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失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

藤沢市 大庭・城南

2009年03月20日 | 隠れ里
隠れ里を訪ねる3回目は藤沢市大庭。

柳田國男「山島民譚集(三)」に
「隠れ里という地名は探してみればほかにも多くあるようである。その二三を例示すれば・・・」
として、「相模高坐郡藤沢町大字稲荷字隠里」の名があがっています(『柳田國男全集5』ちくま文庫 pp.432-433)。

藤沢市の図書館で地名関連の本を探してみますと、
日本地名研究所編『藤沢の地名』(藤沢市 平成2年第2版)に次のようにでています。

(引用開始)
隠里は大庭景親以来、江戸時代の初期まで大庭の領主が住んでいた大庭館があったところといわれています。ここは入り口が狭い袋状の谷戸になっており、前の道からは見えないようになっています。(中略)このあたりの集落は城(たて)と呼ばれていましたが、現在ではの南側一帯は住居表示によって城南(じょうなん)となり、城(たて)、すなわち館(たて)の意味が失われました。pp.153-154
(引用終わり)

同書(p.163)には、大庭地域の小字境界を示した地図が載っているので「隠里」がどこだったかわかりました。
ここまでわかれば、あとは現地に行くのみ。

小田急線の藤沢本町駅を降りて西に向かい


引地橋を渡って引地川を上流にたどるとやがて右岸に水田風景が現れて来ます。
 
<左:引地橋から上流側を。右:川の右岸に水田が見えてくる。>

この水田の西側の丘の中が字「隠里」だったところです。
そのほとんどが現在はゴルフ場の中です。
『藤沢の地名』にあるように、もともと道からは谷戸が見えなかったということですが、ゴルフ場開発以前の地形図も見てみたいです。
 
<田んぼのむこうの丘が、字「隠里」だった。今はゴルフ場の中。左側のコンクリート擁壁のようなものは城南隧道>

まず「隠里」の南側(城南2丁目)に行ってみましょう。
 

小さな道があり、その先に秘境めいた場所が現れることを一瞬期待してしまいました。もちろんふつうの住宅地です。
 

隠里という名は日本料理屋さんの名前に残るのみ。
 

次に隠里の北側に回って幡龍山宗賢院に行ってみました。ここも谷地形になっています。奥にはゴルフ場の芝生が見える。
 

隠里探訪はここまでですが、
少し物足りなさを感じたので大庭城址公園に足をのばしてみました。
 
<左:引地川の大庭遊水池から大庭城址公園を望む。右:大庭城址公園南入口>

帰りは、城址公園で見た「文化財ハイキングコース案内板」のコース(藤沢市観光ホームページ>文化財ハイキング>大庭城址コース参照)を参考に台谷公民館あたりに行ってみることにしました。
 台谷公民館には双体道祖神と庚申塔がありましたが、あたりは、ずいぶん開発が進んだ場所だという印象を受けたため、あっさり引き返してしまいました。
 
<右:台谷公民館にある双体道祖神(右)と庚申塔(左)>
帰宅してからじっくりと地図をみてみると公民館の近くに何本か細い道があり、その先にコースに出ていた熊野神社(旧大庭神社)や谷戸稲荷の森があったのでした。もっと深入りしてみるべきでした。後日を期します。


以上、今回はすこし不満足な隠れ里探訪でした。
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隠れ里 2回目

2009年03月01日 | 隠れ里
 隠れ里伝説の場所を訪ねる2回目は、印旛郡和田村大字下勝田から直弥(現佐倉市下勝田、直弥)のあたりです。

<写真のほぼ中央部が伝説の場所>


 さっそく柳田國男の「隠れ里」から引用します。

(引用開始)
また同じ郡(引用者注:印旛郡を指す)の和田村大字下勝田から同直弥へ行く路の田圃に面した崖の中腹にも、隠れ里と称して道具を村民に貸した窟がある。昔はこの穴の中で夜ふけには米を搗く音がしたという。明治三十四五年の頃の土木工事の時、この付近から錆びた刀剣とニ三の什器と二人分の骸骨とが出た。将門乱の時の落武者だということに決したそうである。  ちくま文庫『柳田國男全集 6』pp.391-392
(引用終わり)


 地図で探すと、下勝田へはJR南酒々井駅が一番近いので、当初ここから歩いてみる計画で家を出ました。
 
<左:JR総武本線 南酒々井駅 右:メタンガス発生のため火気厳禁の看板>

 しかし、もう少し詳しい情報を手に入れたほうがいいのではと電車の車中で考え直し、JR佐倉駅で下車して市立図書館に寄ってみることにしました。図書館へは以前行ったことがあり、駅からの路はだいたい覚えていたのですが、念のため確認しておこう駅前の観光案内所に向かうと、自転車が目にとまりました。出発前にインターネットでレンタサイクルの情報サイトを2、3見てみたのですが、そこには佐倉市内の情報が載っていなかったため、思いがけずレンタサイクル(9:00-16:00 500円)を発見して行動範囲が一気に拡大しうれしい気分です。

 図書館で『佐倉市史 民俗編』(昭和62年)をみると、第八章 口承文芸 第一説 伝説 の中に「隠れ里」という項目があるものの(p.741)、場所については、柳田國男の文章と比べてみて、「南向きの崖」という以上にさらに詳しいことは載っていません。ただ、隣の八木の集落までつながる地下道があるという話も伝わっていたということがわかりました。
 また、佐倉市六崎に「たんたん山」といわれるところがありここにも椀貸し伝説があったとも書いてあります。
『根郷風土記』(佐倉市根郷公民館、昭和56年)にタンタン山の場所を示した地図が付いていました。
 『佐倉市史 民俗編』の記述は、ほぼ同じものが佐倉市キッズページに出ています。http://www.city.sakura.lg.jp/kids/sirabe/old_story/old_story_index.htm

 そこで、『根郷風土記』の地図をたよりに、予定になかった「たんたん山」を探してみました。六崎のあたりを行ったり来たりし、おしいところまでいったようですが結局はわかりませんでした。地元の人に聞いたところ、たぶんあの塚のことではないかということで教えられたのが、下の左の写真です。
 
<左:この塚をたんたん山と言ったのではと教えてもらったが確証はない。
 右:それほど遠くない別の場所の墓地の中にも塚があり上に石仏が置かれている>
 
<周辺を探したが結局わからず>

 あきらめて六崎から本来の目的の下勝田に向かって、高崎、天辺を通って直弥に出ました。

<天辺のあたり>

 直弥から下勝田まで(JR線の下をくぐるトンネルあたりまで)の南向き斜面を注意深く見ながら自転車で走りましたが、残念ながらこちらも見つけることはできませんでした。この日はあきらめて、帰り道は「八木」を通ることにします。

<左:JR線下のトンネルの西側が下勝田-直弥の路。右:八木のあたり>
 
 すると途中、「和田ふるさと館」があって、歴史民俗資料室http://www.city.sakura.lg.jp/wadafuru/siryousitu/index.htmの文字が目に止まったので寄ってみました。展示には隠れ里伝説が取り上げられており、だいたいの場所もわかりました。展示をゆっくり見る時間がなかったので、『和田の伝承』という冊子を購入したところ、ふるさと館の人が隠れ里伝説の穴の場所を教えてくれました。 伝説の場所は「下勝田西横穴墓群」という古墳時代後期の横穴墓だそうです。『和田の伝承』には、「下勝田西横穴墓」内部の写真が載っています。
 この日は、時間切れで、「下勝田西横穴墓群」まで引き返して見る余裕がなかったので、翌週もう一度来てみることにしました。
 
<右:翌週ようやく「下勝田西横穴墓群」にたどりつく。説明板は特になく、穴はシダに隠されてよく見えません。左:同所を西側から>
 
 以上で下勝田の隠れ里伝説の探訪は終わりです。しかし、このあたり谷地田の風景が広がっていて、1日やそこらで探訪を終わりにしてしまうには惜しい場所です。どこまでもたんぼ道をたどってみたい気分です。
 
<直弥の浅間神社のあたり>
 そこで、この写真の先の谷津田の一つを、丘にあがって回り込む形で谷頭までたどってみましたのでこれは次回に紹介してみます。
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岩屋古墳の椀貸伝説

2009年02月21日 | 隠れ里

<JR成田線 下総松崎駅>


財宝をもって充満したる底つ国の仙境と足らぬ勝ちなる人間の世界とは、何でも塚または窟の口をもって通路としていたに相違ない。
(柳田國男『柳田國男全集 5』「山島民譚集」ちくま文庫p.409)
 
<左:上福田岩屋古墳、左:岩屋古墳。この写真ではわかりませんが、下の引用文にあるようにこの岩には貝殻がたくさんはさまっています。>

 
 柳田國男の著作を手がかりに、隠れ里探訪に出かけてみましょう。
 ちくま文庫『柳田國男全集 6』に納められている「一つ目小僧その他」に「隠れ里」という文章があり、全国の「椀貸伝説」を集めて論じています。
ここには南関東の地名がいくつか登場しますが、まずは見つけやすそうに思えた次の場所に行ってみました。

(引用開始)ちくま文庫『柳田國男全集 6』 pp. 390-391
千葉県印旛沼周囲の丘陵地方は、昔時右のようの食器貸借が最も盛んに行われたらしい注意すべき場所である。なかんずく印旛郡八生村大竹から豊住村南羽鳥へ行く山中の岩穴は、入り口に高さ一丈ばかりの石の扉あり、穴の中は畳七八畳の広さに蠣殻まじりの石をもって積み上げてある。里老の物語に曰く、往古この中に盗人の主住みて、村方にて客ある時窟に至りて何人前の膳椀を貸して下されと申し込むときは、望み通りの品を窟の内より人が出して貸したということである。大竹の隣村福田村にはこれから借りたという朱椀が一通り残っている由云々。・・・
・・・
・・・高田与清の『相馬日記』もこの時代にできた紀行であるが、下総印旛郡松崎村の付近に三つの大洞穴があって、その中に隠れ座頭と称する妖怪の住んでいたという噂を載せている。しかるにその松崎は前にいう八生村の大字であるのみならず、洞の外に名木の大松樹があるという点まで似ているから、疑いもなく今日の土地の者が、盗人が椀を貸したという穴と同じであって、また、他の一二の書にはこの穴の名を隠れ里と唱えているをみれば、隠れ座頭という新種の化物は、その隠れ里の誤伝であったことが容易に知り得られる。

(引用終わり)
(『成田市史 原始古代編』によると、『相馬日記』は、文化十四年(1816年)だそうです。)

 ここに出てくる地名、大竹、南羽鳥、松崎、福田(上福田、下福田)はいずれも現在は成田市内です。
 岩穴というのは印旛郡栄町にある岩屋古墳のことでした。

<岩屋古墳>

 三つの大洞穴とは、「成田・栄・房総のむらミュージアムタウンマップ⑦龍角寺伝説マップ」によると、三ヶの岩屋といわれている、みそ岩屋古墳、岩屋古墳(上述)、上福田岩屋古墳が該当するようです。いずれも方墳です。
 このうち最大の方墳は「岩屋古墳」で、「成田・栄・房総のむらミュージアムタウンマップ③龍角寺・房総のむら-古代マップ-」によると、その規模は一辺約79m高さ13mで、築造時期は7世紀前半だそうです。飛鳥の石舞台古墳の墳丘が一辺50m(『蘇我氏三代』飛鳥資料館、1995年、p.58)ということですから、けっこう大きな方墳です。

 柳田國男は、「阿州(引用者注:阿波の国)の古い学者の中には、古墳の副葬品のいろいろの土器を、質朴なる昔の村民が借りてきて時々使ったところから、こういう話が始まったのではないかという人もあって、これはちょっともっともらしく聞こえる一説である。」が「膳椀を貸したという場所が必ずしも古墳ばかりではない」(『柳田國男全集 6』p.374)と指摘しています。
とはいえ、この岩屋古墳の場合は、伝説の舞台は古墳でした。


 このあたりは、房総風土記の丘として整備されていて、房総のむら、龍角寺などとあわせて、歴史散策、自然観察にもいい場所です。
 風土記の丘資料館では上記のものを含めてマップが入手できるので周辺の散策に便利です。
 
<左:風土記の丘資料館の横から龍角寺に至る白鳳道、右:龍角寺>

 
<風土記の丘 旧御子神家住宅付近>
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