失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

まいまいず井戸 羽村市

2007年06月25日 | 古井戸


 JR青梅線羽村駅から歩いて数分、五ノ神神社に隣接したところに、この「まいまいず」井戸があります。現地の案内板には、伝説ではこの井戸が掘られたのは大同年間(806-810)とされているが、板碑の出土状況などから鎌倉期のものではないかと書かれています。
 見たところずいぶん大きなもののように感じました。しかし、形状は、これも現地案内板の説明では地表部の直径が16m深さ4.3m底面の直径5mだそうです。「七曲井」の形状が現地案内板によると直径26m深さ11.5mとなっていましたので、そちらのほうがだいぶ大きいことになります。(七曲の井はあまり大きさを感じませんでした。なぜだろう)

 ここは底まで下りられるようになっています。下から見上げると、掘るのはやはり大変だなと実感します。
 自分ひとりでスコップで掘ったとしたらどのくらいの日数を要するのでしょうか。見当がつきませんが、この「すり鉢型」を円錐台とみなして上記の寸法をあてはめ容積を計算すると、約410m3となります。家庭用の浴槽を200-250リットルとすると約1600-2050杯分です。一日浴槽10-20杯分掘ったとして80-200日くらいでしょうか?。むかしはどんな道具を使ったのか知りませんが今の道具(もちろん建設機械は別としてですが)よりは困難だったことは確かでしょう。

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七曲井 狭山市

2007年06月18日 | 古井戸

<七曲の井>
 
 七曲の井の場所については、ひとつ前の「八軒家の井」の項で地図にポイントをおとしましたので参照してみてください。
 「七曲」というのは地名のことだろうと思っていたので、「まいまいず井戸」のことだろうと思っていました。現地の案内板の昔の写真(現在は井戸の補修工事をおこなったため、昔と形状が変わっている旨が書かれています)を見ると、地上部から、井口(こういう呼び方でいいのかわかりませんが)へおりる道のつけ方がジグザグで、この点がまいまいずとは違うということで納得しました。まいまいずは、道がぐるっとらせん状、七曲はジグザグ(七つに折れている道)であることからついた名前でした。
 ただどちらも、すり鉢型の井戸という点では同じです。

<七曲の井に隣接してあるお堂>

 これも「八軒家の井」の項で引いた、『狭山市遺跡分布調査報告第2集』には、この井戸が掘りたてられた時期は平安時代にさかのぼる可能性が高いこと、この時代には、このあたりに集落がない(この時代の集落跡が付近で見つかっていない)ので、この井戸は街道沿いの水補給所のような役割だったといったことが書いてあります。(後日正確に引用します)

<不老川 左:上流方向;右:下流方向>

 七曲の井は不老川(ふろうがわ、としとらずがわ)のすぐ横にあるのですが、吉川國男「七曲井の発掘とその後」『多摩のあゆみ 第111号』p.40(たましん地域文化財団)(平成15年8月)によると「不老川は、七曲井と接しているものの、その水は七曲井には涵養していない。」とのことです。

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八軒家の井  狭山市

2007年06月09日 | 古井戸


<『狭山市史編さん調査報告書13狭山市遺跡分布調査報告書第2集』の地図で見て、井戸跡に該当しそうなものはこれしかわからなかった>

 堀兼の井とされている井戸跡はいくつかあるという話を前に引用しましたが、「堀兼神社境内のもの」と、入曽駅近くの「七曲の井」がよく知られています。今回のタイトルの「八軒家の井」は、案内板もなく(正確なことは知りませんが、あるいは私有地にあるからなのでしょうか)、形状も埋まってわからなくなっていて、このままいくと消えてしまいそうに思える状態でした。

 伊佐九三四郎著『武蔵野歴史散歩Ⅰ 多摩編 埼玉編』(有峰書店新社)には、堀兼神社の近くにもうひとつ井戸があることが書かれています。
(引用開始)
 さきほどからキャッチボールをしている子供たちに、この近くにもうひとつ古い井戸はないか、とたずねてみた。
・・・
古井戸は所沢へむかって千メートルほどいった雑木林の中にあった。かつて農家が共同で使っていたものだが、いまは荒れはてて、すっかり底が浅くなってしまっている。子供たちは、二、三年まえにはもっと深くて水がたまっていたんだが・・・・・・と、さもすまなそうにいってくれた。     pp.231-232
(引用終り)

「二、三年まえにはもっと深くて水がたまっていたんだが」という時期ですが、この本の初版は昭和58年(1983年)です。雑誌に掲載されたものを選んだものとのことですので、昭和50年代前半(1975-80年)あるいはそれ以前ということになります。
 また、同書には簡単な地図がついているのですが、1万分の1くらいの詳しい地図にポイントをおとしたものでないと地点を探し出すのは難しいと思われます。
 狭山市立博物館に、狭山の文化財位置の展示があって、それにも、この井戸がありました。私はそれを見て、記憶だけにたよって、変電所周辺(下の地図参照)を探してみましたが結局わかりませんでした。
 
 地図 杉本智彦『カシミール3D図解実例集初級編』(実業の日本社)からコピーし加工した。

 三芳町立歴史民俗資料館の図書室で、『狭山市史編さん調査報告書13狭山市遺跡分布調査報告書第2集』をみたところ、大縮尺の地図があったので、これをコピーさせてもらい、それを頼りにやっと見つけることができました。

<井戸跡はこの道沿いにあった>

『狭山市史編さん調査報告書13狭山市遺跡分布調査報告書第2集』によると
(引用開始)
65八軒家(はちけんや)の井(県番号22076)
所在地 狭山市大字堀兼2332番地ほか
遺物・遺構  遺物
        今回の調査では採集できず。
       遺構
        井戸跡 長径16.5m・短径14.5m・深さ3m
遺跡の性格  遺物が発見されなかったので時代は不詳である。七曲井、堀兼之井とともに鎌倉街道に沿った地点にあり、性格も同様のものと思われる。 
p.22
(引用終り)

 遺跡の性格について、同書の堀兼之井の項を見てみますと、
(引用開始)
64堀兼之井(ほりかねのい)(県番号22047)
所在地 狭山市大字堀兼2221番地
遺跡の性格 埼玉県指定旧跡である。七曲井同様、武蔵野台地のところどころに散在していたと思われる「ほりかねの井」の一つであるとも考えられており、それが事実であれば、本井の掘立ての時期は平安時代までさかのぼる可能性がある。・・・本井の性格は、もしこれが平安時代までさかのぼるとすれば、この付近には奈良・平安時代の集落がないことと、堀兼の集落は江戸時代の新田開発によって誕生したこと、鎌倉街道(堀兼道)沿いにあることなどから、七曲井と同様に、道をとおる人々のためにあったものだと想像される。なお、ここから南方350mには、本井より規模が大きく、同様の性格をもつと思われる八軒家の井がある。 
pp.21-22
(引用終り)


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小手指ヶ原

2007年06月02日 | 武蔵野

<所沢市 北野新田>


 国木田独歩の『武蔵野』の冒頭の文のつづきに、「自分は武蔵野の跡の纔に残ている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思て・・・」とあります。
 この古戦場とは、小手指(こてさし)と久米川を指しているのですが、昔の萱はらの武蔵野の跡は、現在の小手指周辺にも、もちろんもうないです。
 国道463号バイパスの「誓詞橋」交差点の南の方に、古戦場跡の碑があって、白旗塚があります。
 
<左:白旗塚。右上:白旗塚遠景。右下:小手指ヶ原古戦場の碑>
 
<白旗塚の下から>

 このあたり、緩い起伏はありますが、比較的平坦で、地形的にはいかにも原という感じがします。白旗塚周辺は、茶畑、桑畑、麦、サトイモ、その他さまざまな畑と雑木林の風景が残っています。

<お茶に桑。北野総合運動場の北。もうすこし広範囲をお見せできないのが残念>

<桐の林がいくつかあった。5月はじめの花の時期に来たらさぞきれいであろう>

<所沢西高校の前の道から、西方向>

<所沢西高校>

 今回の撮影場所は、この下の小手指陸橋(という正式名かどうかは知りません)からの1枚以外は、「小手指町」ではなく、「北野」あるいは「北野新町」です。白旗塚も「北野」です。昔は、このあたり、一帯が「小手指ヶ原」だったようです。
そのあたりの話は、江戸名所図会と、新編武蔵風土記稿の「小手差原」「小手差原古戦場」の説明を引用してみます。

●『江戸名所図会』 天保五・七年(1834・36)
市古夏生 鈴木健一校訂『新訂 江戸名所図会4』筑摩書房 p.348
(引用開始)
小手差原 北野神社より西北の方十三、四町を隔てて、河越・入間川の辺りすべて小手指原と号せり(・・・新井白石先生云く、「小手差原は北野物部天神の社より西北の方六、七里四方の地をいふと。いまは墾田となりて、わずかに七百余石の地となれるといふ」云々)。
(引用おわり)

『図会』には、北野天神の挿絵がありますがまた次の機会に。

●『新編 武蔵風土記稿』 天保元年(1830年)
蘆田伊人校訂・根本誠二補訂『新編 武蔵風土記稿 第八巻』雄山閣 p.152
(引用開始)
小手差(コテサシ)原古戦場 小手差原は武蔵野の内なり、郡中北野村に今小手差明神の社あり、それより近き所誓詞が橋の邊より乾の方に向ひ、入間川村のあたりまで凡そ二里程の間を指て、かの舊跡なりといへり、其接地の陸田は古すべて茫々たる曠野にて、府中のあたりまでつづきたれば其界域今を以ってさだかに辧すべからず、抑小手差と云地名は、ここのみにも限らで、他國にもあり
(引用おわり)


「茫々たる曠野にて、府中のあたりまでつづきたれば」というのが今では想像もつきません。西武池袋線の「小手指駅」と京王線の「府中駅」は直線で結んでざっと15kmくらいあります。

 
<左:小手指駅西の跨線橋から。うすくてわかりにくいかもしれませんが、線路の延長上やや左の山は武甲山のようです。右:国道463号バイパス小手指ヶ原の交差点。小手指ヶ原もとうとう、十数m四方のこんな狭い範囲に限定されてしまった?>
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