失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

箱根

2017年05月04日 | 幕末写真

<箱根くらかけゴルフ場 クラブハウスから 芦ノ湖 駒ヶ岳>

久しぶりに「ベアトの写真の撮影場所を訪ねる」、今回は箱根です。
ベアトの写真は『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館 編集)からとりました。
(スキャンの過程で原図といくらか違いか生じていることをお断りしておきます)
当方の撮影日は2017/05/03です。
完全に同じポイントでの撮影は無理でしたが、およそのところは押さえたと思います。

 
<ベアト撮影 芦ノ湖>
 
<箱根くらかけゴルフ場から  左右の写真は違う撮影地点で撮ったものを並べています>
右の写真の背後の山並の重なり具合からすると、
ベアトの撮影場所はゴルフ場のクラブハウス(当方の右の写真の撮影場所)より
もう少し東よりのようです。立入の制約などもありこれ以上の探索はできませんでした。
あとはパソコン上で眺望ソフトを使って探索するのがよさそうです。
右の写真で芦ノ湖に出島のように出ているところは、恩賜箱根公園です。


<ベアト撮影 箱根宿>

<国道1号、遊覧船乗り場のあたりから南西方向>
街道の屋並みの屋根の高さなどからみると
ベアトの撮影ポイントは前方より少し高いです(ゆるい坂の途中)。
街道(現国道1号)は箱根峠からずっと下ってきてから関所跡の方に向かって少し登りになります。
(関所跡はこの写真の後方になります)


<ベアト撮影 湯本の三枚橋>

<現在の三枚橋>
箱根湯本の駅のあたりから早川を少し下ったところにかかる三枚橋。
旧東海道と強羅方面への道の分岐点になっています。
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地蔵坂上 横浜市中区

2014年10月05日 | 幕末写真

<ベアト撮影 『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館刊)p.21より引用>同書によると
これは「地蔵坂上からの眺望」で、奥の木立は「弁天の森」と書かれています。

<地蔵坂上から北方向を 2014/5/12>地蔵坂はJR根岸線石川町駅の西から山手の丘の方へ上っています。
ごらんのとおりベアトの写真を偲ばせるものは何も写っていません。ランドマークタワーが電柱の後ろに隠れています。
しかたがないので、後日「弁天の森」を探してみました。

<弁天通りの表示 2014/9/10>弁天の社も森ももうここにはありませんが、
弁天通りや弁天橋として名前のみ残っています。

<弁天橋 2014/9/12>

<弁天通りのはずれ 2014/9/12>
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横浜市 根岸 白滝不動尊

2014年05月19日 | 幕末写真
久しぶりにベアトの写真の撮影場所を探訪しました。
ベアトの写真は著作権が切れていますので、「F.ベアト写真集」より引用します。

<ベアト撮影>
「F.ベアト写真集」では、この写真に対して
「不動坂下の白滝不動尊への登り口」とタイトルがつけられています。

白滝不動尊は今住んでいるところから近いので行ってみますと、
確かに石段とその前の傾斜の感じに昔の面影があります。

<2014/05/17 横浜市 根岸 白滝不動尊前>

石段を少しのぼり石碑の左(下から見て)に行くと滝壺があります。

<2014/05/17 白滝不動尊>

なかなかの滝です。

<2014/05/17 白滝不動尊>

石段をのぼり切ると社殿(不動尊なのでお堂というべきか。しかし狛犬があるし
ベアトの写真では鳥居が写っていたし。神仏混淆のようなものと考えておきます)があります

<2014/05/08 白滝不動尊>

社殿の正面に向かって左へ行くと木の根元から水が湧いています。



<2014/05/08 白滝不動尊>

白滝不動尊、地味ながらいい場所でした。


5/17は空が澄んで富士山が見えたので写真をとりましたが
架線やら街路灯が邪魔になってせっかくの富士山も残念な写真に
電車は根岸線です。

<2014/05/17 本牧間門>
(5/20 一部修正、5/22タイトル変更)


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小田原

2013年05月19日 | 幕末写真
久しぶりにベアトの写真の撮影場所を探訪しました。場所は小田原。
以下の写真の撮影日はすべて2013/05/03です(もちろんベアトのものは除きます)。
5月3日の小田原は北條五代祭りで賑わっておりました。

ベアトの写真の著作権は切れているのでどこから借りてきてもいいのですが、
『F・ベアト幕末日本写真集』のものを使いました。

<ベアト撮影 (お断り:オリジナルのものに対して少しゆがんでます。一部切れてます。明暗が変わってます。)>

自分の目でこの撮影場所を探し出せるかやってみようかと思いましたが、
郷土文化館に立ち寄ると、この写真が大きく展示されていたので
結局、館の人に撮影場所についてたずねてしまいました。
丁寧に教えていただき、その場所に向かい、写真を撮りました。

<小田原市本町(欄干橋町から)国道1号から西方向 2013/05/03>

ベアト写真の左側の家並みの屋根の向こうに樹木が1本写っているのですが
これは光圓寺のイチョウで今もありますと教えていただいたので、ここにも行ってみました。

<光圓寺のイチョウ 右:2013/05/03>

<光圓寺 2013/05/03>

この写真について扱っている文献はないか探してみますと
ネット上では鮎川俊介さんの

鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」
2007.12月「小田原~箱根湯本」取材旅行・小田原城下 その4

に記述があっていくつか参考文献があがっています(参考文献の記載に感謝します)。
その中の一冊、『一枚の古い写真 小田原近代史の光と影』(小田原市立図書館)にあたってみますと
これは「一枚」どころか小田原の古い写真を集めた写真集でした。
(関東大震災後の写真など貴重な写真がたくさんのっています)
ベアトのこの写真も取り上げられていて

小田原宿-1
・・・欄干橋町から筋違橋方向の街並み(現在の本町の国道沿い)である。
右手「かめや」(亀屋清五郎)の手前が薬店ういろうにあたる。
街道正面に見える森は天神山と三光寺の樹叢。・・・
 p.20

と記されています。

天満宮の社叢林は昔にくらべ少しさびしいですが

<天満宮 2013/05/03>
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港区三田 

2010年05月03日 | 幕末写真
斎藤多喜夫著『幕末明治横浜写真館』(吉川弘文館、2004、p.77)に、
ベアトのある写真の撮影地点について次のような話が載っていました。
要約すると、

「薩摩屋敷」のタイトルの写真は、これまで高輪の薩摩藩島津家の下屋敷を写したものと考えられていたが、
この写真は三田の綱坂で写したもので、写っているのは「肥前島原藩松平家中屋敷」であることが判明した。
この綱坂の両側は現在、慶應大学、イタリア大使館と三井倶楽部である。
これを立証したのは、港区立港郷土資料館の松本健氏である。
(「フェリックス・ベアト撮影『高輪 薩摩屋敷』への疑問-幕末写真の撮影地点についての一考察-」
港区港郷土資料館『研究紀要』4号、1997)

ざっとこんな内容でした。

「薩摩屋敷」の写真の場所が今どうなっているのか、私も興味があり探してみたいと思っていたので、
東京がいつもより静かになる祝日をみはからって行ってみることにしました。
上記の研究紀要の発行年が1997年ですから、13年遅れの追いかけになりますが、
このブログは「週進年歩」の歩みなので遅くても平気です。
ということで4/29に三田の綱坂に行ってみました。

『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館発行)の「薩摩屋敷」(p.100)の次のページには
「113有馬屋敷」(p.101)という写真が載っています。
この撮影地点は、特定されているようです。
「有馬屋敷」の他に、説明文にある「秋月藩黒田家の上屋敷」「神明宮」を手がかりに「古地図」で見当をつけると、
この場所は綱坂のすぐ近くです。
ですのでこちらもあわせて探してみました。
その後、港区三田図書館で『研究紀要』4号を閲覧しました。
(後で知りましたが、切り絵図に描かれている幕末期の江戸のまちの各地点が現在はどこなのか調べるには、
書籍としては『復元江戸情報地図』(朝日新聞社,1994)が便利です)

●綱坂
綱坂の写真は、『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館発行)では写真番号112 (p.100)です。
ネット上では、長崎大学図書館のものが拡大できるので迫力があります。http://www.city.atsugi.kanagawa.jp/shiminbenri/shisei/atsugilibrary/archive/beato/p005925_d/img/002.jpg
(超高精細画像アイコンをクリックして拡大版を見てみますと最大1280×1024まで拡大できます。
さらに部分拡大機能が使えます。)
超高精細画面の解説には上記の研究経緯のことも書かれていました。
ここでは、厚木市のページのもの(500×398のサイズなので)と現在の写真とを対比してみます。
別窓で厚木市のページの画像を表示
守衛さんが同じような場所に立っていて面白いです。


<綱坂を見上げる。左側は三井倶楽部。2010/4/29>

●有馬屋敷
『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館発行)では写真番号113 (p.101)です。
こちらは、ネット上でまだ画像を見つけていません。
(一緒にならべて見ないと興味半減ですが)

<神明坂を下ったところ。左側は東京専売病院。2010/4/29>


●松本健氏の論考
ベアトが港区内で撮影した32点の写真のうち、「疑問の余地がないもの」を除いて、
4点について詳しい検討が行われています。
(「肥前公の屋敷」、「有馬様の屋敷」、「溜池」、「芝高輪の薩摩屋敷」)。
いずれも緻密に検証されていて、パズルを解くおもしろさに近いものがあります。
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焼餅坂  横浜市戸塚区

2008年10月20日 | 幕末写真

<焼餅坂を見上げる。横断歩道の位置が坂の底。2008年10月19日撮影。以下に記す『ベアト写真集』69.に対応>

<焼餅坂の途中、品濃一里塚方向を。横断歩道は上の写真と同じもの。『ベアト写真集』70.に対応>

『F・ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)p.69に「69.東海道の一風景。横浜-藤沢間」「70.東海道の一風景。横浜-藤沢間」という写真が載っています。70は69を逆方向から写したものとの説明がついています。

これらの写真はネット上では
・69に相当するものとして
「東海道分間延絵図を歩く」
http://kentaza.hp.infoseek.co.jp/YAKIMOCHI/YAKIMOCHIZAKA.HTM
(このページの中段中央部にある白黒写真)
「ELPH」
http://www.elph-studio.com/gengi/baku16.html
など

・70に相当するものとして
「厚木市」のページ
http://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/data/images/1165_0000004609_2.jpg
などでみられます。

 この写真70には特徴のある坂道が写っています。このため、『ベアト写真集』のそのほかの東海道の写真よりも場所が特定しやすいのではないかと密かに思っておりました。撮影場所も「横浜-藤沢間」と書かれていますので、ことによったら旧東海道を歩けば撮影場所がわかるかもしれない。しかし、「横浜市内の東海道が昔の写真のままに残っているはずもないだろうから、歩いただけではさすがにわからないだろう」と95%くらいは思っていました。ともかく考えてわかるものでなし、実際に行ってみるのが一番です。
 現地に行っても旧東海道の道筋がわからないと話になりませんので、それだけは事前に準備しないといけません。幸い、昔買った本に旧道を記したものがありましたし、坂の名前もチェックし準備終了。権太坂あたりが有力候補かな、など想像しつつ、相鉄線の天王町駅を出発点とし、藤沢を目指しました(結果としては戸塚までで切り上げました)。
 結論としては、現地を1日歩くことでこの写真がどこのものかがわかりました。答えは表題の「焼餅坂」です。ただし「歩いたからわかった」のではなく現地の案内版にベアトの写真が載っていたおかげでした。

<坂道のくねり具合に昔の感じが残っている>
 
 現地の案内板がなかったとしたら、自力でこのポイントを探し出せたかは微妙です。あるいは断言はできなくとも「有力候補」くらいの表現で取り上げることができたかもしれません。それはともかく、現地の案内版に記載があったということは、以前から、この写真の撮影場所はわかっていたわけですね。探せば言及している文献が必ずみつかるでしょう。写真69を参照した上記の「東海道分間延絵図を歩く」のページにも、ちゃんと記載されていました。

 満足して家に帰り、ネットで「焼餅坂」で検索してみると、マンション建設にともなって坂の片側(写真69でいうと左側)がけずられたことなどが出ています。
 マンション建設以前の焼餅坂の様子は、「東海道分間延絵図を歩く」ほか横浜国道事務所の「東海道ルネッサンス」
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/03_sisetu/14index.htm
などに写真がありました。


 地図については同じく「東海道ルネッサンス」に旧道のコース図があります。(この図では境木地蔵と品濃一里塚の間に焼餅坂があります)
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/01_aruku/0300.htm
また、「宿場マップ」というのを配布しているとのことです。http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/06_map/index.htm


旧東海道を歩くというのはとても人気のあるテーマですね。
ネット上に豊富に情報があります。
実際私も十分楽しめました。

最後にコースタイムを
相鉄線天王町駅 出発 10:40
焼餅坂     昼食休憩 12:30
JR戸塚駅   到着 14:35

<左:天王町駅前の帷子橋。右:品濃一里塚を過ぎて狭い道がつづく>

(2009.3.21 対比写真追加、文章手直し)
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厚木

2008年02月11日 | 幕末写真
 
<厚木中央公園から大山(本文とは関係ありません)>

ベアトの厚木の写真は3種あるそうです。どれもネット上で閲覧できます。
(厚木市のページのもの2枚)
http://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/data/images/1165_0000004608.jpg
http://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/data/images/1165_0000004608_1.jpg
(放送大学付属図書館 日本残像のページのもの1枚)
http://opac.u-air.ac.jp/koshashin/atsugi.html

この中では放送大学付属図書館のものが比較的大きな画像(1063×831)です。

 本厚木駅周辺はビル街ですので、幕末期の風景につながるような手掛かりが残っているとも思えません。しかし、本厚木駅周辺が昔の厚木宿の中心だったわけでもないでしょう。そもそも、厚木宿とはどのあたりだったのか。地名としては「元町」あたりが有力候補かなと思いつつ、厚木市郷土資料館にまず行って、「厚木村絵図」のようなものを探してみることにしました。

 ベアト写真の撮影ポイントは、資料館で手に取った数冊の本の中に書かれていて、ほとんど苦労することなくわかってしまいました。
『東町二番』(厚木市教育委員会 1994 pp.25-26)から引用してみます。

(引用開始)
 写真には中央に広い通りがあり、その通りの中央には掘割がある。資料2でも述べた「前堀」であろう。・・・
 さて、この写真は南北方向の道沿いに形成された厚木の町並みであることは解説シートの表題から明らかであるが、撮影方向が一つの問題となってきた。『厚木の商人』では北に向かって撮影したとしており、これが今までの定説のようになっていた。その論拠とするのは、太陽光線の方向であり、当時の写真技術では逆光となる南向き写真撮影は不可能であると解説している。しかしながら本書では次の二点から南に向かって撮影したものと考えたい。
 ① 掘割の水の波紋が写真奥手を向いており、このことから水は写真奥手方向(=南)に流れている。
 ② 「牛肉漬」の大きな看板に似ているものが「厚木六勝図」に描かれており、その位置関係からすると南方向である。
 写真解説シートには、「大きな川の右側にある」と書かれているが、南向きの写真とすれば、この解説文とも齟齬しないであろう。そして南向きの写真とした場合、奥の木の生い繁ったところが天王森(厚木神社)と思われ、・・・・
(引用終わり)

 
<左:厚木神社、右:厚木の渡し>     
 ここで言う「解説シート」とはベアトの写真集についている解説文のことで『F・ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館)に訳文が載っています。
 確かに、『第4回特別展 東街道と矢倉沢往還』(厚木市郷土資料館2001 p16)に載っている「厚木村絵図」には道の真ん中に水路が書かれています。どの道筋で撮ったものかはこれで確定してしまいます。
 水路の波紋の向きも、『東町二番』の記述は納得がいきます。
 太陽光線の点でも、写真に写っている影は、奥から手前に落ちているように見えます。(影が短いので昼に近い時刻に撮影されたのでしょう)
 ということで南向きというのも確定といっていいように思います。

 さらに撮影ポイントを絞りこめないでしょうか。
 写真に写っている看板の文字については『第9回特別展 商家と看板』(厚木市郷土資料館2007 pp.46-53)に細かい解読がなされています。
この中で、「薬種」の看板(http://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/data/images/1165_0000004608.jpgの写真)には、「薬種」の文字の左右に小さな文字が書かれていて、右に「一文字屋」左に「三郎兵衛」と書かれていることが示されています。この屋号「一文字屋」ですが、『東町二番』(p.57)に収録されている『百家明鑑』(明治33年)という資料には、「一文字屋」の住所が厚木町2522と書かれています。同書(p.23)の『住居表示新旧対照案内図』(昭和42年)でみると、2522番地は東町の北になります。この位置を下の地図で、黒の点で示しました。
ということで、「一文字屋」さんがベアトの写真撮影時点から明治33年までの間に移動していないとすると、ベアトの写真は現在の厚木市東町6あるいは9あたりから南方向を写したものと推測します。(上記の引用の②の位置とは少々合わないところがあります。もうすこし検討の余地があるかもしれません。)
  
           <東町8から南方向を望む。下の地図の矢印参照>


<厚木神社前の住居表示図を拝借します。昔の厚木町2522は■で示したあたりのようです>

 厚木の街の最古層とでもいうべき東町ですが、現在の様子は、昔からの商店街がさびれかけていて、ところどころできている商店跡に中・高層の建物が建ちつつあるといった印象でした。

 余談ですが、ベアト写真に写っている「牛漬」の看板のかわりに「とん漬」の看板を見つけました。厚木の名産だとは知りませんでした。ベアトの写真撮影地点と場所が近いので妙に気になり、お土産に買って帰りました。最後は「食い気」です。

<波多野商店さんの「とん漬」の看板>

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原町田2

2007年09月17日 | 幕末写真
ひとつ前の「原町田」の内容の補足です。

●図書館西隣のダイエーは現在百円ショップの「ダイソー」になっている。三橋宝永堂は現在「ブックオフ」のようだ。(下記参照)
「ダイソー」さんの前で、道路の左右から西方向を撮り直して見ました。
 

●案内板は「商工会議所」の建物の前にあります。

●『目でみる町田市の100年』(小島政孝監修 郷土出版pp.26-27)によると、
ベアトの写真2枚に対してそれぞれ次のようなキャプションと解説がついています。

27ページ(厚木市のページに掲載の写真http://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/data/images/1165_0000004614_2.jpgと同じもの)に対して、
(引用開始)
「金森側からの原町田遠景(江戸末期) 道路が広く見えるが市のたつときは前面に両側からせりだしてくるので道路は狭くなった。つきあたりの樹木は原町田の浄運寺で、ここで道はクランクに曲がっている。」
(引用終り)

26ページの写真に対して、
(引用開始)
「原町田の風景 イタリア人フェリックス・ベアトが慶応2年に撮影した。右手の木の柵は名主三橋八左衛門宅の前」
(引用終り)

 両写真とも確かに奥に木立が写っており行き止まりになっているような印象を受けますがこれは道が鍵曲がり(クランク)になっていたためでした。
 現在JTBの建物がある位置が鍵曲がりになっています。
               

●『町田市今昔写真長』(郷土出版p.1 2005年1月)にはもう一枚別のベアト撮影の原町田の写真がのっている。上記の2枚よりすこし西に進んだ位置で撮ったものである。(上記2枚の写真の一番奥の突き当たりに写っている小屋が比較的大きく写っている)
同書の解説によると次のとおり。
(引用開始)
「万延元年ロンドンで発見されたイタリア人写真家ベアト撮影のオリジナル写真。・・・奥の大樹は浄運寺の森である。旧宝永堂(現ブックオフ)の右隣から撮影され初秋の朝の風景と思われる」
(引用終り)

 浄運寺は「中央通り」側からだと見落としてしまいそうです。
 門を入り奥に進むと、「通りの喧騒がウソのようである」という陳腐な表現を本当に実感できます。ベアトの写真に写っているような樹林は見られません。境内で一番樹高の高そうなのはこのサクラの木でした。
 

●ベアトの写真と直接関係ありませんが町田市中央図書館5階から撮った勝楽寺と道路工事状況
 
<左:2006/11/05;右:2007/9/17>
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原町田

2007年09月17日 | 幕末写真
 ベアトの幕末写真の撮影位置さがしの話題です。
 

 ベアト撮影の原町田の写真は横浜開港資料館『F.ベアト幕末日本写真集』に2枚のっています。(同書では見開き2ページで左側ページが「24.原町田」、右ページに「25.左の写真の奥の方をアップで写したもの」というキャプションがついています)そのうちの一枚と基本的に同じもの(「24.原町田」に該当)を厚木市のページでみることができます。(URLは次のとおりhttp://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/data/images/1165_0000004614_2.jpg)

 『絹の道・原町田』(森山兼光著 発行武相新聞 昭和58年10月 p.16-17)には『F.ベアト幕末日本写真集』の「25.左の写真の奥の方をアップで写したもの」に該当する写真がのせてあります。同書によると、
「(現在のダイエー側から小田急線方向を望んだもの)左側の大きなケヤキのあたりが三橋宝永堂にあたる。道の中の棒杭は馬つなぎ、右手の木柵はおふれ書きを公示した高札場。」とあります。厚木市のページに載っている写真では棒杭も高札場もわかりにくいです。それから「大きなケヤキ」は道路左側画面の奥のものです。

 最新の状況は知りませんが少し前の地図でみるとダイエーは現在の中央図書館の北西側にあり、「三橋宝永堂」の住所は原町田4-4となっています。

 ということで、上の写真は昨年11月に、たまたまそのあたり(中央図書館の北側あたり:中央通り)で小田急線方向を撮った写真です。厚木市ページのベアト写真と同じ位置というわけではありません。まず道路の位置は昔のままだとした場合、撮影者の道路での立ち位置が違います(開港資料館の25とはまだしも近いです)。それにこのあたりはあまりに大きく変わっていますので、ベアト写真に写っているものはおそらくなにも探し出せないでしょう。それで現地観察だけからベアトの撮影位置を探すのはまず無理そうです。(わたしとしては家屋から家屋までの道路幅は当時と変わってないのではないかと思います。???)

 なお、上述の森山兼光さんの『絹の道・原町田』には原町田の昔の村落絵図(正確に読めているかどうかわかりませんが、「原町田村古代旧絵図之写 明和四丁亥四月改? 明治四十三年迠百四十三年成」と書かれている)が載っております。ここに高札場の位置が書かれているかと期待しましたが、わかりませんでした。
 この絵図は、中央通りにある案内板(銅板?)に複製されています。


 町田駅周辺で一番古いのは浄運寺から勝楽寺あたりまでの中央通りだということがわかりました。そこで次回は本町田をとりあげてみたくなりました。
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神奈川県愛甲郡清川村 宮ヶ瀬

2006年11月17日 | 幕末写真
 ダム建設により水没する前の中津川渓谷をビデオに撮っておこうと、1991年8月に、自転車で宮ヶ瀬に出かけました。
 下流の愛川大橋の方から、石小屋をとおって、宮ヶ瀬まで行く予定でしたが、ダム工事が既に始まっていて、石小屋の手前で通行止めになっていました。
 しかたがないので、津久井郡の「宮の前」の方から「虹の大橋」を渡って宮ヶ瀬(馬場、平沢)までいきました。
 映像として手元に残っているのは、愛川大橋の下から写した中津川(現在でも水没していません)と、「虹の大橋」から写した落合あたりの谷(水没)、立ち退きの終わった馬場の集落(水没)、宮ヶ瀬大橋(注1)から写した中津川(水没)です。
 先日このビデオ映像を見ていて、宮ヶ瀬大橋からの映像が、ベアトの写真の山並みと同じであることに気がつきました。(先日の鑓水の写真の撮影位置を探ってみようと考えたのも、これがきっかけでした。このブログを始めたことによる思わぬ副産物でした。)
 今回は、この宮ヶ瀬大橋からの画像を取り上げてみます。

ビデオ画1 宮ヶ瀬大橋にて(やまびこ大橋が写っている)


ビデオ画2 宮ヶ瀬大橋にて(中津川上流方向。右岸が写っている。)


ビデオ画3 宮ヶ瀬大橋にて(中津川上流方向。右岸が写っている。ビデオ画2の右側から続くものである。左から川弟川が流入している。)


ビデオ画4 宮ヶ瀬大橋にて(中津川上流方向)

今回も、ベアトの写真の撮影位置について、詮索してみます。
その前に、宮ヶ瀬付近の地図を、1)ダム関連工事がはじまる以前のもの、2)ビデオを撮りにいった当時のころのもの、3)ダム湛水以後のものの3つ、載せておきます。「虹の大橋」と「やまびこ大橋」の位置を赤い線で記しましたので、3者の大体の対応がつくと思います。今回取り上げる、宮ヶ瀬大橋は,赤い点で記しました。

地図1 5万分の1地形図「上野原」昭和51年修正 国土地理院


地図2 5万分の1地形図「上野原」平成元年修正 国土地理院


地図3 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社,2004年)より。縮尺は地図1,2とは異なる。

続いてベアトの写真を6葉紹介します。前回と同様開港資料館から転載許可をとって、『F.ベアト幕末日本写真集』(横浜開港資料館発行)からスキャンニングしたものです。

写真1 宮ヶ瀬の谷 (横浜開港資料館所蔵)


写真2 宮ヶ瀬の風景(横浜開港資料館所蔵)


写真3 宮ヶ瀬の風景(横浜開港資料館所蔵)


写真4 宮ヶ瀬の風景(横浜開港資料館所蔵)


写真5 宮ヶ瀬の風景(横浜開港資料館所蔵)


写真6 宮ヶ瀬の風景(横浜開港資料館所蔵)

橋が写っている写真2-6については、ビデオ画と比べてみるとわかるとおり、撮影地点は、宮ヶ瀬大橋のあたりです(ベアトの写真に写っている橋は宮ヶ瀬大橋のご先祖様ということになります。注1参照)。この橋は既存文献でも特定されています(注2)。写真2、4には、小さな支流が合流しているのが写っていて、これは「川弟川」であることから、中津川の上流は写真の右側がであると決定できます。ビデオ画4と比べてみると、写真3も上流方向を写したものであることがわかります。
 
 一方、写真1については、後藤和雄、松本逸也編『写真集甦る幕末』(朝日新聞社,1987年)には、橋から「下流を写したもの」とあり、『目でみる厚木・愛甲の百年』には、「現在の宮ヶ瀬大橋のやや下流でとったもの、「唐人川原」という名称は、当時この川原で外国人がよく遊んでいたことにちなんで名付けられたということである」と記されています。
この写真は、写真3と比べてみると、写っている樹木や山の形から、土橋の上か、あるいは土橋のすこし上流から、川の上流方向を写したものであることがわかります。(説明写真7参照)少なくとも下流方向を撮ったものではありませんでした。橋と川弟川の位置関係から考えると、ベアト当時の橋の位置と、ビデオ撮影時の宮ヶ瀬大橋の位置はそれほど変わっていないため、「現在の宮ヶ瀬大橋のやや下流でとった」という表現もやや不適切だといえます。

写真7 写真1と写真3の比較

ということで、細かく言いますと
写真1は土橋(宮ヶ瀬大橋の前身)の上の左岸寄りか、あるいは土橋のすこし上流の左岸にいて、川の上流方向を写したもの。
写真2は、橋を降りた左岸にいて、右岸を写したもの。中津川の流れは右から左。川弟川が合流している。
写真3は、橋の下流、右岸にいて、中津川の上流方向を写したもの。
写真4は、橋のやや下流、左岸にいて、右岸上流方向を写したもの。川弟川が合流している。
写真5は、写真3の右側の続きで、中津川の左岸が写っている。
写真6は、写真5の一部を左岸にいてクローズアップしたもの。
ということになります。


注1:ベアト当時の土橋は、「大正八年に木製吊り橋となり、昭和8年鉄組みに。昭和42年、永久橋となった」と、ふるさと宮ヶ瀬を語り継ぐ会編著『ふるさと宮ケ瀬』(1997年),p44に記載があります。
注2:『目でみる厚木・愛甲の百年』(郷土出版社,1991年)には、写真2と同じ写真に対して、「現在の宮が瀬大橋のやや上流を宮ヶ瀬側から撮影したものと思われる。手前を流れるのは中津川で、写真の右手で川弟川と合流している」と解説がある。前掲の『ふるさと宮ケ瀬』には「土橋の宮ヶ瀬大橋」とキャプションがついている。
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