失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

今年はこれにて

2013年12月30日 | Weblog

<オリオン座 2013/12/29 多摩川府中四谷橋から下流方向>


これから今年の定点写真をつないだ動画作りを始める予定です。

皆様にとりまして来る年がよい年となりますようお祈り申し上げます。
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初冬の情景

2013年12月21日 | Weblog
桜ヶ丘公園周辺の初冬の情景。

草(枯れ草)に覆われた地面から島状に霜柱が「噴出」していました。

<都立桜ヶ丘公園 2013/12/21>


<都立桜ヶ丘公園 2013/12/21>


<都立桜ヶ丘公園 2013/12/21>

農業者大学校の建物があったところは整備されて桜ヶ丘公園に組み入れられたようです。

<都立桜ヶ丘公園 2013/12/21>

<同所 2011/12/17>

最後は昭島市と立川市の市境のあたりの多摩川左岸から見た夕日です。

<昭島市 多摩川左岸から>
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竈神

2013年12月08日 | 民俗
12月8日の「ヨウカゾウ」の起源の一つは中国の「臘日」なのではないかと何年か前に書きました。
今回は、その「臘日」(12月8日)に行われていたという祭竈とその関連を話題にしてみます。

<2013/12/08 江戸東京たてもの園>

中村喬『中国の年中行事』(平凡社選書115 平凡社1988年 第1刷)には
この竈の神、竈の祭について詳しく書かれています。
かいつまんで引用してみますと、

 
前漢の『淮南万畢術』にいう、「竈神は晦日に天に帰し、人の罪を白(つ)ぐ」(『太平御覧』竈所引)と。
また前掲鄭玄の言にも「人の間に居り、小過を司祭して譴告を作(な)す」という。
つまり竈神は人の罪を伺察しこれを天に告げるという属性をもつが、
この属性は家族生活が竈によって営まれるところに生じたもので、
竈神自身が譴告をなすのが本来であったと思われる。p.268


この「人の罪を天に告げる」という部分は、「庚申待(こうしんまち)」
(道教に由来する風習で、三尸(さんし)の虫というものが人の中にいて、これが庚申の日、
人が眠っている間に抜け出して人の罪を天に告げる。人々はこれを防ぐため夜通し起きていたという。
その夜の様子というか雰囲気は、落語の『庚申待』などから伺い知れます)
と共通しているように思います。
あるいは一つ目小僧が台帳に人の悪事を書いておいて、後で取りに来るという
「ヨウカゾウ」の伝習とも共通性がありそうな気がします。
なぜ昔の人は竈の神が人の罪を天に告げるなどと考えたのでしょうか。
竈からは煙が空へと立ちのぼってゆくため、
煙が家々の情報を天に伝えているのだと考えたためだろうと想像がつきます。

水木しげる『続 妖怪画談』(岩波新書288、岩波書店、1993年第1刷)の「かまど神」の項には

日本では仁徳天皇の昔から、かまどから立ち上る煙の高低で、
その家の家運を知ることができるといわれている。p.29


と書かれています。(仁徳天皇の件は『古事記』の下巻にあります)

12月8日との関連にもどりますと、中村喬の前掲書には

祭竈の時期は、『礼記』月令篇では孟夏・仲夏・季夏の三夏とされている。
これは戸・竈・門・行・中霤の五祀を、それぞれ春・夏・秋・冬・中央に当てたもので観念的なものであるが、
後漢では国家行事としての祭竈はこれにもとづいて夏六月に行った(『後漢書』礼儀志中)。
いっぽう民間では、前漢の『淮南万畢術』に竈神は晦日に天に帰るとされているところから、
古くは月晦ごとに行なわれたのではないかと考えられる。
明確に民間の祭竈の期日を記すのは南朝梁の『荊楚歳時記』である。
「十二月八日を臘日と為す。其の日、並びに豚酒を以て竈神を祭る」と。
梁の頃、民間での祭竈は臘日に行なわれていたのである。p.279


そして、なぜ12月8日なのかについて、こう書かれています。

いったい竈が日々の生活に不断のものであることから考えると、
その祭が生活リズムの途中で行なわれるはずはない。
一定の区切りに行なうのが自然である。『淮南万畢術』に「晦日に天に帰る」とされているのも、
生活の一区切りを意味する。そこで臘日に目を向けるならば、それは一年の生活の最も大きな区切りであった。
古代観念において臘祭は、一年の感謝とともに一年の農事の閉鎖を宣言する祭であり、
農事の閉鎖は一年の終了を意味するものであった。
故に後漢の蔡邕の『独断』巻下に「臘は歳終なり」といい、
『四民月令』に「臘の明日を小新歳(こしょうがつ)と為す」という。
竈を一年に一祭しようとするならば、この歳終である臘日はまさに適時である。p.280


一年の終わりならば、なぜこの日に12月8日と日付を振るのか(12月は8日で終わりではないのに)、
よくわからないところです。暦もいろいろ変わっているようですし。
ともかく、この日は、一年の締めの日で、いろいろな厄払いも行われていたようです。

竈そのものについては、柳田國男の『火の昔』にまとまった記述があります。

<2013/12/08 江戸東京たてもの園>

さて、今日の日本の都市部の一般家庭では、日常の煮炊きに竈を使っている家はほぼ100%ないでしょう。
従って竈の神も絶滅してしまったように思えます。
ところがどうして、竈の神は形を変えて、現代に大きな問題を突きつけているようです。
その一つは災害時の問題です。
ひとたび災害が生じ、電気ガスが止まって便利な日常が麻痺してしまった時に、
この竈が大復活して活躍をすることになるでしょう。
このような事態にはなるべくなら遭遇したくないものですが、
大地震がいずれ来る以上、やはりそのときは活躍してもらわねばなりません。

都内の一部の都立公園には、災害時にカマドとして利用できる、カマドベンチなるものが設置されているということです。

<2013/12/08 小金井公園>


私は、
竈と言うにはささやかですが、
木質燃料ストーブ
(キャンプなどで使える
小型のコンロのようなもの)
を購入してみました。









竈の神が現代に突きつける問題の二つ目は情報の漏洩の問題。
お上の都合のわるいことは秘密にされてしまう一方で、私のような下々の人間は、
ビッグデータの活用などという名目のもとに、
検索履歴、サイト閲覧履歴、商品購入履歴、交通機関乗降状況、居場所、趣味・性癖まで丸裸にされていきます。
便利だからと、どんどんネット利用を進めていった結果、もはやネットなしには生活できない状況に落ち入っています。
コンピュータ社会での情報流出は、ちょうど、昔の人の生活にとってなくてはならなかった竈が
「人の罪を天に告げる」役割を担っていた(と考えられていた)のと似ているように思えます。
「庚申待」など、今日の目から見れば実に迷信じみたばかげた風習ですが、
昔の人のとっていた「情報漏洩防止策」だったのですな(それが有効だったかどうかは別ですが)。

<了>
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