凡々たる、煩々たる・・・

タイトル、変えました。凡庸な人間の煩悩を綴っただけのブログだと、ふと気付いたので、、、。

誰かと同居するということ

2011-11-05 22:24:20 | 人間関係
 忙しくて、しばらくこの手の書き込みをしなかった。否、忙しいだけではなく、精神的な浮き沈みも激しかった。

 私には家族がいない。朝、起きて、「今日はお天気がいいわ」と声をかける相手がいない。ふさぎ込んでいるときに、「どうかした?」と、気にかけてくれる人もいない。いや、もちろん、同居人が必ずしもプラスに機能するとは限らないのは、百も承知だ。
 昔の私の父のように、ふさぎ込んでいると、「陰気な奴だ」と怒ったり、いやみを言い出す相手なら、今のように、誰にも干渉されない方がましだ。この平和が欲しくて、一人暮らしを希求し続けたのだが、結局、年をとって、心身が弱ってから、一人暮らしが実現した。それでも、父母に嫌味を言われ続けた昔の暮らしよりは、はるかに楽だから、この孤独に耐えようとは思う。

 でも時折、穏やかな同居人を持っている人のことを羨ましくなる。私には女性二人で暮らしている友人達が何組かいるが、どの人達も、お互いに助け合っている。相手の辛さや悩みを誰よりもよく理解し、支え、外敵に向かっては強く連帯して対峙する。おそらく多くの女性達が、最も求めているパートナーとは、そういう相手だ。男性ではなかなかそのきめ細やかな支え合いは出来ないが、女性同士だと、求めるものが似通っているので、お互いに与え合う事が出来る。

 そういうパートナー関係を求めるのも、持続しようとするのも、とてもとてもよくわかる。でも、私はそれをしない。望まれてもしない。彼女たちの相手への依存の仕方、御神酒徳利のようにすべてを共有する仕方が、私の目にはかっこよくないのだ。彼女たちは、おそらく私のような孤独は持たないだろう。いやなことがあると、すぐに聞いてくれる相手がいる。落ち込んでいると、慰めてくれる相手がいる。そういう暮らしの中で、すっかり二個一単位となってしまった彼女たちは、もはや一人の人として向き合えない人たちだ。

 私も嘗て、それに近いものを実現させかけたことはあったが、様々な違和感や葛藤を乗り越えて獲得するには、その道は遠すぎた。私は、その実現に至るプロセスに挫折した。たぶん、私の友人達も、ずっとプロセスを生きているのだろう。日々、様々な葛藤をかかえているだろう。そしてやがて安心できる穏やかな良きパートナー関係に到達するのだろうか、あるいは、長い長い葛藤の日々を乗り越えて解体という結果に至るのかもしれない。どちらにしても、人生がいつ終わるかで、パートナー関係の成否は分かれる。人生の終わりが先か、パートナー関係の終わりが先か、どちらかだ。
 これが夫婦関係ならば、そのような密着したパートナー関係を高望みすることもなく、生活の共有の中で、空気のように慣れた存在になり、どちらかが死ぬまで続いたりするのだろうが。

 まわりのパートナー達を見ていると、どちらかが相手に合わせていたり、相手の顔色をうかがっているのも感じる。パートナーであり続けるために、自分の欲望や違和感を封印している姿も垣間見える。それは、私には無理だから、やっぱり独りで生きる。

 でも、わびしいものではある。私がどんなに苦しんでも怖い思いをしていても、誰も知らない、というのは心細いものだ。
 仕方がない。これが私の選んだ暮らしだ。

 二人関係のパートナーとかではなく、気心の知れた思いやり合える仲間が数人いればいいなとは思うが、同居というのはなかなか難しい。