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2012.04.29 ひな祭りの思い出(ブログ第1000話記念)

おひな様の季節になると、いつも思い出すことがあります。
それは、我が家が上海にいた頃のひな祭りです。

母は毎年、私たちの為におひな様を飾ってくれました。
私と12才違いの姉の時に購入したものだと思いますが、昔の作りなので豪華
で精巧で、見事なおひな様だった様に思います。
すべてのお道具は、本物と違わぬ作りで、それが小さく作られているだけで、
大きさこそ違え、酒器は仮に水を入れると注ぎ口からきちんと注がれる作り
で、御所車の車輪も、するすると静かに前進しました。

右大臣、左大臣等が帯びている刀は、まさに立派な刀で切れ味も抜群でした。
幼い私がひな壇の前で遊んでいると、8才上の兄がやってきて、そのお雛様
の刀で、鉛筆を削るという悪戯をしました。
兄の文房具の小刀などとは格段に違う切れ味だったと思います。
私はべそをかきながら、台所にいる母へ言いつけに行きました。
すると母が飛んできて、兄からおひな様の刀を取り上げようとしますので、
兄が逃げ回り二人で座敷をグルグルグルグル追いかけっこをしていました。

翌年又おひな様が飾られると、味を占めた兄がやってきてお雛様の刀で鉛筆を
削ります。何に味を占めたかと言いますと、この悪戯が効果があることです。
私がべそをかき母に言い付けに行き、母は顔を真っ赤にして飛んできて兄を追
いかけ回すけれど、そう簡単には捕まらない楽しさ!兄には堪えらないのです。

そして、次の年もおひな様が飾られると、又、兄はニヤニヤして私の目の前で
鉛筆を削って見せます。早く、お母さんに言いつけに行きなよ!という感じで。
又いつものことかと私は少しめんどくさいなと思いながら、せっかく反応を伺
っている兄に騒いで上げないと悪いと思って、サービス精神から結構大きな声
で泣きながら、チョコチョコと台所の母のところまでご注進に及びました。
(下の図のA→Bのコースです。)

いつも思い出すこととは、懐かしいこれらの記憶です。
4才、5才、6才迄です。なぜなら上海での最後のひな祭りは6才の時でした。
3回程覚えていますが、その前となると私が3才の時で、妹が生まれたばかり
でしたので母は飾る余裕が無かったのか、又は飾って貰っても3才では覚えて
いないのか、それは分かりません。
その6才の夏に終戦を迎え、翌年私たちは日本に引き揚げて来ました。

もう一つ、私が思いを馳せることは、あれらのお雛様はどうなったのだろう?
と言うことです。
我が家は、終戦の直前に青島(チンタオ)に転居することになっていたので、
引越荷物を全部父の新赴任先へ発送してしまったところへ終戦を迎えたのです。
もちろん、どちらにしましても何一つ持って帰れなかったのですから同じこと
なのですが、その後、毎年ひな祭りを迎える度に、あのおひな様のことを思い
出すのです。そして母と兄の必死の(?)バトルのことを…。

その後、友人から聞きましたが、友人は母親から終戦の頃「こんなもの持って
いても仕方がない。おもちゃにして遊びなさい。」と言われて、おひな様を
おままごとにして遊んだと言っていました。
日本に居た人々も敗戦前後にはそういうせっぱ詰まった心理になったのですね。

「そうか~、おままごとか~!」
なるほど、あのおひな様達は中国の子供さんの良いおもちゃになったかも知れ
ませんね。
いつも、ひな祭りになると、そんなことを漠然と思ってしまう私です。


私達が住んでいた家の2階の座敷に、七段飾りのおひな様を描きました。
はじめは、赤い七段の雛壇だけ描けば良いと思っていましたが、それだけでは
実感が湧きませんでしたので、結局おひな様を描きました。
見取り図に挿入するには、上から見たところを想像して描かねばなりませんので、
結構苦労しました。

幼かったので、あまりじっと観察していたわけではないし、衣の模様などを覚え
ている訳ではなく、又、チビの私は上段迄見えなかったので、その辺は適当です。
(この雛壇イラストの縮小していない分を、次回お目に掛けたいと思います。)


なお、これは6才まで住んだ、思い出の中の上海の家の全間取り図です。
約100年前、英国の企業が建てた煉瓦建ての住宅で、頑丈な作りで、当時
すでに水洗トイレでした。
昨年7月、66年振りに兄弟3人で生家を訪問しましたが、細かいところまで
私の記憶の通りでした。
なお、畳の部屋は我が家が住んでいた頃のことで、今は板張りに変わって
いましたし、現在この家に、8軒の家族が住んでおられるとのことでした。

※なお、この家が取り壊されると聞き急遽兄弟で訪問したのですが、その後、
家の取り壊しは無くなり、文化財として保存されることになった模様です。

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