失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

本町田

2007年09月24日 | Weblog

<本町田の養運寺前の道>

 「原町田」、「本町田」というからには「原町田」は「本町田」から分村したのだろうと想像がつきます。念のため『町田市史 上巻』を見てみますと次のような記述があります。

(引用開始)
 原町田村 原町田村は点天正年間前後に本町田の秣場相の原を開発して分村独立した。・・・この分村のとき、本町田の六斎市のうち三市を原町田村において開くことになったという。この市は、当村中央を走る神奈川道の両側に開かれたもので、のち、養蚕業がさかんになると本町田市をおさえてニ六市(にろくのいち)に発展した。p.767
(引用終り)

 原町田と本町田のにぎやかさが逆転したのはいつごろでしょうか。原町田が現在のような繁華街になっているのは横浜線と小田急線が通っているからだということには誰でも納得するでしょう。しかし、横浜線の性格ともあわせて考えると、市史にもあるとおり、養蚕が原町田のその後の運命を決めたとも言えそうです。
 一方「本町田」はいつごろ成立し、どういう性格の村だったのでしょうか。『町田市史 上巻』をもう一度見ますと 

(引用開始)
本町田村 ・・・小字に一色・今井・向村・宿・芝生・合ノ原などがあるが、中央の宿に高札場があり、この宿から西の方今井にかけてが古い集落で、中世以来の古村といわれる。p.775
(引用終り)

 さらに『町田の歴史をさぐる』(町田の歴史をさぐる編集員会著、町田市発行、昭和55年第三刷)にはこうあります。(同書p236に小さいものですが昭和40年頃の本町田の写真が一葉のっていました。)

(引用開始)
市域の鎌倉道  町田の市域には鎌倉幕府が開かれる以前から、鶴間の町谷(まちや)付近より小野路を通って、武蔵国府のおかれていた府中へいたる道が開かれていました。この道が幕府の成立によって鎌倉まで延長され、鎌倉道となりました。市域を通って鎌倉と府中を結ぶこの鎌倉道は鎌倉時代を通じて武蔵路とよばれ、府中からさらに北武蔵や上州(群馬)・信州(長野)方面にのびる街道としてさかんに利用されました。
鎌倉から境川左岸を北上してくる武蔵路は、飯田(横浜市戸塚区)をへて、横浜市瀬谷区と町田市鶴間の境を越えて鶴間の大ヶ谷戸に入ります。道はこれから本町田へ向かいますが、その道筋は二本あり、どちらも鎌倉道と言い伝えられてきました。
二本の道筋のうち一本は、境川沿いに町谷-金森-原町田と北上して本町田へいたる道で、現在は市役所の横から都立町田高校の前を通って菅原神社前に出ていますが、古道は町田第一小学校・町田第一中学を横切り、市営球場の西側を通って本町田にいたる道筋でした。もう一本は、大ヶ谷戸集落の東寄りを北進して小川-成瀬-高ヶ坂(こうがさか)-南大谷と大きく弧をえがいて本町田にいたる道筋でした。
両道は本町田の養運寺付近で合流し、宏善寺の横を通って今井谷戸に通じていました。なお養運寺の下のあたりは宿(しゅく)という小字ですので、この付近は武蔵道の宿駅としてさかえたものと思われます。pp.43-44
(引用終り)

 
<このあたりから、宏善寺あたりまで、古さを感じさせる道が通っている。左:恩田川の下流方向 右:同下上方向>
  
<養運寺の前の道を南東に下る。左:恩田川の下流方向 右:同上流方向>
 
<養運寺>
 
<宏善寺> 

 「本町田」は古代-中世の宿駅、宿場だったわけですね。
 ちなみに、古代の街道のコース選定にあたっては水場が重要であったことを柳田國男が指摘しています。(そのへんの事情は国分寺の恋ヶ窪などと似ているように思います)
「・・・後世の茶店掛茶屋に該当する清水の分布である。これが思いのほか有力に古代の路線選定を左右しておったのである。」「武蔵野の昔」『柳田國男全集2』(ちくま文庫、p.435)
 本町田は恩田川の支流がこのあたりで集まって、谷の幅がすこし大きくなったところです。今井谷戸は恩田川の谷戸のどんづまりで、このあたりから登りの勾配が増してきます。ここから北に向って峠を越えると薬師池公園があります。
 

 
<今井谷戸交差点>

 
<恩田川左岸の丘陵に上がると本町田遺跡がある>
 
<左:縄文期の住居跡 右:弥生期の復元住居>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原町田2

2007年09月17日 | 幕末写真
ひとつ前の「原町田」の内容の補足です。

●図書館西隣のダイエーは現在百円ショップの「ダイソー」になっている。三橋宝永堂は現在「ブックオフ」のようだ。(下記参照)
「ダイソー」さんの前で、道路の左右から西方向を撮り直して見ました。
 

●案内板は「商工会議所」の建物の前にあります。

●『目でみる町田市の100年』(小島政孝監修 郷土出版pp.26-27)によると、
ベアトの写真2枚に対してそれぞれ次のようなキャプションと解説がついています。

27ページ(厚木市のページに掲載の写真http://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/data/images/1165_0000004614_2.jpgと同じもの)に対して、
(引用開始)
「金森側からの原町田遠景(江戸末期) 道路が広く見えるが市のたつときは前面に両側からせりだしてくるので道路は狭くなった。つきあたりの樹木は原町田の浄運寺で、ここで道はクランクに曲がっている。」
(引用終り)

26ページの写真に対して、
(引用開始)
「原町田の風景 イタリア人フェリックス・ベアトが慶応2年に撮影した。右手の木の柵は名主三橋八左衛門宅の前」
(引用終り)

 両写真とも確かに奥に木立が写っており行き止まりになっているような印象を受けますがこれは道が鍵曲がり(クランク)になっていたためでした。
 現在JTBの建物がある位置が鍵曲がりになっています。
               

●『町田市今昔写真長』(郷土出版p.1 2005年1月)にはもう一枚別のベアト撮影の原町田の写真がのっている。上記の2枚よりすこし西に進んだ位置で撮ったものである。(上記2枚の写真の一番奥の突き当たりに写っている小屋が比較的大きく写っている)
同書の解説によると次のとおり。
(引用開始)
「万延元年ロンドンで発見されたイタリア人写真家ベアト撮影のオリジナル写真。・・・奥の大樹は浄運寺の森である。旧宝永堂(現ブックオフ)の右隣から撮影され初秋の朝の風景と思われる」
(引用終り)

 浄運寺は「中央通り」側からだと見落としてしまいそうです。
 門を入り奥に進むと、「通りの喧騒がウソのようである」という陳腐な表現を本当に実感できます。ベアトの写真に写っているような樹林は見られません。境内で一番樹高の高そうなのはこのサクラの木でした。
 

●ベアトの写真と直接関係ありませんが町田市中央図書館5階から撮った勝楽寺と道路工事状況
 
<左:2006/11/05;右:2007/9/17>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原町田

2007年09月17日 | 幕末写真
 ベアトの幕末写真の撮影位置さがしの話題です。
 

 ベアト撮影の原町田の写真は横浜開港資料館『F.ベアト幕末日本写真集』に2枚のっています。(同書では見開き2ページで左側ページが「24.原町田」、右ページに「25.左の写真の奥の方をアップで写したもの」というキャプションがついています)そのうちの一枚と基本的に同じもの(「24.原町田」に該当)を厚木市のページでみることができます。(URLは次のとおりhttp://www2.city.atsugi.kanagawa.jp/data/images/1165_0000004614_2.jpg)

 『絹の道・原町田』(森山兼光著 発行武相新聞 昭和58年10月 p.16-17)には『F.ベアト幕末日本写真集』の「25.左の写真の奥の方をアップで写したもの」に該当する写真がのせてあります。同書によると、
「(現在のダイエー側から小田急線方向を望んだもの)左側の大きなケヤキのあたりが三橋宝永堂にあたる。道の中の棒杭は馬つなぎ、右手の木柵はおふれ書きを公示した高札場。」とあります。厚木市のページに載っている写真では棒杭も高札場もわかりにくいです。それから「大きなケヤキ」は道路左側画面の奥のものです。

 最新の状況は知りませんが少し前の地図でみるとダイエーは現在の中央図書館の北西側にあり、「三橋宝永堂」の住所は原町田4-4となっています。

 ということで、上の写真は昨年11月に、たまたまそのあたり(中央図書館の北側あたり:中央通り)で小田急線方向を撮った写真です。厚木市ページのベアト写真と同じ位置というわけではありません。まず道路の位置は昔のままだとした場合、撮影者の道路での立ち位置が違います(開港資料館の25とはまだしも近いです)。それにこのあたりはあまりに大きく変わっていますので、ベアト写真に写っているものはおそらくなにも探し出せないでしょう。それで現地観察だけからベアトの撮影位置を探すのはまず無理そうです。(わたしとしては家屋から家屋までの道路幅は当時と変わってないのではないかと思います。???)

 なお、上述の森山兼光さんの『絹の道・原町田』には原町田の昔の村落絵図(正確に読めているかどうかわかりませんが、「原町田村古代旧絵図之写 明和四丁亥四月改? 明治四十三年迠百四十三年成」と書かれている)が載っております。ここに高札場の位置が書かれているかと期待しましたが、わかりませんでした。
 この絵図は、中央通りにある案内板(銅板?)に複製されています。


 町田駅周辺で一番古いのは浄運寺から勝楽寺あたりまでの中央通りだということがわかりました。そこで次回は本町田をとりあげてみたくなりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宮ヶ瀬ダム下流 石小屋・愛川大橋

2007年09月10日 | 失われた風景

<<石小屋ダム(宮ヶ瀬ダムの副ダム)から下流方向を撮影。撮影日2007年9月2日>>

<<ダム完成以前に石小屋付近(中津川右岸)を通る道。これは既に工事用道路だったかもしれない? 撮影日1991年8月18日>>

<<愛川大橋から上流方向を撮影。この付近はダムの下流であるため水没していない。撮影日2007年9月2日>>
 
 以前にベアトの幕末写真を取りあげ宮ヶ瀬ダムによる水没前の神奈川県清川村の風景をほんのちょっと載せました。今回は、ダム堰堤下流側の愛川町の愛川大橋と石小屋を取りあげます。
 ダム完成前にビデオを撮りにいったのが1991年8月でした。その10年後くらいにダムが完成してどう変わったかを見に行きました。そのとき愛川大橋から見た中津川の水がずいぶん濁っていて、「やはりダムの影響か」と思いました。ただこの時は冬だったため、夏の写真で比較しないといかんなと思っておりました。
 というわけで今回の比較です。8月のタイムスタンプはとりそこねましたが9月2日撮影ということで夏の写真といたします。撮影ポイントはご覧のとおり正確に同じではありません。
 
 
<<愛川大橋上流から上流方向(上の2枚)と下流方向(下の2枚)を撮影>>


 結論としては、川の水は澄んでおりました。水質データや川の生物相の変化など詳しいことはわかりませんが、見た目の透明感は合格点ではないかと思いました。


<<愛川大橋上流1991年8月>>

 1991年8月の時点で「石小屋を通って清川村方面に向う道路は」工事のため通行止めになっておりました。ただ現在の県立あいかわ公園のあたりには行くことができ、ダム堰堤の予定地ではないかと見当をつけた方向を撮影しました。この撮影地点がどこだったか正確にプロットできていませんが、現在のダム堰堤の写真と並べてみます。
  

<<左:石小屋付近の中津川左岸斜面の中腹から上流方向を撮影したもの
 右:現在の宮が瀬ダム堰堤。手前の水面は石小屋ダムの水
   写っている山は同じかどうかまだ確かめていません>>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする