失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

玉川上水 大曲り  立川市砂川

2009年01月25日 | Weblog

<左岸側から下流方向を撮影>

 玉川上水は拝島を過ぎてから、比較的真っ直ぐな流路をとっていますが、立川市砂川三丁目のあたりでぐっと曲がり、地図で見ると南にたわんだ曲線(実際は折れ線といったほうが近いでしょうが)のようになっています*1。
これは立川断層があったためなのだそうです*2。
以前にとりあげた残堀川旧水路跡(立川市史跡)はこの近くです。
それもそのはずです。残堀川の旧流路は立川断層に沿って流れているからでした*3。

<右岸から東方向を撮影>

*1 「立川断層の現状と地震」
http://www.bekkoame.ne.jp/~satortri/tachi-index/tachi-danso/danso-index.htmlによると、このあたりは大曲りといわれているという。
*2 『東京の活断層 立川断層帯を調査する』東京都総務局災害対策部防災計画課,平成11年3月,p.9
http://www.bousai.metro.tokyo.jp/japanese/knowledge/pdf/tachikawa/X0B3E300.pdf
*3 今尾恵介「武蔵野台地のクボ地名」『多摩のあゆみ』第121号,財団法人たましん地域文化財団,平成18年,p.30
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勝五郎生まれ変わり物語の舞台 八王子市東中野周辺

2009年01月11日 | 残ってほしい風景

<勝五郎生まれ変わり物語の舞台。東中野バス停付近。中央大学正門から南に下ったところ。>

 平成20年9月27日から12月14日まで日野市郷土資料館特別展「ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語」が行われていました。郷土資料館作成の資料*1によると、この特別展は、平成一八年から行われている市民参加の「勝五郎生まれ変わり物語探求調査団」の活動成果発表とのこと。勝五郎生まれ変わりの詳しい話は、日野市のページhttp://www.city.hino.lg.jp/index.cfm/185,53080,225,htmlに載っています。あるいは、岩波文庫*2で読んでいただくとしまして、ここでは郷土資料館作成の資料をもとに最低限の話のすじだけ超圧縮して述べておきましょう。

 江戸時代末の頃、程久保村(現日野市程久保)に藤蔵という子がいましたが、数え年6才で疱瘡でなくなります。三年後に中野村(現八王子市東中野)で勝五郎として生まれた子が、兄弟に、「自分はもとは程久保村の藤蔵だった」と語ったというのです。この話がだんだんと広まって、国学者の平田篤胤が『勝五郎再生記聞』*1を著したりもしました。後にはラフカディオ・ハーンも別の文献(『椿説集記』)を英訳し「勝五郎の転生」*2を著しました。




<美しい小道が残っています。この先に谷津入地蔵があります。>


<同じ小道を反対方向から>



<勝五郎の生家があったという谷戸を野猿街道側から。土地造成されているが開発は止まっているように見える。この先どうなる>

<生家があった谷戸から南方向を>

  
<左:東中野の熊野神社。勝五郎に生まれる前の魂がとどまっていたという。
右:八王子市柚木の永林寺にある勝五郎のお墓。開発のため永林寺に移されたとのこと>
勝五郎さんは確か明治2年になくなったとのこと。「そこに私はいません」けれども、お墓の前は故人を偲ぶ重要な場所の一つには違いありません。

<左:永林寺の門から、南大沢方向を望む。都立大学の建物が見える。右:永林寺境内の雑木林>


 さて、上述の郷土資料館作成資料では、「勝五郎生まれ変わり物語探求調査団」の「目的は、生まれ変わりの真偽を検証することではなく」と書かれています。これは賢明な態度でしょう。その時点の技術で検出され得ないもの、現象が再現できないものは、万人が納得する形で(理知的にというべきか)真偽の検証などできません。あとは、「自分はこう考える」と言えるだけです。では以下に私の愚問愚答を。

 勝五郎の例で、生まれ変わりがあったと見なされる根拠は、「勝五郎が前世の記憶(藤蔵の記憶)を持っており、その記憶内容を何らかの手段で後から知った可能性も低く、その記憶の内容が藤蔵の家族等によって確かめられたことです。そうでないと、仮に生まれ変わりがあったとしても、それが生まれ変わりなのかどうかは確かめようがありません。つまり生まれ変わりがあったのだという証拠の強さは「記憶」の正しさに依存しているように思えます。(前世の記憶が確かめられただけでは生まれ変わりの完全な証拠とは言えませんが、では前世の記憶は生まれ変わり以外の何によって生じるのかというとそれにも完全に答えることは難しいそうです)

 以前に、朝の通勤で混雑する新宿駅周辺を歩いていて、いったいどこからこんなに大勢の人がやってくるのだろうと思いました。そのとき「私」という不思議さ*4がなぜか頭に残りました。この不思議さをたどっていくと、「過去のある時点で、私でないものから今の私が生じたように、未来のいつか、どこかでまた私が生じることはないのか」という疑問も出てきます。いつかまた私が生じるという考えは、死んだ人から魂が抜け出てまた誰かに宿るという考えとは違うことかもしれませんが、生まれ変わりの1種ではありましょう。「いつかまた私が生じることがあってもいいのではないか」と今の私は思ってもいます。しかし、特定の分子や原子の組み合わせが私になったのだとしたら(何が私と私でない誰かを分けたのかわかっているわけではありませんので断定などできませんが)、もういちど私が生まれる確率は限りなくゼロに近いのでしょう*5。さらに、今のこの私が前世のいかなる記憶も持っていないように*6、生まれ変わった次の私は、今のこの私の記憶を持っているとはかぎらないので、結局、今の私にとっては生まれ変わりがあってもなくてもどちらでもいいのだ、ということに落ち着きそうです。




*1 日野市郷土資料館「日野市郷土資料館特別展 ほどくぼ小僧・勝五郎生まれ変わり物語」リーフレット 平成20年

*2 平田篤胤『仙境異聞・勝五郎再生記聞』岩波文庫

*3 『仏の畑の落穂』(平井逞一訳 恒文社)所収

*4 「私」問題について書かれた文章を最初に読んだのは、
茂木健一郎『心を生みだす脳のシステム』(NHKブックス,2001)でした。
(引用開始)pp.146-149
なぜ、「私」はまさにこの「私」であって、他の「私」ではなかったのか?
一体、悠久の宇宙の歴史の中で、なぜまさに今この場所に、「私」は存在することになったのだろうか?
(引用終わり)

「私」問題で、ある種の爽快感を感じた本
 前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(筑摩書房,2004)
(引用開始)p.119
人間の身体一つに<私>は一つ。進化とともに「意識」というものができた以上、人間の身体一つに、一つの<私>というものが定義された。それだけの話なのだ。
(引用終わり)

茂木・前野両氏の本の中でも引用されている本
永井均『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書,1996)
(引用開始)p.34
ぼくであるというこの特別さは、いったいどこから来るのか。ぼくというものはいったい何なのか
(引用終わり)

*5 私になったもの、私にはならなかったはずのものの違いは、細胞を構成している分子・原子の違いだったのか?私になった細胞を構成していた分子・原子が、どのくらい別の分子・原子置き換わっていたら、私でなくなっていたのか? 以下の引用はこのような問いとは別の文脈で書かれている文章ですが・・・
ビル・ブライソン『人類が知っていることのほとんどすべての歴史』楡井浩一訳 NHK出版p.530
(引用開始)
あなたの両親が契りを結んだ瞬間が少しでも―1秒でも、1ナノ秒でも―ずれていたとしたら、あなたは今ここにいない。そして両親の両親が精確なタイミングで契りを結んでいなければ、やはりあなたは今ここにいない。さらに、そのまた両親や、明らかに無数に存在するもっと前の両親たちについても同様でなければ、あなたは今ここにいない。
(引用終わり)

*6 とはいっても、私の中で前世の記憶がいつか浮かび上がるかもしれません。
勝五郎の物語を取り上げた小泉八雲は別の作品でも、死、自己、生まれ変わりについて興味深い文章を残しています。
例えば 「門付け」(『心』所収)
「死ぬといっても死者の一切が死んでしまうわけではない。死者は、疲れた心臓や忙しい脳のどこともわからぬ細胞の中で眠っており、ごくまれに、なにか自分たちの過去を呼び覚ます声に感応したときにだけ、はっと目を覚ますのだ。」
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