凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

差別化をはかる心性

2011-11-09 14:29:55 | 人間関係
 連鎖的に、また中学生時代の古い記憶がよみがえってきた。中学生くらいになると、「不良」と呼ばれる一群の生徒たちが現れる。何が不良だったのか、今となればよくわからないのだが、校則を守らない、ということが顕著だったのだろうか。

 一人の「不良」っぽい女子がいて、同じクラスだったが、やはり接点はなかった。ただ、私は極めて素朴な少女で、同級生は同級生、誰であろうが分け隔てをする理由は持たないので、その少女にも会えばにっこりと挨拶をしていたのだろうと思う。しかし、今思えば、他の少女たちは、一群の「不良」らしいグループからは距離を置いて挨拶すらしなかったのかもしれない。ある時、何をしていたときだったか、屋外でクラスが整列しなければならないがまだ整然と並ぶに至っていない空きの時間帯に、誰彼となくまわりの生徒たちとみんながそれぞれ喋っていたとき、その「不良」と目される少女が、「私、この人、ものすごく好きやねん」とニコニコして私を指し、言い出したことがあった。「だ~い好き」と。たぶん、私の色白ぶり(体が弱くて運動をしないので日に焼けない)か、天然ぶりか、ウエストが細い(確かに細かったのだろう)か、そんな他愛のない話題に一瞬なった時に、彼女が言い出したのだったと思う。その彼女のどこが「不良」だったのか、今ではさっぱりわからないが、何か当時、札付きだったような記憶がある。私は「え?」とびっくりして、どう反応したかは覚えていない。とにかく、そんなに好かれているとは思いもかけなかったので、ただ驚いたのだ。たぶん、そこから先は、もっと世間慣れした他の少女が「おぼこいから?」とか、笑って応酬していたのだろうと思うが、強制的に整列させられてからも、その少女が、「私らみたいな者(もん)にも、いつもちゃんと挨拶してくれるしなぁ、、、」と言っているのが聞こえてきたから、たぶん、それが一番、彼女の好意を呼び起こしていたのだろう。私の記憶では、朝、登校して出会うと、彼女も私も、お互いに「おはよう!」とニコニコして言い合っていたので、それは当たり前に展開する光景だったのだが、今思えば、子どもたちの世界でも、グループが違えば挨拶をしない、などの差別化が行われていたのかもしれない。そして、今思えば、彼女が「私らみたいな者(もん)」というグループに彼女は属していた、ということだ。中学生にして、その自覚は、いったい何を意味していたのだろう。今になれば、そちらの方が気になるが。

 幸い、私には、その差別化は内面化されることはなかった。今に至るまで、それは育まれていない。だからなのか、時折、思いがけない人に好かれていることがある。若い頃、住んでいた地域では、昔からその土地に住んでいる赤ら顔で昼間からお酒を飲むガテン系のおじさんがいた。ある種、名物おじさんだ。その人の団地と近所の団地だったこともあり、顔見知りになったので、名前は知らなかったが、道で会うと挨拶をしていた。その人もニコニコして挨拶を返してくれる。私の住んでいた建物は、教育関係者が住んでいる公務員宿舎で、そのおじさんが住んでいる建物とは生活環境が違うらしかった。ある日、地域のお祭りで、役員だった私も参加し、そのおじさんはお祭り男だったので当然参加していたのだが、集会室にやってきたそのおじさんが、私がいるのを見て、鉢巻がほどけてきたので締め直してくれないか、と頭を差し出した。私は、鉢巻を締め直してあげて、「はい、これでいいですか?」と言ったら、「うれしいなぁ。あんたに締めてもらえたなんて、幸せや。もう、ほどきたないわ」と言った。そこへもう一人のお祭り男が入って来た。おじさんはその人に「わしなぁ、この女の人、ものすご好きやねん。ほんまにな、ものすごええねん」と、強く訴える。すると、相手の男性は、「そやなぁ、別嬪さんやしなぁ」と答えると、そのおじさんは強い口調で、「違う! そういうのと違うんや。心や! この人はなぁ、気立てがええんや。ものすごええんや」と、繰り返していた。若かった私は、「別嬪さん」と言われる方が好ましく思えたのだが、そのおじさんはそうではない私の良さをやたら強調した。

 後から気付いた。教育関係者の団地の中で、そのおじさんにニコニコして挨拶をする私は、かなりの変わり者であって、多くの奥さんたちは、眉をひそめこそすれ、ニコニコするわけはなかったのだ。
 この、何か初めから合意されているかのような差別化は、いったいどこから来るのだろう。私には人々のそちらの方が理解ができない。

 そして、これだけは、私は親から譲り受けたのだなと思う。かたくなでわがままだが、世間で自分を鍛えていない分、私の母は世間ずれした人の価値観にも依拠しない。分け隔てするだけの世間知を身につけていないのだ。だから、誰にも公平だ。

 だから、かえって世間に当たり前にある差別意識が相対化できる。私が病気になって退職した職場の中間管理職の俗悪さ加減に気づく。あれは相当なものだった、やっぱり。






はるみさんの日記の続き

2011-11-09 13:40:54 | 人間関係
 中学校に上がってしばらくして、はるみさんが家出をした、ということを聞いたとき、こわいおばあさんの家から逃げ出したのだ、と、苦労知らずの私も納得した。当然だ、と思った。私とはるみさんとは、境遇が違いすぎるほど違っていたが、「家出」を決行したはるみさんに共感できるところがあった。私も何度も「家出」をしたかったからだ。しかし、「家出」は、私には「死」を意味した。両親から、一歩家を出るととてもこわい世界が待ち受けているのだと聞かされ続けていたので、どうせ死ぬなら、家で自殺する方がましに思えた。自殺すれば、親はびっくりし、取り乱すだろう、せめて、それくらいの効果がなければ命を賭ける意味はない、と思っていた。

 安全が約束されるなら、「家出」したかったが、そのようなつてがないので、諦めていただけだ。親は、私を何不自由なく育てているつもりだったが、私は自己肯定や自己受容をし損ねて、心の地獄のような日々を生きていた。
 はるみさんは、きっと家の外に、やさしくて頼りになる誰かを見つけたのだろう、と思う。年上の男だったのではないか、と今は思う。そして、その、中学生の娘を家出させるような男が「安全」だったかどうかは、本当のところはわからないが、その時のはるみさんにとって、もうおばあさんに叱られ続け、こき使われる暮らしはまっぴらだったので、目の前のやさしげな男の方が選択するに値すると思えたのだろうと想像する。

 昔、騒がれた「イエスの方舟」事件を思い出す。若い女性たちが、自分を受容し、叱らずに縛らずに心穏やかに見守ってくれる千石イエスという年配の男性を慕って家を出て共同生活をしていたことに、共感を覚えた。私は直接は何も知らないけれども、この若い女性たちを自分と同じだと思った。娘に家出をされた親たちは、たぶん私の親と同じ。苦労をさせずに育てているのに、見ず知らずのわけのわからないおやじに誘惑されて軟禁されている、と思いこんで告発をしている。しかし、娘たちの方が息詰まるような親の家を出て、千石さんと一緒に信仰生活をすることを望んだのだ。「千石ハーレム」などと破廉恥な憶測でバッシングをしたメディアも、娘を奪われたと思い込んでいた無自覚な親たちも同じ穴の貉だ。他の人格の自由と尊厳を踏みにじりながら、そこから逃げ出すことを批判し尽くす。恐ろしい人たちだが、そんな人たちがこの世にはうようよいる。

 それにしても、父のことをはるみさん事件にからめて思い出すと、そういやな人ではなかったな、と思う。母が私を完全に支配していたので、父については、母を通して受け止めていた。むしろ、母の寵愛を奪い合うライバルだった。しかし、実は、母に比べて、はるかに冷静で穏やかだった。しかも、娘が泣くほどかわいそうな娘の同級生を何とかしてやりたい、とは思ったのだ。しかし、私が武骨な父を頼りに思っていなかったので、父の申し出を受け入れなかったのだ。

 父と母と私。いずれ、欠陥だらけの人間の関係の絡み合い。その中で、ロクなことはしてこなかっただけ。

 はるみさんも生きているなら、私と同じ60歳を過ぎたことになる。でも、彼女は、生きていない気がする。あの薄幸そうな少女は、薄幸なまま、若くに亡くなっているのではないかと思う。
 私との接点は、その事件だけだ。

悪夢というわけではないが、、、、

2011-11-09 10:01:45 | 日々の雑感
 不思議な夢を見ながら、目覚めた。べつに、変な夢、というわけでもない。ただ、なぜ、今頃、こんな古い出来事がよみがえったのだろう、という不思議な感に打たれた。

 それは小学校高学年だった頃の話。ある日、同じクラスの女の子二人が、私の家にやって来た。何の用事で来たかと言うと、そのうちの一人、(仮にはるみさんとしておこう。当時、ファーストネームで呼んでいたわけではないが。)はるみさんが、何のお金だったか、すっかり忘れたが、(たぶん、修学旅行か何かの積み立て金を修学旅行に行かなかったので返還されることになった、そういう類の物だったと思う)担任から保護者である祖母に返還されるべきお金を渡されたが、使ってしまった。しかし、担任は、祖母から「確かに受け取りました」という手紙を貰って来い、と言ったそうで、非常に困っている、という事情が一緒に来たもう1人のはるみさんと仲の良いみゆきさん(これも仮名。名前は忘れた。)が主に説明をした。で、自分でその手紙を書こうと思ったが、子どもの字なのでばれること間違いない、でも、私なら字が上手だし、大人のような字を書くから、書いて欲しい、というのが訪問の理由だった。はるみさんのおばあさんがはるみさんに非常につらく当たる人であること、年に1~2回ほど帰ってくるはるみさんの母親は、はるみさんを見ると、勉強しろ、と小言を言うだけだということ、父親については全く知らないこと、などは、みゆきさんから聞いたことがあった。
 当時の京都の小学生には制服はなくて私たちは私服で登校していたが、はるみさんはすらりとした美少女であるにもかかわらず、着ている物のせいだったのか、何か貧乏くさくてきれいだとは思えなかった。

 私は、はるみさんの困窮に即座に反応して、その「○○円、確かに受け取りました。○○△子」というおばあさんを騙った文面を書こうとした。差し出された紙があったと思うのだが、先に他の紙に下書きをした。が、うまくいかず、やはり、子どもの字にしか見えないと思った。それで、茶の間にいた母に、その紙を差し出して、「○○円、確かに受け取りました。○○△子、と書いて。」とあまり説明をしないで頼んだ。母は、その場で、大人の字で書いてくれた。いや、説明をしたかもしれない。そのあたりは忘れたが、さすがに大人の行書体の文字に満足して母から紙を受け取って、私は二人にその紙を渡した。はるみさんは、本当にホッとした表情で、何度もお礼を言って帰って行った。

 その夜、母がひどく怒って私の部屋にやって来た。父が帰宅したので母がそのことを話したらしいのだが、「それは私文書偽造にあたるのではないか、それは罪になる」と父が言ったらしい。母は、すごい剣幕で、「返してもらって!」と、いきりたっていた。

 父からも、それは罪になることだと言われて、私もびっくりした。母が書いたその文章に、はるみさんのおばあさんの印鑑がこっそり押されて、翌日、担任に渡されるはずだった。その時には事情を詳しく説明したと思う。母は怒り心頭に発していて、私は、母の剣幕に押されるように家を飛び出した。父が「一緒に行こうか」と言うのを、一人で行く、と言い張って飛び出した。

 昔の都会の公立小学校区域はそれほど広くない。特にはるみさんの家は案外近くで、私は一度家の前まで行ったことがあるので、そのおぼろな記憶を頼りにすでに8時頃になって暗くなってしまった道を歩いた。1960年頃の住宅地の道は、今に比べてほんとうに暗かった。住宅が軒を並べているが、それぞれの窓からさほど明るくない中の明かりが漏れてくる程度だった。はるみさんの家がうまく見つかるだろうか、表札は見えるだろうか、と不安をかかえつつ歩いて行って、それらしいと思える家の前まで来た。それは、路地の入り口だった。一人の女性がたらいにかがみ込んで、外の水道で洗濯をしていた。その人に尋ねようと近づいたら、それがはるみさんだった。私はてっきり、どこかのおばさんが夜遅くに洗濯をしているのだと思いこんでいたので、驚いた。はるみさんは私に気づき、(暗がりの中で目だけが濡れたように光っていた記憶がある)、私が事情を話し始めるとすぐに立ち上がり、「返すわ」と言って家の中に入って行き、紙を持って現れた。彼女は私にその紙を見せ、(後から悔やむのだが、私はその時、その紙をのぞき込む、という仕草をした。)「破っていい?」と聞いた。「うん」と答えると、目の前で紙を小さく裂いた。そして、私にその細かくちぎった紙を渡して、何度も「ごめんな」「ごめんな」と言った。「ううん、こっちこそ」と、私も言ったと思う。そうして、裂かれた紙のかたまりを握りしめ、帰りながら、涙が止まらなくなった。やがて、数軒先で暗闇から大人の男の人が現れて、すぐに父だとわかった。ついて来ていたのだった。そして、私に札を複数枚差し出し、「渡して来い」と言った。が、私は「いい」「そんなことをしたら、もっとかわいそう」とかそんなことを言ったのだと思う。「何も、お前が泣くことはない」と父は言いつつ、泣いている私と一緒に家に帰った。待ちかまえていた母は、目をつり上げて「返してもらった?」ときき、私はきれぎれの紙を母に渡した。後は自分の部屋に戻って泣いていたのだったと思う。はるみさんが紙を見せた時、なぜ、のぞきこむようにしたのか、それも悔やまれた。疑いなど微塵もなかったのに、見せた行為に応えただけなのだが、まるで疑っているかのようだったと思った。一枚、紙片がひらひらと落ちた。
 その後もその夜の光景を何度も何度も思い出した。一度、まだ子どもだった頃に日記に書いたこともあって、今でも鮮明に、その夜のことがよみがえる。

 今朝、目覚めた時、その夢を見ていたのだ。克明に再現されていた。そして、目覚めながら考えていたのは、あのとき、父が差し出したお金を渡してあげていたら、はるみさんは本当に助かったかもしれない、ということだった。その夜、泣いている私の部屋にもう一度父がやって来て、お金を渡そうとしたように思う。「明日、学校で渡してあげなさい」と言ったような気がする。が、私はガンとして拒否した。当時私が育った家庭では、はるみさんが困っているそのお金は、大した金額ではなかったように思う。子どもの私ですら、大金というイメージはなかった。しかし、当時の私には、お金の問題よりも、はるみさんを侮辱するようなことをしたくない、という思いが強かった。ただその一点だった。お金に困ったことのなかった私は、それがどういうことであるのか、想像すら出来なかった。そして、今朝、目覚めたのだ、当時のはるみさんには、プライドや自尊心や、そんなものを守るより、現金の方が必要だったのだろう、と思いながら。間違えたのは、私だ。
 そして、ああいう時の父は立派だった。事情を汲んで必要な物を差し出しながら、私の意志を尊重していた。一緒に行きたくない、という私の後をそっとついて来てくれていた。
 
 中学生になってから、人づてに聞いた話では、はるみさんは家出をしておばあさんが探し回っている、ということだった。夜中(当時の小学生には、夜の八時は十分に遅い時間だった)に、暗がりで、たらいにかがみ込んで洗濯をしていた小学生の少女。はるみさんが家の中に戻って紙を取って来るのを待っているわずかな時間、私はたらいの中に浸かった洗濯物を、誰のだろうと思いながら見ていた。おばあさんにこき使われている、という話も聞いたことがあったので、その息詰まるような家から、中学生になって、とうとう逃げ出したのだなと思った。美少女だったから、自分で働くようになれば、きっと見違えるように美しくなっているだろうと想像できた。

 その古いエピソードがなぜ、今頃、何の脈絡もなくよみがえるのか。

 不思議だったのでここに書いておこうと思った。何か、悪いことの兆しではないことを願いながら。