自分が考えていることを発信する、というのはとても必要なことなのだけれど、能力とエネルギーが要るなあと思う。
某MLに、ある社会的課題について、新聞記事が紹介されていた。そして、それに対して、Twitterで多くの反応があり、それを集めたものも紹介されていて読んだ。
Twitterでは、「知らなかった」「関係者が声を上げなかったから」などと、書かれている。少しがっかりする。
私なりに、使える媒体を使って、声を上げてきたのだけれど、声が小さ過ぎたか。
まあ、ネットを使うのは私には危険過ぎたから、ネットで個人や固有の団体が特定されないようにぼやかしたかたちでしか書けなかったから、これでは声にならないわなぁ。まだまだ自分には宿題という感じがしたままだから。
が、今回のテーマへの問題提起としては、現職時代から声を上げているから、それなりに歴史があるのだが。
問題が良い方向へ行けばいいだけで、おまえの名誉なんかどうでもいいだろう、という自分自身の内なる声が私を叱咤するが、完全に無視されると、あまりいい気分ではない。これは何なのだろう?
思えば、そういうことは多い。現職時代にたちの悪い妨害に苦しみながら、後のために書き残した記録に基づいて改善されたことがあったが、私の努力や苦悩など一顧だにされないままだ。
後の人ががんばったことになっている。あの記録に基づいたことはわかっているのに、それを書いた私については全く言及されない悲しさ。
これは、何なのだろう? 他人の頑張ったその上澄みをすくって、自分の手柄にする人はたくさんいる。そんな目にはいろいろ遭ったはずだ。そして、巡り合わせで、意図せずにそうなることもあるだろう。たぶん、私もそういう恩恵に与ったことがあっただろう。
責任がかかってくることは名前を出したがらず、名誉になることは自分がしゃしゃり出る、という人も結構いる。が、責任と名誉は表裏一体だ。下手をすれば破滅、うまくいけば名誉がついてくる。結果が見えてから、上澄みをすくうような人ではありたくない。
ま、いいか。私が発信したものも埋もれながらも消えてはいないし、小さいことは、確かに小さいのだから。身の丈にあった仕事をしただけだから。
それよりも、この新聞記事をきっかけに、まやかしの現状が改善されることを願えばいいかも。
某MLに、ある社会的課題について、新聞記事が紹介されていた。そして、それに対して、Twitterで多くの反応があり、それを集めたものも紹介されていて読んだ。
Twitterでは、「知らなかった」「関係者が声を上げなかったから」などと、書かれている。少しがっかりする。
私なりに、使える媒体を使って、声を上げてきたのだけれど、声が小さ過ぎたか。
まあ、ネットを使うのは私には危険過ぎたから、ネットで個人や固有の団体が特定されないようにぼやかしたかたちでしか書けなかったから、これでは声にならないわなぁ。まだまだ自分には宿題という感じがしたままだから。
が、今回のテーマへの問題提起としては、現職時代から声を上げているから、それなりに歴史があるのだが。
問題が良い方向へ行けばいいだけで、おまえの名誉なんかどうでもいいだろう、という自分自身の内なる声が私を叱咤するが、完全に無視されると、あまりいい気分ではない。これは何なのだろう?
思えば、そういうことは多い。現職時代にたちの悪い妨害に苦しみながら、後のために書き残した記録に基づいて改善されたことがあったが、私の努力や苦悩など一顧だにされないままだ。
後の人ががんばったことになっている。あの記録に基づいたことはわかっているのに、それを書いた私については全く言及されない悲しさ。
これは、何なのだろう? 他人の頑張ったその上澄みをすくって、自分の手柄にする人はたくさんいる。そんな目にはいろいろ遭ったはずだ。そして、巡り合わせで、意図せずにそうなることもあるだろう。たぶん、私もそういう恩恵に与ったことがあっただろう。
責任がかかってくることは名前を出したがらず、名誉になることは自分がしゃしゃり出る、という人も結構いる。が、責任と名誉は表裏一体だ。下手をすれば破滅、うまくいけば名誉がついてくる。結果が見えてから、上澄みをすくうような人ではありたくない。
ま、いいか。私が発信したものも埋もれながらも消えてはいないし、小さいことは、確かに小さいのだから。身の丈にあった仕事をしただけだから。
それよりも、この新聞記事をきっかけに、まやかしの現状が改善されることを願えばいいかも。