凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

どのフィクションを選ぶか

2013-03-27 12:46:16 | 考え方
 最近は鬱々とテレビを観て過ごす日が続く。こんなことではよくないと思いつつ、テレビの前のこたつでまったりしていることが多い。

 先日、中島知子という、少し前までオセロというコンビで活躍していた片方の人の話題を取り上げている番組を観た。きれいで若い女性のお笑いコンビというので、それほど強い関心があったわけではないが、でも、テレビで見かけると応援する気分になった二人だ。

 その中島知子が、占い師と同居しているだの、洗脳されているだの、という話題が盛り上がり、今ではその占い師から引き離され、療養中だとか、、、。番組は、その中島知子がある雑誌編集長に、自分の口から真実を語りたい、占い師には迷惑をかけた、彼女は悪くない、加害者は自分の方、というような発言をした、ということでさも重大そうに取り上げていた。
 それを観ていて、思ったこと。

 番組や芸能ネタ的には、「まだ洗脳がとけない」というような評価がなされていて、誰一人、その占い師との関係が噂されているほど悪い関係だったわけではないのではないか、中島知子にとって居心地の良い関係であったのなら、それを断罪する理由はないだろう、というようには言わない。一人の大人の女性である。彼女の意思が一顧だにされず、「まだ病気」とか、「まだ洗脳が解けない」というようにしか判断されないのは怖い。この一元的な価値の蔓延が怖いと思う。

 良識ある親の言うことは正しいはず、良識ある親が引き離そうとするのだから、相手がとんでもない人であるに違いない、という評価が非常に怖い。

 良識ある親は、子どもの意思を踏みにじることがある。良識ある親は、子どもが自分の知らない世界に行くことを恐れて、引き戻そうとする。
 少なくとも、その人といる方が、中島知子は居心地が良かったのかもしれない。「太った」と言うが、四六時中ダイエットのことを考えて食事をする苦痛から解き放たれたら、本来の(?)体型を取り戻しただけかもしれない。

 ある人の発言を、「洗脳」だの「病気」だのと公的なメディアで情報として流すことには恐怖すら感じる。娯楽番組として観るのか、報道番組として観るのか、微妙なタイプの番組だけに、怖さを感じる。
 
 子どもの頃、私が意見を言うと、父が困ったような顔をして、「誰の影響を受けたのか」と、私自身の考えであることを決して認めなかったことを思い出す。もちろん、正確を期して言うなら、誰の考えも純粋にオリジナルではあり得ない。様々な価値観、思想に影響を受け、人は自分のものの考え方を築き上げ、日々選択を行っている。一人の人間の中でも、感情に支配される部分、客観的な情報に基づいて構築している部分など、入り組んでいるだろう。それが、その人の精神世界として成立しているのだ。
 それなのに、その時のその人の判断、ものの考え方をそこまで尊重しない、というやり方が怖いのだ。

 他の人から見て、愚かな行為、選択であったとしても、その時はその人に最も適合した判断をしているのだろう。後悔をして、また考えを改めるのも、その人の権利だ。そういうプロセスを奪ってよいわけではない。それに、後悔しないかもしれない。そのまま、親や周りの人間が見れば、堕落と見える人生を生ききるかもしれない。そっちの方が悪いとは、実は誰も言えないのだ。
 もちろん、迷惑を被った人は文句を言う権利があろう。が、それは、迷惑を被ったその部分を問題にするだけのことであって、相手の生き方までとやかく言うことではないだろう。

 テレビを観ていて思っただけのことだけれども、こうした出来事が世の中には時々起こる。やはり、思い出すのは、千石イエス事件。千石イエスの傍にいることのほうが居心地が良かった若い女性達が、その選択をしたのだ。娘がそちらを選択した事自体を、親たちはもっと謙虚に受け止めるべきなのだ。

 自分たちの価値観に適合しない価値観を目の前に示されると、それが恰も悪夢か何かのように喧伝されるが、どちらのフィクションを選択するか、という問題なのだ。
 テレビを観ていると、アンチエイジングのキャンペーンが凄まじいのに驚く。団塊の世代をターゲットに、美容・健康商品の宣伝がものすごいことになっている。年をとっても美しく、いつまでも若々しく、、、という宣伝合戦を観ていると、こちらのフィクションにしみじみ病的なものを感じ、もうちょっとましな世界に行きたいと思う。
 こちらのフィクションより、あちらのフィクションを選ぶ、そういうことではないのか。