを述べています。そして現代は聖霊によって栄光の主との交わりに入れられています。現代のユダヤ教は新宗教の一種でイスラム教などと共に、天使教に近いといえるかもしれません。

例えばダビデやイザヤはユダヤ教徒かというならば、主を告白している点でキリスト教の先駆者となります。

ロシアによるウクライナ侵攻、そしてイスラエルとパレスチナのガザとの紛争が同時進行しています。

エゼキエル38章に、ロシア勢力とイスラエルの最終戦争が起こると預言ありますので再臨が近いのでしょうか。アウグスチヌスは第一の復活は新生した霊のよみがえりであり、第二の復活が再臨時の体のよみがえりであると解釈しました。つまり、この世の出来事におびえずに、私たちは既に永遠の霊のいのちを与えられていることを感謝し、さらに体のよみがえりの近いことを覚えて希望をもって生きるように勧められています。

NHK制作の宗教二世、神の子たちの問題についてドラマ風に描かれた番組を見ました。教会によく似た建物が登場したり、指導者が神の愛を説くシーンなどキリスト教に似ているのですが、十字架がなく聖霊不在の宗教であることが分かりました。聖霊は十字架の贖罪、血潮による赦しと信仰という管を通して注がれます。

その結果、神が、御霊として神の子とされた私たちに内住され、神の力を現わされます。

新生、清めや奉仕、献身すべては、神の御霊の業であり、神が先立ってなされる働きです。

しかし、それを聖霊なしに人間の力でなそうとすると自力による行いが強要され、その重圧に苦悩することになります。形式上の神の子は被造物としての人間のいのちプシュケーで生きるので、自力で神の子らしく振舞おうとして疲弊し無理と破綻が生じます。ドラマはその葛藤を描いていました。「似て非なるもの」外観は似ているが、中味は全く違うのが異端の特徴です。

しかしこれは他人事ではなく「御霊によって始めたのに肉によって完成しようとして」律法主義に陥る自分も注意することを教えられました。これは、幼児洗礼と民族主義的な東方キリスト教会の背景から生まれたウクライナの紛争、ユダヤ教と東方キリスト教会の背景の中から生まれたイスラム教の戦いの根本にある霊的問題と共通しています。 

2章に記されているように確かに私たちは主と共に天の御座に坐らされたのです。そして御霊が我々の霊に住まわれて御業を行われます。演繹的本質的三位一体論において、御霊は私たちを神の交わりの中に入れてくださり、同時に帰納的経綸的三位一体論的に、御霊の業を行われます。

前者において御霊の実、愛や喜び、平安、寛容、親切、慈悲、忠実、柔和、自制の実を結んでくださり、後者において知恵、知識、預言、癒し、奇跡、信仰、異言、解き明かし、霊の見分けという能力を現わされます。

 それは聖霊様の力によるもので、人間の力に依るものではありません。

自己依存では神の性質と力の現われはないのです。神への信頼をとうして、神は働かれ、神の力が解放されます

そして神の力の体験、神の脱穀機、神の虫、神の石にされます。

モーセも自分の力だと誇ることの罪故に、カナンに入れませんでした、ダビデも自軍への依存による不信の罪を犯しました。しかしモーセが祈りの手を挙げる時イスラエルが勝利したように一瞬、一瞬、御霊に頼ることによって主はもろもろの霊に中で勝利を現わされます。主に頼らないことがすべて罪だと聖書にあります。

実質的な神の子として、神のいのちゾーエーを持ち、聖霊によって祈り、行動しましょう。

聖霊は霊と心の深さと、無限の広がり、至聖所という霊の次元の高さと、深い洞察に導かれます。

主イエスの十字架の血で

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