モーツァルトとR.シュトラウスの共通項について、練習しててハタと気がついたのですが、なんというか、以下のようなことです。
私は、全くナマのおつくり(お刺身)より、たとえば、きずし(しめ鯖のこと)とか、ぐじ(アマダイのこと)はお昆布で締めてあるヤツとかが好み。
あるいは、おいし~いお出汁で炊いた野菜の炊き合わせとか。
要するに、ナマの素材そのものを食べるよりも、一手間かかったものがいいの。
だから、たとえばですが、北海道のお料理(素材勝負?)より、京都のお料理(昔は海から遠く、素材が限られていたから手間をかけた?)の方が。
それとおんなじと言っては強引かもしれませんが、モーツァルトにもR.シュトラウスにも似たような匂いを感じますねぇ。
たとえばオペラ「薔薇の騎士」。
私は、あのエンディング(濃い濃い音楽+官能のドラマが何時間も続いた最後に、お小姓がハンカチ持ってひらひらっと走って消えてゆく、あのなんとも軽い終わり方。)に何よりも魅了されるのです。
濃いからこそ軽く終わる、とか、微笑みのなかに涙が隠れてるとか、なんかそういうの。
ある意味で、人工的と言えるかもしれないけど。
そういえば、モーツァルトは、たとえばベートーヴェンと違ってほとんど「自然」に興味がなかったというような気がするのですが?(あの膨大な手紙を全部読んだわけではないので確かではありません。)
私は、全くナマのおつくり(お刺身)より、たとえば、きずし(しめ鯖のこと)とか、ぐじ(アマダイのこと)はお昆布で締めてあるヤツとかが好み。
あるいは、おいし~いお出汁で炊いた野菜の炊き合わせとか。
要するに、ナマの素材そのものを食べるよりも、一手間かかったものがいいの。
だから、たとえばですが、北海道のお料理(素材勝負?)より、京都のお料理(昔は海から遠く、素材が限られていたから手間をかけた?)の方が。
それとおんなじと言っては強引かもしれませんが、モーツァルトにもR.シュトラウスにも似たような匂いを感じますねぇ。
たとえばオペラ「薔薇の騎士」。
私は、あのエンディング(濃い濃い音楽+官能のドラマが何時間も続いた最後に、お小姓がハンカチ持ってひらひらっと走って消えてゆく、あのなんとも軽い終わり方。)に何よりも魅了されるのです。
濃いからこそ軽く終わる、とか、微笑みのなかに涙が隠れてるとか、なんかそういうの。
ある意味で、人工的と言えるかもしれないけど。
そういえば、モーツァルトは、たとえばベートーヴェンと違ってほとんど「自然」に興味がなかったというような気がするのですが?(あの膨大な手紙を全部読んだわけではないので確かではありません。)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます