不思議なものだ。生きるということは、とてもリアルな営みであるのに、依拠するところは虚構だ。
価値観の違いというが、虚構の組み立てが違うのだ。この価値体系の社会はいやだから、と違う価値体系の社会に生きようとするのは、実はこの社会の虚構から、別の虚構に移り住むだけ。
それでも、私たちは何かに依拠しなければ生きていけない。この虚構になじめなければ違う虚構を探し求めるしかないが、ふと、「虚構」であると気づいてしまうと、行き先がなくなる。
いや、「虚構」なんて、だれでも言うことではある。が、実感するということは違う。
第一、違う宇宙のように異なる価値観の社会というのは、ない。もちろん、それぞれ、大きな違いを感じるが、それでも、「親子」という概念があったり、「家族」らしきものを形成していたり、異性同士で子どもをもうけたり、今の時代にあって、共通する文化的事項は多すぎる。
星新一が描く異世界のようには違わない。
そのような共通事項をたくさん流通させる通文化的時代に、異なる虚構に出会うなど、不可能なのだろう。異なる虚構に生きるということは、カフカの世界のように、苦悩の道があるだけだ。他の人に見えないものを見、他の人が感じないことを感じる。
「愛」や「絆」という虚構は、どうして貫徹させることができるのだろう。
「対幻想」を実感として見ることの出来た人は(そんな人がいるのか)、、、否、対幻想も苦悩を含んだ幻想だ。
時々、罰当たりな考え方だとは思いつつ、死ぬと楽だろうな、と思う。が、少しは心平和になってから、死にたいなとも思う。しかし、それも逆説で、心平和が得られたら死にたいとは思わないのだ。心の平和が得られないから死を思うのだ。楽になりたい、それは死しかないと思うのだ。
が、子どもたちのことを思うと、あまり早く呆気なく逝くのも、自死するのもまずいだろうなとも考える。子どもたちには、親の死や思い出に心乱すことなく、少々暢気なくらい穏やかにこれからを生きていってほしいと思うので、自分のことで汚点をつけてやりたくはない。ほのぼのとたまに思い出してもらうくらいでいい。
だれにも依存せず、だれからも依存されなかったら、私一人の死は、それで済む。そんなふうに「健やかに」死んでいくのが、最後の締めくくりとしては良いのではないか。
だから、そういう最期を迎えるためには、少しでも今の「生」を良いものにしないといけない。幸福になるのは、あるいは、他の人への責任を果たすことなのかもしれない。幸福になる責任。他者に対して果たすことがあるとすれば、幸福でいる責任。少なくとも、子どもたちにはそれを感じる。
そうだろう。「幸福」でいる人は、それだけで、他者に貢献している。愛する人を、大事な人を、悲しませないためには、「幸福」でいなければならない。そういう意味では、私の母は、見事に、やるべきことを果たしている。か弱い人は、そのか弱さの中で、一番出来ることをしている。母の心中を思いやると、ふと、心配になってしまうが、彼女は、「幸福」でいるために、最大限の努力をして、今、にこにこしているのだ。えらいもんだ。
価値観の違いというが、虚構の組み立てが違うのだ。この価値体系の社会はいやだから、と違う価値体系の社会に生きようとするのは、実はこの社会の虚構から、別の虚構に移り住むだけ。
それでも、私たちは何かに依拠しなければ生きていけない。この虚構になじめなければ違う虚構を探し求めるしかないが、ふと、「虚構」であると気づいてしまうと、行き先がなくなる。
いや、「虚構」なんて、だれでも言うことではある。が、実感するということは違う。
第一、違う宇宙のように異なる価値観の社会というのは、ない。もちろん、それぞれ、大きな違いを感じるが、それでも、「親子」という概念があったり、「家族」らしきものを形成していたり、異性同士で子どもをもうけたり、今の時代にあって、共通する文化的事項は多すぎる。
星新一が描く異世界のようには違わない。
そのような共通事項をたくさん流通させる通文化的時代に、異なる虚構に出会うなど、不可能なのだろう。異なる虚構に生きるということは、カフカの世界のように、苦悩の道があるだけだ。他の人に見えないものを見、他の人が感じないことを感じる。
「愛」や「絆」という虚構は、どうして貫徹させることができるのだろう。
「対幻想」を実感として見ることの出来た人は(そんな人がいるのか)、、、否、対幻想も苦悩を含んだ幻想だ。
時々、罰当たりな考え方だとは思いつつ、死ぬと楽だろうな、と思う。が、少しは心平和になってから、死にたいなとも思う。しかし、それも逆説で、心平和が得られたら死にたいとは思わないのだ。心の平和が得られないから死を思うのだ。楽になりたい、それは死しかないと思うのだ。
が、子どもたちのことを思うと、あまり早く呆気なく逝くのも、自死するのもまずいだろうなとも考える。子どもたちには、親の死や思い出に心乱すことなく、少々暢気なくらい穏やかにこれからを生きていってほしいと思うので、自分のことで汚点をつけてやりたくはない。ほのぼのとたまに思い出してもらうくらいでいい。
だれにも依存せず、だれからも依存されなかったら、私一人の死は、それで済む。そんなふうに「健やかに」死んでいくのが、最後の締めくくりとしては良いのではないか。
だから、そういう最期を迎えるためには、少しでも今の「生」を良いものにしないといけない。幸福になるのは、あるいは、他の人への責任を果たすことなのかもしれない。幸福になる責任。他者に対して果たすことがあるとすれば、幸福でいる責任。少なくとも、子どもたちにはそれを感じる。
そうだろう。「幸福」でいる人は、それだけで、他者に貢献している。愛する人を、大事な人を、悲しませないためには、「幸福」でいなければならない。そういう意味では、私の母は、見事に、やるべきことを果たしている。か弱い人は、そのか弱さの中で、一番出来ることをしている。母の心中を思いやると、ふと、心配になってしまうが、彼女は、「幸福」でいるために、最大限の努力をして、今、にこにこしているのだ。えらいもんだ。