失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

30年経過 (番外編 「私を彼岸へ連れてって」)

2014年11月09日 | Weblog

<果てまで行ってもあっち岸がある 1989年10月22日撮影>

 私が今メインに乗っている自転車は1984年の夏に購入したものなので、今年で30年が経過した。
ツーリング用に買ったものである。ツーリング用の自転車は日本ではとうの昔に流行遅れになっている。
あちこちの部品が故障・破損・摩滅して使えなくなるたびに新しいものと交換しているが、
部品の入手がだんだん困難になっていると実感している。
どなたかが、「自転車部品は互換性が高いなんて嘘だ」と、どこかで書かれていた。私もまったく共感する。
たかが数十年の自社製品の継続性すら保証してくれない営利企業なんて、
今がどんなに羽振りがよくても本当ははかないものだな。
私はできれば死ぬまでこの自転車に乗りたいと思っているが、
部品供給という思わぬ問題のため、これは実現できなくなるかもしれない。

 私は同じ自転車に乗り続けたいと思っていると言ったが、
30年経過するうちにはあちこちの部品を交換しており、厳密には購入当初と同じ自転車に乗っているわけではない。
いったいどこまで部品が変わってしまうと同じ自転車とは言えなくなるのか。
同じフレームを使っている限り同じ自転車と言ってよさそうだが、そのような境界は有りそうで無さそうである。
 この「同じものなのか違うものなのか」問題は実は大昔から議論されていた。
ちゃんと書かれたものが残っているので是非引用しておきたい。

『プルターク英雄伝(1)』河野与一訳 岩波文庫 p.39
(改行は引用者が勝手に行った)

テーセウスが若者達と一緒に乗って航海し無事に帰って来た船、三十挺艪の船は、
ファレーロンの人デーメートリオスの頃まで、アテーナイの人々が保存していた。
但し古い木材を取り去り別の丈夫なのをあてがって元の通り組み立てて行ったので、
この船は哲学者の間で増加の議論のどっちとも取れる例になった。
卽ち或る人は船がいつまでも同じままでゐると云ひ或る人は同じままではゐないと云った。

  


 2000年に小室直樹著『日本人のための宗教原論』(徳間書店)という本を読んだ。
これによって、私は仏教の空観(「色即是空」の空)に俄然興味を持った。
なかでも「なるほど」と思えた箇所は

ひきよせて むすべば柴の庵にて、とくればもとの野はらなりけり

という歌と、『ミリンダ王の問い』の一節にある「車の譬え」が紹介解説されているところだった。
「車の譬え」とは、私というものは実体がないということを車に譬えて説明するもので、
つまり、車とは、轅(ながえ)でもなく、軸でもなく、車輪でもなく、車体でもなく、それらを合わせたものでもなく、
それら以外にあるのでもない。車というものはどこを探してもみつからないのだと説くのだという。

 「車の譬え」と「テーセウスの船」と共通点があるように思える。
テーセウスの船はいつまでも同じままだとしたら、それは船を構成する材料とは関係なく存在しているはずである。
そうだとすると材料がそっくり入れ替わって元の材料が一つもなくなっても、
なおテーセウスの船で有り続けているものはどこにあるのだろうか。
「霊」と「肉体」のように船も分かれるのだろうか。まるで「機械の中の幽霊」の登場だ。
修理を重ねて構成材がすっかり入れ替わったこのテーセウスの船とは別に、同じデザインの船をもう一つ新しく造ったら、
それはテーセウスの船の複製であって、元の船ではないと見なされるだろう。
両者に:違いはないはずなのに。いや違いはある。両者には当然履歴に差がある。
由緒といった言葉で表されるようなものかもしれない。
一方、テーセウスの船がいつまでも同じでないとしたら、
それは時間の経過とともに違うテーセウスの船がつぎつぎと現れ、古いテーセウスの船は次々に消えていくことになる。
存在するのは時刻1のテーセウスの船、時刻2でもテーセウスの船、時刻3の・・・。
これではテーセウスの船として指し示せる実体は無いといったほうがましだ。

 福岡伸一『動的平衡』の記述は生命化学の立場からこれを的確に表現しているように思う。

『動的平衡』福岡伸一 木楽舎 2009年初版 2013年第13刷 p.231
(改行は引用者が勝手に行った)

個体は感覚としては外界と隔てられた実態として存在するように思える。
しかしミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかないのである。
・・・
 だから私たちの身体は分子的な実体としては数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。
分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。
 つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜ける」という表現も正確ではない。
なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ物があったわけではなく、
ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。


生まれたときの私と今の私とでは部品はすっかり入れ替わっている。
今日の私と昨日の私は記憶でつながっているだけだ。だから本当は違うものを同じ私だと思っているだけかもしれない。
昨日の私とおとといの私、おとといの私とその前の日の私というように順繰りたどって、
生まれたときから私はずっと同じ私だと思っている。
生まれた時の記憶など何も思い出せないのに。

 毎時毎秒毎刹那ごとに変化しているにもかかわらずしばし同一性を保っているように見えるもの、
『方丈記』の冒頭「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず」、
私とはそのようなものであった。


「空」がすこし見えてきたのならありガテー。

<ボロ自転車に積むのは彼岸に渡る智慧 2014年撮影>
コメント
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