失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

八王子市鑓水 ベアトの写真撮影地点の推定(完結)

2006年11月13日 | 幕末写真
ベアトの写真
写真1,2は、横浜開港資料館から転載許可を得て『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館発行)p40,41からスキャンニングしたものである。


写真1「鑓水の風景」(横浜開港資料館所蔵)


写真2「八王子へ向う道」(横浜開港資料館所蔵)

写真1と写真2との関係
同写真集の解説には、写真2は写真1の「中央部をアップで写したもの」とある。

写真2から読みとれること
写真2から次のようなことが読みとれる。
①道は登り坂に差し掛かっており、逆S字のようにカーブしている。
②左下に水の流れが見える。流れは左からである。
③画面上で流れの上の位置に左から道が通っており、上り坂の手前で合流している。
④石仏が写っている。
他にもいろいろなものが写っているが、だいたいこのような内容から撮影地点の検討をしてみたい。

写真2の撮影地点検討
鑓水付近全体の地形を地図1に示す。

地図1 2万5千分の1地形図「八王子」より。杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)よりコピーした。

鑓水の八王子道は、現在の「絹の道資料館」の前を通り、道了堂の方に登っていく道だそうである。大栗川の御殿橋から道了堂への登りの分岐点までの区間については、道の勾配がそれまでよりやや急になる地点は2箇所で、「大栗川の御殿橋から北方向への登り」と、「道了堂へ登る分岐点」である。
現地を歩けば分るが①②③の条件を満たすのは、大栗川の御殿橋付近である。
御殿橋付近の現況は写真3,4、5のとおりである。

写真3 御殿橋付近より北方向 撮影日2006年11月3日

写真4 写真3の左方向から流れる水路 撮影日2006年11月4日

写真5 写真4の水路は、道路の下を通って御殿橋の下に出てくる。撮影日2006年11月4日

石仏について
 写真2の石仏部分に注目してみよう。写真2の撮影位置であると推定した御殿橋付近には、この石仏はない。この付近の路傍にもそれらしいものは見当たらなかった。
 植松森一『八王子の石仏百景』(揺籃社,1993年)p31には、台座の模様がベアト写真と似ている石仏が1体紹介されている。これは永泉寺の「不動明王」で、天明八年の文字が刻まれている。永泉寺の位置は地図1で「老人ホーム」と書いてある右側あたりのお寺のマークのところである。
 また川端信一「シルクロードと石仏」(『野仏』第4集,多摩石仏の会,昭和47年2月)p.5には、「橋を渡って永泉寺にはいる。ここでは天明八年の不動座像・・・が見られる。」とある。
 永泉寺に出向いて、不動明王を側面から撮影したものが、写真6である(背後からの撮影はできなかった)。台座の模様が一致することから、ベアトの写真のものと同一(少なくとも同型)であると考えられる。この石仏が永泉寺に移されたとするなら、昭和47年以前ということになる。

写真6 ベアトの写真と永泉寺の不動明王 永泉寺の不動明王の撮影日2006年11月4日

写真1から読みとれること
写真2の位置が決まれば、写真1もおよその撮影地点は決まる。写真1から読みとれることは
①撮影地点は、写真2に写っている民家の屋根より高い位置である。
②画面中央やや左に、道に沿って石垣のようなものが見えている。
等である。
写真から直接読みとれる情報ではないが、八王子市教育委員会『絹糸商 八木下要右衛門屋敷跡調査報告書』p21には、「左奥屋敷の隣が要右衛門家と伝えられる(矢印部分)」との記載がある。(写真7参照)

写真7 写真1の説明

写真1の撮影地点検討
写真2の民家の標高はおよそ126-130m程度であり、屋根までの高さをおよそ6-8mとし、カメラの設置高さを地上1.5mとすれば、撮影地点の標高は、およそ130-140mより高いことになる。
一方、写真1の道路の向きと見え方から水平方向の範囲を推定したものが地図2である。ベース図は、国道16号バイパスが書かれてないので、昭和55年ころの道路拡幅以前の住宅地図のようである。図中の番号で5が八木下要右衛門、8が清之介、12が大塚五郎吉宅である。

地図2 ベース図 「鑓水商人分布図」 絹の道調査研究会『絹の道の遺跡と現状の記録』(昭和63年)p21

以上の大まかな絞り込みから、写真1の撮影地点は、大塚五郎吉宅付近が有力と考える。

写真8 大塚五郎吉宅跡より北方向 撮影日2006年11月12日

結論
写真1と写真2の推定撮影地点を地図3に示す。

地図3 2万5千分の1地形図「八王子」より。杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)よりコピーした。

写真1の撮影地点は大塚五郎吉宅付近、写真2の撮影地点は大栗川御殿橋付近と推定できた。

今のところ、ベアトの鑓水の写真の撮影地点について特定して記述しているものを、文献上では見つけることができなかった。被写体についても、上述の八王子市教育委員会『絹糸商 八木下要右衛門屋敷跡調査報告書』p21が、八木下要右衛門家の位置を記している以外は見つけることができなかった。
八王子市郷土館の某氏の話では、「地元の人は写真を見ればどこから撮ったものであるのかすぐわかるはずであり、現地に行けばわかることであるが、それを文字に記したものがあるかどうかはわからない」とのことであった。

今回調べた文献(上述のもの以外)
『目でみる町田の百年』郷土出版
東京都教育委員会『歴史の道調査報告書第4集 浜街道』東京都教育庁生涯学習部文化課、1996年
小泉栄一『写真集ふるさと板木』非売品 昭和46年
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