失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

阿伎留神社 城山(戸倉城跡) 五日市盆地 +α

2011年02月20日 | 古井戸
渕上の井戸の他に、もう一つあきる野市にある井戸
阿伎留神社境内の井戸を訪れてみました。
ですが井戸とは関係のない突飛な方向に話は流れていきます。


<阿伎留神社 2011/01/23>

阿伎留神社境内の井戸というと下の写真のものだと思いますが、
現地に案内表示があるわけでもなく、
『五日市町史』でもこの井戸のことはふれていません。
それで詳しいことはわかりません。

<阿伎留神社境内の井戸 2011/01/23>



<阿伎留神社境内 2011/01/23>

阿伎留神社を出て東に向かうと、秋川を見下ろせる場所があります。
下の写真は、そこから東方向を眺めたものです。
山並がここで切れていて、秋川はそこから流れ出ていきます。
両側の山が門のようにたちはだかり、
あたかもここが五日市の出入りの関門のように見えます。
五日市街道も五日市線もここを通っています。

これを見て、私はある場所を思い出しました。
突飛な場所ですが、それは最後に。

<阿伎留神社から東へ進む 2011/01/23>

五日市郷土館によってみますと、
地形模型があって、「数十万年前~数万年前、五日市は大きな湖で・・・
と説明が出ています。
「関門」の山は湖の堰堤だったことになります。

それで、五日市の盆地をもう少し全体的に見渡たしてみたくなりました。
地図でみると、城山(戸倉城跡)がうってつけのようですので、
城山に登ってみることにしました。

<城山(戸倉城跡) 2011/02/13>

<戸倉の野崎酒造 杉玉 2011/02/13>

私は戸倉の神明神社まで自転車で行き、そこから登りました。
山頂まで急坂をいっきに登って20分くらいでした。


山頂からの眺望の前に、地図を。(「カシミール3D」使用)

<国土地理院1:25000地形図を縮小加工>

登ったかいがありました。
先ほど「関門」と言っていた場所は、下の写真で手前に写っている山ではなく
奥の山になります。地図と見比べてみて下さい。

<城山山頂から東方向を 2011/02/13>クリックで拡大(1060×665)別窓表示
さて、五日市の風景から連想する突飛な場所とは・・・

<阿蘇山杵島岳から 1989/12/20>クリックで拡大(1735×820)別窓表示

阿蘇の外輪山がここ立野(写真中央部付近)で切れていて、
降った雨(の表流水)はここから有明海へと流れ出していきます。
五日市と阿蘇、この「見立て」どうでしょうか?
もちろん規模も、地形形成要因もちがいます。
共通点は、山並みが切れてそこから川が流れ出しているということだけです。


阿蘇の写真は自転車旅行時に「写ルンです」で撮ったものです。
雄大な風景に見とれて360度撮りました。
そのときのプリントをスキャンしてパノラマにしてみました。
1989/12/20阿蘇山杵島岳から パノラマ(2000×180)別窓表示

<了>
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あきる野市渕上の石積み井戸

2011年02月13日 | 古井戸

<渕上の石積み井戸 2011/02/13>
あきる野市渕上(淵上)にある石積み井戸。この井戸は、現地案内版によると
東西5.5m、南北7.5m、深さ3.2mとなっており、
これまでこのブログで取り上げた七曲の井戸や、羽村市五の神の井戸、
青梅新町の井戸に比べるとやや規模が小さいですが、
石積みとスパイラルの形が美しいです。


<渕上の石積み井戸 2011/02/13>
また、植え込みなどがきれいに手入れされており、小庭園のような感じさえします。


<渕上の石積み井戸 2011/02/13>
さらに、案内板には、石積みの間から地下水が湧き出していると書かれていて、
底には水がたまっています。現役の井戸なんでしょうか。そうだとしたらうれしいです。

そんなわけで、私はこの井戸、たいへん気に入りました。


<国土地理院1:25000地形図に加工>
井戸は、JR五日市線の武蔵引田駅から約1kmくらいのところにある、
あきる野市開戸センターの敷地内にあります。
井戸は奥にありますが自由に見学できます。


<開戸センター前の通り 熊野・出雲通り 2011/01/30>
開戸センター前の道は、特別なものがあるわけではありませんが
私はなんとなく懐かしい感じがします。


<出雲神社前あたり 熊野・出雲通り 2011/01/30>



<断面図 「カシミール」使用>
井戸と武蔵引田駅を結ぶ線を引いて地形断面図を作ってみました。
開戸センターの標高は150mくらいです。
井戸の深さは3.3mというこのなので赤で縦線を引いてみました。



<井戸端 2011/01/30>


<了>
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青梅新町の大井戸

2011年01月30日 | 古井戸
前回取り上げた、青梅の旧吉野家住宅のすぐ近くに
青梅新町の大井戸がありますので、久しぶりに井戸の話題を

<大井戸公園 2010/12/5>

現地にあった解説プリントによると、井戸の規模は
東西約22メートル、南北約33メートル、深さ7メートルのすり鉢部
また、
明和7(1770)年の年号と「永代不絶泉」の墨書をもつ
願文石
」が「筒井戸の底付近から出土した」ということです。
出土した深さは、解説プリントの断面図によると、
すり鉢部の底からさらに約15.2m下になっています。

<大井戸 すり鉢部 2010/12/5>

大井戸と吉野家住宅の間くらいを圏央道(青梅トンネル)が通っています。
トンネルの今寺側出口近くに緑地があって
「この緑地の下を圏央道が走っています」の案内版があります。
この案内板によると、「トンネルから地表まで8m」ですので、
大井戸のすり鉢の底とあまりかわらない深さです。
(2011/02/14追記 同案内板によると、トンネルの高さは19mです)


<圏央道青梅トンネル 今寺側出口近くにある緑地 2010/12/05>

大井戸の深さを断面図に書き入れてみました。
大井戸付近の標高は数値地図の表示では168mくらいです。
ここから7m下と、さらに15m下を青線で示しました。
圏央道の位置は、168-8=160mと160-19=141mに赤線を引いてみました。
(2011/02/14 断面図差し替え)

<カシミールで断面図を作成し加工>
大井戸、青梅トンネルの出口(多摩川側、今寺側)、霞川北側の笹仁田峠の位置は
下の地図を参照して下さい。

<カシミールで国土地理院1:25000地形図を縮小表示して切り出し加工した>

圏央道青梅トンネルの出口までいってみました。

<圏央道青梅トンネル出口 左:多摩川側12/19 右:今寺側12/5>

<圏央道青梅トンネル出口付近から多摩川上流方向を 2011/01/9>

<上の写真の中央付近、多摩川の川岸から 2011/01/9>

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まいまいず井戸 羽村市

2007年06月25日 | 古井戸


 JR青梅線羽村駅から歩いて数分、五ノ神神社に隣接したところに、この「まいまいず」井戸があります。現地の案内板には、伝説ではこの井戸が掘られたのは大同年間(806-810)とされているが、板碑の出土状況などから鎌倉期のものではないかと書かれています。
 見たところずいぶん大きなもののように感じました。しかし、形状は、これも現地案内板の説明では地表部の直径が16m深さ4.3m底面の直径5mだそうです。「七曲井」の形状が現地案内板によると直径26m深さ11.5mとなっていましたので、そちらのほうがだいぶ大きいことになります。(七曲の井はあまり大きさを感じませんでした。なぜだろう)

 ここは底まで下りられるようになっています。下から見上げると、掘るのはやはり大変だなと実感します。
 自分ひとりでスコップで掘ったとしたらどのくらいの日数を要するのでしょうか。見当がつきませんが、この「すり鉢型」を円錐台とみなして上記の寸法をあてはめ容積を計算すると、約410m3となります。家庭用の浴槽を200-250リットルとすると約1600-2050杯分です。一日浴槽10-20杯分掘ったとして80-200日くらいでしょうか?。むかしはどんな道具を使ったのか知りませんが今の道具(もちろん建設機械は別としてですが)よりは困難だったことは確かでしょう。

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七曲井 狭山市

2007年06月18日 | 古井戸

<七曲の井>
 
 七曲の井の場所については、ひとつ前の「八軒家の井」の項で地図にポイントをおとしましたので参照してみてください。
 「七曲」というのは地名のことだろうと思っていたので、「まいまいず井戸」のことだろうと思っていました。現地の案内板の昔の写真(現在は井戸の補修工事をおこなったため、昔と形状が変わっている旨が書かれています)を見ると、地上部から、井口(こういう呼び方でいいのかわかりませんが)へおりる道のつけ方がジグザグで、この点がまいまいずとは違うということで納得しました。まいまいずは、道がぐるっとらせん状、七曲はジグザグ(七つに折れている道)であることからついた名前でした。
 ただどちらも、すり鉢型の井戸という点では同じです。

<七曲の井に隣接してあるお堂>

 これも「八軒家の井」の項で引いた、『狭山市遺跡分布調査報告第2集』には、この井戸が掘りたてられた時期は平安時代にさかのぼる可能性が高いこと、この時代には、このあたりに集落がない(この時代の集落跡が付近で見つかっていない)ので、この井戸は街道沿いの水補給所のような役割だったといったことが書いてあります。(後日正確に引用します)

<不老川 左:上流方向;右:下流方向>

 七曲の井は不老川(ふろうがわ、としとらずがわ)のすぐ横にあるのですが、吉川國男「七曲井の発掘とその後」『多摩のあゆみ 第111号』p.40(たましん地域文化財団)(平成15年8月)によると「不老川は、七曲井と接しているものの、その水は七曲井には涵養していない。」とのことです。

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八軒家の井  狭山市

2007年06月09日 | 古井戸


<『狭山市史編さん調査報告書13狭山市遺跡分布調査報告書第2集』の地図で見て、井戸跡に該当しそうなものはこれしかわからなかった>

 堀兼の井とされている井戸跡はいくつかあるという話を前に引用しましたが、「堀兼神社境内のもの」と、入曽駅近くの「七曲の井」がよく知られています。今回のタイトルの「八軒家の井」は、案内板もなく(正確なことは知りませんが、あるいは私有地にあるからなのでしょうか)、形状も埋まってわからなくなっていて、このままいくと消えてしまいそうに思える状態でした。

 伊佐九三四郎著『武蔵野歴史散歩Ⅰ 多摩編 埼玉編』(有峰書店新社)には、堀兼神社の近くにもうひとつ井戸があることが書かれています。
(引用開始)
 さきほどからキャッチボールをしている子供たちに、この近くにもうひとつ古い井戸はないか、とたずねてみた。
・・・
古井戸は所沢へむかって千メートルほどいった雑木林の中にあった。かつて農家が共同で使っていたものだが、いまは荒れはてて、すっかり底が浅くなってしまっている。子供たちは、二、三年まえにはもっと深くて水がたまっていたんだが・・・・・・と、さもすまなそうにいってくれた。     pp.231-232
(引用終り)

「二、三年まえにはもっと深くて水がたまっていたんだが」という時期ですが、この本の初版は昭和58年(1983年)です。雑誌に掲載されたものを選んだものとのことですので、昭和50年代前半(1975-80年)あるいはそれ以前ということになります。
 また、同書には簡単な地図がついているのですが、1万分の1くらいの詳しい地図にポイントをおとしたものでないと地点を探し出すのは難しいと思われます。
 狭山市立博物館に、狭山の文化財位置の展示があって、それにも、この井戸がありました。私はそれを見て、記憶だけにたよって、変電所周辺(下の地図参照)を探してみましたが結局わかりませんでした。
 
 地図 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)からコピーし加工した。

 三芳町立歴史民俗資料館の図書室で、『狭山市史編さん調査報告書13狭山市遺跡分布調査報告書第2集』をみたところ、大縮尺の地図があったので、これをコピーさせてもらい、それを頼りにやっと見つけることができました。

<井戸跡はこの道沿いにあった>

『狭山市史編さん調査報告書13狭山市遺跡分布調査報告書第2集』によると
(引用開始)
65八軒家(はちけんや)の井(県番号22076)
所在地 狭山市大字堀兼2332番地ほか
遺物・遺構  遺物
        今回の調査では採集できず。
       遺構
        井戸跡 長径16.5m・短径14.5m・深さ3m
遺跡の性格  遺物が発見されなかったので時代は不詳である。七曲井、堀兼之井とともに鎌倉街道に沿った地点にあり、性格も同様のものと思われる。 
p.22
(引用終り)

 遺跡の性格について、同書の堀兼之井の項を見てみますと、
(引用開始)
64堀兼之井(ほりかねのい)(県番号22047)
所在地 狭山市大字堀兼2221番地
遺跡の性格 埼玉県指定旧跡である。七曲井同様、武蔵野台地のところどころに散在していたと思われる「ほりかねの井」の一つであるとも考えられており、それが事実であれば、本井の掘立ての時期は平安時代までさかのぼる可能性がある。・・・本井の性格は、もしこれが平安時代までさかのぼるとすれば、この付近には奈良・平安時代の集落がないことと、堀兼の集落は江戸時代の新田開発によって誕生したこと、鎌倉街道(堀兼道)沿いにあることなどから、七曲井と同様に、道をとおる人々のためにあったものだと想像される。なお、ここから南方350mには、本井より規模が大きく、同様の性格をもつと思われる八軒家の井がある。 
pp.21-22
(引用終り)


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堀兼の井

2007年05月19日 | 古井戸

                 <堀兼神社(浅間神社)>

 「枕草子」に「井は ほりかねの井」(百六十一段)とあると聞いて、どうしても行ってみたくなった場所ですが、当「失なわれゆく風景」としましては、このあたり周辺(堀兼、上富、中富、下富、上赤坂、下赤坂あたり)、よくこの風景が残ったものだと、やはり驚きます。まだ広い農地と雑木林の風景が広がっていて写真におさめきれない感じです。

ここは武蔵野探訪者にとって昔から有名な場所で、江戸時代の地誌の記述が簡潔で要を得ている(「必要にして十分」と言いたいところですが、あと私としては、このあたりの地質学的な解説がほしいところです。後日ネット上で探してみます。)ので引用してみます。



●『江戸名所図会』 天保五・七年(1834・36)

市古夏生 鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房pp.368-369

<「図会」「武蔵野話」の挿絵と同じ方向から>

 左側の絵の下の方にある井戸の部分をとりだしてみます。

市古夏生 鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房pp.368-369



(引用開始)  漢字のあとの( )はふりがな、[ ]内は校訂者注

堀兼の井 河越(かわごえ)の南二里余りを隔てて堀兼村(ほりかねむら)にあり。浅間(せんげん)の宮(みや)の傍らにあるゆゑに、これを浅間堀兼と号せり(この社前は古(いにし)への鎌倉街道にして、上州・信州への往還の行路なり。いまの宮は慶安[1648-52]中、松平豆州(まつだいらずしゅう)候[松平信綱、1596-1662。老中]建立なしたまへり。別当を慈雲庵(じうんあん)と号す。河越高林院(こうりんいん)の持ちなり)。浅間の祠(やしろ)の左に凹(くぼ)かなる地ありて、中に方六尺ばかりに石をもって井桁(いげた)とし、半ば土中に埋(うず)もれたるものあるを、堀兼の井と称せり。傍らに往古(そのかみ)川越秋元(あきもと)候の家士岩田某(いわたそれがし)建つるところの碑あり。高さ五尺余。その文、左のごとし。

この凹形の地、いはゆる堀兼の井の蹟なり。久しうしてつひにそのところを失はんことを恐れ、よって石の井欄を拗中(おうちゅう)に置き、碑を削りてその傍らに建て、併せてもって後監に備ふ。
 里語、掘って水を得難し。ゆゑにしかいふ。兼難に通ず。いまだ知らず、ただ俗に従ふのみ。
 宝永戊子年[1708]三月朔

(引用終り) 市古夏生 鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房 p.366から


 名所図会の挿絵では、神社の前の道が大きく曲がった先、中遠景の山の下あたり(左側の絵の上の方)に、四角囲みで「はけ下堀兼」と書かれています。神社前の道は、まっすぐなので、この描画は見開き一枚に全体を収めるための方便だと思いますが、それはともかく、この「はけ」の部分現在でも神社より高くなっています。

<「はけ下堀兼」の方向。パノラマ合成>

<同上写真の中央部付近>



●『武蔵野話』  文化十二年(1815年)
(引用開始)

堀兼の井は堀兼村に在(あり)。其地の鎮守浅間の祠ありて側に埋井(うもれゐ)あり、是を堀兼の井といふ。側に石碑あり。さはあれど往古(いにしへ)の井は今浅間の祠の在所にして井を埋め鎮守と崇(まつり)、其井を埋る為に土を穿(ほり)出せし跡を今堀兼井といふよし、土人(ところのもの)の話なり。祠の前の街道は信濃上野より鎌倉往返の行路にして、是を古の鎌倉道といふ。元和十三年春の比(ころ)、光廣卿の記行に「廿三日は山の端しらぬむさし野にわけいらせ給(たまひ)、草より出る月のみかはあかねさす日もおなじ萱生(かやを)より影のどかに霞(かすみ)てもるる春の詠(ながめ)えもいはず 中略 堀かねの井は右に見てとをる、決定知近水(ちきんすい)心にうかぶべし、けふは仙波大堂にとどまらせ給て 下略」と。かくあれば此地(ところ)なる事うたがひなし。

(引用終り)斉藤鶴磯『武蔵野話』有峰書店 p.56から


 挿絵は、例によって龍谷大学図書館の貴重書データベースのものを紹介しておきます。http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/cont_02/pages_02/0206L/02060019.html



●『新編 武蔵風土記稿』 天保元年(1830年)
(引用開始)

堀兼井跡  村の東南浅間塚の邊にあり、圓径四間深さ一丈許の穴なり、近き頃其中に石を以五尺四方の井筒を組、側に寶永五年秋元但馬守喬知が、家人岩田彦助なるものに命じて立たる碑あり、其文もあれど考へと成べきものにあらざれば、略して載せず、按に此井の名は古くは【枕草紙】に井は堀かねの井と見えたり、されど何れの國なることは載せず、ただ【千載集】に藤原俊成卿の歌をのせて、武蔵野の堀かねの井もあるものをうれしや水の近づきにけり、とあるのをみれば當國にて名だたる物なることしらる、かく俊成卿の詠に入しより、後は全く當國の名所と定りて、世々の歌人も其詠多くして徧く人の知る所なれど、其舊跡は詳ならず、今傳ふるは當郡は元よりなり、他の郡にも堀兼の井跡と称する井餘たありて、何れを實跡とも定めがたし、・・・

(引用終り)蘆田伊人校訂・根本誠二補訂『新編 武蔵風土記稿 第八巻』雄山閣 p.263から



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