失なわれゆく風景

多摩地区周辺の失われた風景。定点撮影。愚問愚答。

(現代の)邪眼

2014年02月08日 | 民俗
2月8日のヨウカゾウは、一つ目小僧が来る日であったり、目籠を竹竿に掲げたり、
なにがしか目というものと関わりがあるように思います。
この風習の起源の一つをたどると中国の古代にまでさかのぼれるのではないかという推測を
私は数年前にこのブログで取り上げてみました。
白川静『漢字百話』を読んでいますと、「19神梯の儀礼」に「邪眼」という図が載っています。
「ヨウカゾウに目籠を掲げる起源はこれだ」などと言うつもりは毛頭ありませんが、
「まったく関係ない」と断言もできません。引用してみます。

白川静『漢字百話』(中公文庫版、p.60)
神梯のある聖地には、まず地下の隧を清め、地上に土型の土主をおいて犬牲を供え、
前方には邪眼を掲げて限界とし、また陥穴を設け、隅隈(ぐうわい)には畏るべき鬼魅(きみ)の類をおき、
周辺の堆土には書を埋め隠して陼(と)とする。みなこの梯立(はしだて)の神聖を保つためである。


<邪眼として載っている図(字) 白川静『漢字百話』(中公文庫版、p.60)>

このように『漢字百話』では、邪眼を掲げるのは「梯立(はしだて)の神聖を保つため」と書かれていますが、
別の本では限という字の説明として次のように載っています。

白川静『漢字』(岩波新書、p.71)
目は人の心のあらわれるところであり、邪眼はすぐれた呪力をもつものとしておそれられた。
限は邪眼をいう字である。限は神の陟降する聖地に邪眼をおいて、悪霊の侵すのを禁ずる意象の字であった。


こわい目で、ぐっとにらみをきかせて悪の進入を許さない、というまじないの意味が浮かび上がってきます。

このデザイン、現代の町中でもときどき見かけます。
「ちゃんと見張っているぞ」というメッセージ。「にらみをきかせて」悪を払いのけることを意図したデザイン。


しかし、現代の邪眼と呼ぶにもっともふさわしいものは、町中に設置された防犯カメラ・監視カメラでしょう。
抑止効果を考えるなら、邪眼ステッカーより防犯カメラ・監視カメラの方がはるかに高いことは間違いないでしょう。
デザインは心理効果だけですが、
防犯カメラ・監視カメラは記録機能によって「悪事を白日のもとにさらす」ことができるので。


今や都市部では、これらのカメラに捕捉されずに町中を歩くことは不可能でしょう
(確かめたわけではありませんが)。
あなたが清廉潔白ならどこで誰にみられてもかまわないでしょう、と言われたらどうしましょうか。
防犯という社会にとってプラスのはずの機能が、
監視社会化という暗黒を生み出しかねないというどこか逆説的なこの問題、
監視社会化にどこで歯止めをかけるのか、私の目には明確に見えているわけではありません。
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竈神

2013年12月08日 | 民俗
12月8日の「ヨウカゾウ」の起源の一つは中国の「臘日」なのではないかと何年か前に書きました。
今回は、その「臘日」(12月8日)に行われていたという祭竈とその関連を話題にしてみます。

<2013/12/08 江戸東京たてもの園>

中村喬『中国の年中行事』(平凡社選書115 平凡社1988年 第1刷)には
この竈の神、竈の祭について詳しく書かれています。
かいつまんで引用してみますと、

 
前漢の『淮南万畢術』にいう、「竈神は晦日に天に帰し、人の罪を白(つ)ぐ」(『太平御覧』竈所引)と。
また前掲鄭玄の言にも「人の間に居り、小過を司祭して譴告を作(な)す」という。
つまり竈神は人の罪を伺察しこれを天に告げるという属性をもつが、
この属性は家族生活が竈によって営まれるところに生じたもので、
竈神自身が譴告をなすのが本来であったと思われる。p.268


この「人の罪を天に告げる」という部分は、「庚申待(こうしんまち)」
(道教に由来する風習で、三尸(さんし)の虫というものが人の中にいて、これが庚申の日、
人が眠っている間に抜け出して人の罪を天に告げる。人々はこれを防ぐため夜通し起きていたという。
その夜の様子というか雰囲気は、落語の『庚申待』などから伺い知れます)
と共通しているように思います。
あるいは一つ目小僧が台帳に人の悪事を書いておいて、後で取りに来るという
「ヨウカゾウ」の伝習とも共通性がありそうな気がします。
なぜ昔の人は竈の神が人の罪を天に告げるなどと考えたのでしょうか。
竈からは煙が空へと立ちのぼってゆくため、
煙が家々の情報を天に伝えているのだと考えたためだろうと想像がつきます。

水木しげる『続 妖怪画談』(岩波新書288、岩波書店、1993年第1刷)の「かまど神」の項には

日本では仁徳天皇の昔から、かまどから立ち上る煙の高低で、
その家の家運を知ることができるといわれている。p.29


と書かれています。(仁徳天皇の件は『古事記』の下巻にあります)

12月8日との関連にもどりますと、中村喬の前掲書には

祭竈の時期は、『礼記』月令篇では孟夏・仲夏・季夏の三夏とされている。
これは戸・竈・門・行・中霤の五祀を、それぞれ春・夏・秋・冬・中央に当てたもので観念的なものであるが、
後漢では国家行事としての祭竈はこれにもとづいて夏六月に行った(『後漢書』礼儀志中)。
いっぽう民間では、前漢の『淮南万畢術』に竈神は晦日に天に帰るとされているところから、
古くは月晦ごとに行なわれたのではないかと考えられる。
明確に民間の祭竈の期日を記すのは南朝梁の『荊楚歳時記』である。
「十二月八日を臘日と為す。其の日、並びに豚酒を以て竈神を祭る」と。
梁の頃、民間での祭竈は臘日に行なわれていたのである。p.279


そして、なぜ12月8日なのかについて、こう書かれています。

いったい竈が日々の生活に不断のものであることから考えると、
その祭が生活リズムの途中で行なわれるはずはない。
一定の区切りに行なうのが自然である。『淮南万畢術』に「晦日に天に帰る」とされているのも、
生活の一区切りを意味する。そこで臘日に目を向けるならば、それは一年の生活の最も大きな区切りであった。
古代観念において臘祭は、一年の感謝とともに一年の農事の閉鎖を宣言する祭であり、
農事の閉鎖は一年の終了を意味するものであった。
故に後漢の蔡邕の『独断』巻下に「臘は歳終なり」といい、
『四民月令』に「臘の明日を小新歳(こしょうがつ)と為す」という。
竈を一年に一祭しようとするならば、この歳終である臘日はまさに適時である。p.280


一年の終わりならば、なぜこの日に12月8日と日付を振るのか(12月は8日で終わりではないのに)、
よくわからないところです。暦もいろいろ変わっているようですし。
ともかく、この日は、一年の締めの日で、いろいろな厄払いも行われていたようです。

竈そのものについては、柳田國男の『火の昔』にまとまった記述があります。

<2013/12/08 江戸東京たてもの園>

さて、今日の日本の都市部の一般家庭では、日常の煮炊きに竈を使っている家はほぼ100%ないでしょう。
従って竈の神も絶滅してしまったように思えます。
ところがどうして、竈の神は形を変えて、現代に大きな問題を突きつけているようです。
その一つは災害時の問題です。
ひとたび災害が生じ、電気ガスが止まって便利な日常が麻痺してしまった時に、
この竈が大復活して活躍をすることになるでしょう。
このような事態にはなるべくなら遭遇したくないものですが、
大地震がいずれ来る以上、やはりそのときは活躍してもらわねばなりません。

都内の一部の都立公園には、災害時にカマドとして利用できる、カマドベンチなるものが設置されているということです。

<2013/12/08 小金井公園>


私は、
竈と言うにはささやかですが、
木質燃料ストーブ
(キャンプなどで使える
小型のコンロのようなもの)
を購入してみました。









竈の神が現代に突きつける問題の二つ目は情報の漏洩の問題。
お上の都合のわるいことは秘密にされてしまう一方で、私のような下々の人間は、
ビッグデータの活用などという名目のもとに、
検索履歴、サイト閲覧履歴、商品購入履歴、交通機関乗降状況、居場所、趣味・性癖まで丸裸にされていきます。
便利だからと、どんどんネット利用を進めていった結果、もはやネットなしには生活できない状況に落ち入っています。
コンピュータ社会での情報流出は、ちょうど、昔の人の生活にとってなくてはならなかった竈が
「人の罪を天に告げる」役割を担っていた(と考えられていた)のと似ているように思えます。
「庚申待」など、今日の目から見れば実に迷信じみたばかげた風習ですが、
昔の人のとっていた「情報漏洩防止策」だったのですな(それが有効だったかどうかは別ですが)。

<了>
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コト八日(2/8)

2011年02月08日 | 民俗

<世田谷区岡本公園民家園 長崎家コト八日の目籠の展示 2011/02/05>

私はコト八日という行事の原型は古代中国にあるのではないかと思うようになりました。
昨年の十二月八日にこのように書きましたので、そう考える根拠(文献)を示してみたいと思います。
そもそも古代中国に私の目が向いたのは、白川静氏の「文字講話」という講演DVDを見ていたときに、
鬼やらい(儺(だ))の話が出てきたからでした。
しかし、その前にコト八日(ヨウカゾウ、その他の別名もあります)とは何かの説明をしておかないといけません。
それには『コト八日』(大島建彦編、岩崎美術社、1989年)というタイトルの本があり、
大変参考になりましたので、まずはこの本から引用して、コト八日とは何かを概観してみます。
長くなるので●の見出しをつけてみます。以下で青字は引用文です。

●コト八日とは
(北島寿子「コト八日」、『コト八日』所収)
コト八日は一般には、二月八日と十二月八日に行なわれる行事としてとらえられている。
・・・東日本側をA地域、西日本側(青森県を含む)をB地域とすれば、
A地域は二月八日と十二月八日に行事があり、B地域は十二月八日だけに行事があるといえよう。(p.135)
・・・
コト八日には、各地で様々な来訪者を伝えている。
農事と関係があるので、山の神、田の神、作神、同様の性格を持つエビス、大黒、笹神、
あるいはもっと漠然とした八百万の神々といったものが挙げられる。
しかし、より広範囲にみられる来訪者は、妖怪変化の形をとっている。(p.137)
・・・
またコト八日には物忌みにもとづくと思われる謹慎が行われる。
仕事をしないとか、外出をしないとか、あるいは履物や洗濯物を家の中にしまったりすることは全般的に行われている。
・・・
柳田国男もすでに指摘しているように、物忌のきびしさが転じて妖怪変化の出現を伝えるようになったと思われる。
このようにコト八日は、春秋の農事の開始期及び終結期における重い物忌の日であったと思われる。
しかし、現在ではむしろ攘災を中心とする行事に変容している。(pp.137-138)
 

(大島建彦「解説」、『コト八日』p.262)
一般にコトと称するのは、コト八日という熟語にも示されるように、
二月八日および十二月八日の行事にあたるものと思われがちであるが、本来はこのコトということばは、
特に改まった飲食の意味に用いられており、ひろくハレの日の祭事とかかわるものといってよかろう。



●一つ目小僧がやってくる、目籠を掲げる
多摩地区や神奈川県では、コト八日の日にやってくる妖怪は一つ目小僧で、
これを追い払うために目籠を軒先に掲げるという例が多いようです。
目籠を掲げる意味について、山口貞夫氏は『コト八日』の中で折口信夫の説を紹介してこう書いています。

(山口貞夫「十二月八日と二月八日」、『コト八日』p.25)
(目籠)を掲げるのに竿頭高く結び付けて居る事は重要な点で、元は空からする神の招代であったのである
(折口先生、郷土研究、第三巻、第三号)


つまり。目籠を掲げるのは神様に降りてきてもらうための目印だとする説です。
一方、同書で小野重朗氏は次のように解釈しています。

(小野重朗「コトとその周圏」、『コト八日』p.247)
東部圏のコトは目籠のコトであり、西部圏のコトは箸のコトであると言われる。
これらのコトを特徴づけている目籠や箸は高い竿につけて掲げたり、戸外の木に掛けられるので、
ほぼ同じ目的をもつものと思われるが、この目籠と箸とはどのような意味をもつのであろうか。
先に奄美のカネサル(引用者注:p.230に、旧10月の頃の庚申(かのえさる)の日のことを言うとある)で
牛の肉を食べてその骨を村の入り口に掲げたり、ムーチー(粽餅)を食べてその葉だけを戸口に吊したりすることについては、
牛の肉や穀物の食物には人の身心を強固にする力があるとされていて、
災厄神の訪れるときにはそれを皆で食べて守りを固めること、
また、人々がそのようにして身を固め、家や村を固めていることを外から訪れる災厄神に示すために、
食べた証拠の品として骨や餅の葉を吊り掛けて示すのであるという理解を述べた。
コトの目籠や箸を戸外に掲げることも同じように解釈できる。


ここに記されている牛の肉を食べる例は、後に述べる古代中国の祭事との関係で興味深いと思います。
小野氏はまた、天草の例をあげて物忌みの厳しさが転じて妖怪変化の出現を伝えるようになったという説について異論を唱えています。

(小野重朗「コトとその周圏」、『コト八日』pp.216-217)
天草では現実に伝染病が流行してくる時などに、その災厄に対応する切実な処置としてコトを行っている。
祭りの物忌みといったいわば抽象的な観念から、さらに副次的に変ってできた厄神や妖怪を怖れる観念といった
複雑に紆曲したものではなくて、現実に災厄があり、それを恐れてコトによってそれから逃れようとしているのである。
・・・
災厄は不定期にやってくるものであってみれば、その災厄を防ぐコトも不定期に、
臨時に行うのが本来のものであったと思う。



●中国の影響
 以上でコト八日について概観してみました。
いろいろな要素が入り込んでいて単純ではありませんが、
大きくは農事的な祭礼要素と厄除け的要素が中心にあるとみてよいようです。
『コト八日』では、中国との関係を述べている箇所が数カ所あります。
それはコト八日で豆腐を食べる風習が桃符と音が同じなのでここに由来するのではないかという指摘です。

(藤田稔「田の神信仰と二月八日の伝承」、『コト八日』p.90)
豆腐は桃符という音に通じ桃が悪魔除けの威力を存するからという支那古代の信仰が習俗化したともみられている。

●『荊楚歳時記(けいそさいじき)』
コト八日という行事の原型は古代中国にあるのではないかと私が思う理由は
この豆腐-桃符のことではありません。
まず宗懍(498-504ころから561-65)の著がもとになっているという『荊楚歳時記』から引用します。

『荊楚歳時記』(東洋文庫324 宗懍 著、守屋美都雄 訳注、平凡社、1978、p.232)
十二月八日を臘(ろう)日と為す。
『史記』陳勝伝に、臘日(月?)の言あり、是れ此れを謂うなり。
諺(ことわざ)に言う。臘鼓鳴りて春草生ずと。
村人並びに細腰鼓を撃ち、胡公頭を戴き、及び金剛力士を作り、以て疫を逐い、沐浴して罪障を転除す。


注釈がないと、正直なところこれだけでは私にはあまり意味がわかりませんが、
幸い「臘」については、訳者の詳しい註がついています。

臘日  後漢の応劭の『風俗通』巻八「臘」の条に「謹んで礼伝を按ずるに、
夏は嘉平と曰い、殷には清祀と曰い、周には大蜡(さ)と曰い、漢は改めて臘となす。
臘は猟なり。言うところは田に獣を猟取し、以て其の先祖を祭祀するなり」とある。・・・
・・・臘祭のとき獣の肉をささげることが不可欠のことと見られている・・・
つまり臘=古くは蜡=は原始時代における獲物を持ちよっての大饗宴を意味するものではなかったろうか。

(pp.233-234)

まずなによりこの臘祭の日にちが十二月八日であること、
鼓を撃ったり、像を作ったりして疫を逐うことや、
肉を捧げて先祖を祭祀するというあたりが大いに興味を引きます。

●物忌み
『荊楚歳時記』の本文ではありませんが、東洋文庫版『荊楚歳時記』六月の「伏日の湯餅」という項の註に、

『漢官旧儀』には「伏日、万鬼行く。故に尽日閉ざして他事に干らず」(p.175)

とあります。この伏日は臘日と関係ない項目ですが、
コト八日の物忌みというのも、「万鬼が行く」日なので、外に出ないで家の中にこもり静にして、
鬼の通り過ぎるのを待つという意味合いがあるのではないかと思えます。

●『四民月令(しみんがつりょう)』
続いて、後漢時代の崔寔の著した『四民月令』(東洋文庫467 崔寔 著、渡部武 訳注、平凡社、1987、p.141)から

十二月
(一)臈祭の挙行
十二月の[臈(ろう)]日、稲・鴈を薦(すす)む。期に前(さき)だつこと五日に、猪(ぶた)を殺し、三日に羊を殺す。
除に前だつこと二日に、斉(ものいみ)し饌(そな)え掃滌(そうでき)し、遂に先祖・五祀を臈す。
其の明日、是を小新歳と謂い、酒を進め神を降す。
其れ酒を尊長に進め、及び刺を脩(おさ)め君・師・耆老(きろう)を賀すこと、正日の如(ごと)くす。
其の明日、又た祀(まつ)る。これを蒸祭と謂う。
後三日して、冢を祀る。事畢(おわ)らば、乃ち宗族・婚姻・賓旅を請召して、
好(よしみ)を講じ礼に和し、以て恩紀を篤(あつ)くす。
農を休め役を息(やす)め、恵みは必ず下に浹(あまね)くせよ。


注には「臈は正式には臘に作る」と出ています。

どこまで理解できているかわかりませんが、要約してみると次のようになりましょうか

臈の日の数日前から、豚や羊を犠牲にささげる。二日前には身を清め、そなえものをし、掃除し、
当日に先祖と五祀を祀る儀式を行う。翌日酒を進めて神様に降臨していただき、
それから、長老や君主や師、老人などにお祝いをする。三日目には塚(墓のことか?)をまつる。
以上の祀の儀式がおわれば、一族や客を招いて親睦(宴席をもうけるのでしょう)する。
この日は農作業や仕事は休みとし下のものにも恩恵が行き渡るようにする。

豚や羊をと殺すること、先祖を祀ること、農事が休みになることなどが興味を引きます。

●朝鮮歳時記の記述にびっくり
民俗学で純粋に日本的なものを探り出そうとするなら、
東アジアの近隣諸国との比較が欠かせないはずです。
したがって隣国の、韓国・朝鮮の状況に目を向けないのは怠慢だと言えましょう。
幸い東洋文庫に『朝鮮歳時記』というピッタリの題名の本がありました。
この中の洪錫謨著「東国歳時記」を見てみますと、元日の項目の一つではありますが、
多摩地区のコト八日の言い伝えとびっくりするほど似た記述がのっています。
この「東国歳時記」は序文の日付が1849年9月13日となっています。

『朝鮮歳時記』(東洋文庫193 洪錫謨 他著、姜在彦 訳注、平凡社、1971、pp.28-29)
洪錫謨「東国歳時記」正月元日 夜光 の項

俗説に、夜光という鬼が、この日の夜に人家に降りてきて、
子どもの鞋(わらじ)をはいてみて、足にあうものを履き去る。
鞋を履き去られた主は、一年中不吉であるという。
そこで子どもたちは、これを畏れてみんな鞋をかくし、燈火を消して寝る。
そして篩(ふるい)を板間の壁か庭のきざはしにかけておく。
というのは、夜光が篩の孔を数えるうちに鞋を盗むことを忘れ、
夜明けの鶏鳴を聞いて逃げ去ると、伝えられているからである。
夜光がいかなる鬼かは知らないが、あるいは薬王の音が転じてそうなったのかも知れない
(夜光の朝鮮音はヤクワング、薬王のそれはヤツクワング)。
薬王像は大へん醜く、子どもたちをこわがらせるから、そうおもわれる。


「夜光」が「薬王」だとすると、この「薬王」とはだれなのでしょうか?
こういうときは南方熊楠に聞いてみるのがいいです。
南方熊楠全集の索引を見てみるとやっぱり「薬王」という項目がありました。

南方熊楠「十二支考 犬に関する民俗と伝説」『南方熊楠全集 巻1』平凡社p.502

その他犬が仙人に従って上天した例多く、韋善俊は唐の武后の時、京兆の人なり、
長斎して道法を奉ず。かつて黒犬を携え、烏竜と名づく。世謂いて薬王となすという。
韓忠献臆すらく、年六、七歳の時病はなはだし。
たちまち口を張って服薬する状のごとくして、いわく道士あり犬を牽き薬をもってわれに飼う。
にわかに汗して愈ゆ、と。よって像を画いてこれを祀る、と(『琅邪代酔編』五)


韋善俊という唐の武后(則天武后624-705)の時代の人が薬王といわれていたと熊楠は書いています。
これが「東国歳時記」の言及する薬王と同一かどうかなんら確信はありませんが、
薬に通じた仙人のような道士のような人であり、像も画かれているようですので可能性はあります。
仮にそうだとすると、ヨウカゾウの一つ目小僧や目籠の伝承は唐の時代の韋善俊という人にたどりつくかもしれません。
『琅邪代酔編』なる書にもあたってみる必要があります。

(2011/02/26 追記)
『清嘉禄 蘇州年中行事記』(顧禄 著、中村喬 訳注、平凡社 東洋文庫491、1988)の
巻四 四月に「薬王生日」という項があり、次のような注釈がついています。

薬王と称される者には、戦国時代の名医扁鵲(へんじゃく)(『史記』扁鵲伝)、
医書『千金方』を著した唐の孫思邈(そんしばく)(『酉陽雑俎』巻二(ゆうようざつそ))、
唐の名医韋慈蔵(『旧唐書』方伎伝)、
唐の武后期の人とされる韋善俊(『桐陰旧話』)、
唐の開元二十五年に天竺より来たという韋古道(『続列仙伝』)など、
また、仏教の二十五菩薩の一人である薬王菩薩がある。・・・

(2011/02/26 追記終わり)


ここまでで時間切れです。
なにか進展があったら次の報告は12月8日です。
誤りがあれば直ちに訂正します。


蛇足ながら、私にはコト八日の厄除けよりは花粉症対策が必要です。
(了)
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オッパケの坂 入間市

2011年01月16日 | 民俗
ぱらぱらと地図(『でか字まっぷ 東京多摩』(昭文社、2008年))を見ていますと、
入間市の「オッパケの坂」という名前が目にとまりました。
目にとまった理由は、多摩市に「おばけ坂」という名の坂があり、
以前にこのブログでとりあげたことがあるからです。

<入間市二本木 オッパケの坂 2010/12/05>

<入間市二本木 オッパケの坂 2010/12/05>
訪れてみますと不老川の谷から金子台へのぼる坂道です。

入間市のサイトに
「元気な入間ふれあい茶ん歩道(さんぽみち)」
http://www.city.iruma.saitama.jp/kankou/genkinairuma.html
というページがあって、
このうちの「狭山茶の歴史を訪ねる」というコースが「オッパケの坂」を通っています。
このコース案内パンフレットには
http://www.city.iruma.saitama.jp/dbps_data/_material_/localhost/210kankyou/300midori/sanpo06.pdf
  
 「ハケ」とは、川に削られてできた川岸の崖のことです。

と書かれています。実にわかりやすい説明です。

私は「ハケ」ときくと
小金井市の
野川沿いの
「はけの道」が
まず思い浮かぶのですが、
こちらはいずれまた別に
とりあげることにします。


<小金井市 2011/01/15>

青梅市の河辺のあたりに
「南白はけ公園」という名前の公園がありました。
近くに「白はけ公園」というのがあるようですので、
このあたりの崖(多摩川沿い)を
「白はけ」と言うのでしょうか?
確かめていません。
<青梅市 2011/01/16>


「はけ」のつく地名は探せばまだたくさんあるでしょう。

さて、多摩市の「おばけ坂」ですが、
『多摩市史 民俗編』などによると
以前はグミの坂といわれていたが、坂に老婆が住んでいて若者を脅したので
おばけ坂といわれるようになった
といった由来が語られています。
しかし、私は「オッパケの坂」を知った今となっては
こちらの「おばけ坂」も
「お」+「ハケ」坂=「おっぱけ」坂
だったのではないかと思うようになったのですが。

老婆が住んでいたということくらいは
あるいはあったかもしれませんが、
「オッパケ」が「お化け」に変わった後になってから
つじつま合わせをした疑い濃厚ではないでしょうか。

で、最後に一句

 おん化けの 正体みたり 「ハケ」の坂 (お粗末)

(了)
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コト八日

2010年12月08日 | 民俗

<世田谷区次太夫堀公園民家園の旧加藤家 2010/12/04 撮影>

12月8日というとジョン・レノンが撃たれたり、真珠湾攻撃が行われたりと、
大事件の起きた日ですが、
私の関心はここ何年か「ヨウカゾウ」「コト八日」という
今ではほとんど消えた風習にあります。

いくつかの民家園でコト八日の行事(展示とでも言うべきか)
が行われていることを知りました。
上の写真はその一つ、世田谷区次太夫堀公園民家園の旧加藤家です。
魔除けとして目籠が竹竿にかかげられていました。

私は、コト八日で行われているいくつかの魔除け行事の原形は
古代中国にあるのではないかと思っています。
そう思った理由を次の2月8日に示してみたいと思います。
どれほど説得的かは本人もあまり自信がありませんけど。

今日はこれでおわりです。


12/10 文章修正

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ヨウカゾウ再考

2010年02月08日 | 民俗
昨年の2月8日に「八日ぞう」という風習・行事についてとりあげました。
その後追加して調べた分を加えて地図を作ってみました。(2010/2/11修正)
同一市内でも地域(家ごとにと言っていいかもしれません)に差がありますので、
調査の行われた地点ごとに点で示すべきですが、
地点を網羅するのはたいへんなので行政区の全部を塗りつぶしています。

<調べたエリアの塗り分け 
黄緑色:市史等にヨウカゾウ、八日節供、コトヨウカなどの記載があった地区 
水色:市史等の年中行事の記述に2/8、12/8の記載を見つけられなかった地区。
紫色:市史等に、2/8、12/8以外の日に似たような風習が記載されている地区
白:未見の地区>


節分の豆まきに「鬼の目をつぶせ」と唱えるところがあります。
ヨウカゾウの「一つ目小僧を目籠の目で退散させる」ことと似ているように思います。
豆まきは今でも全国で行われいますが、ヨウカゾウは消えていったようです。
その差はどこから生じたのでしょうか。思いつきを書いてみます。

そもそも目籠(メカゴ)や竹製のざるなどが日常生活からほとんど姿を消してしまいました。
竹製にとってかわったプラスチック製のザルは大量生産された器具であって、
魔物などと結びつけるには文明的すぎるのかもしれません。
そして、悪疫の原因もだんだんと解明されていった結果、
もはや一つ目小僧が悪疫をもたらすと考える人はほとんどいなくなりました。
(しかし、一つ目小僧にはリアリティーがなくなったのに、
同じくらいリアリティーがないはずの「トラの皮のパンツをはき角の生えた鬼」のほうは
今年も追い払っているのはどうしてか。やっぱりわからない。)

では、現代人がおそれる悪疫は何でしょうか。
新型インフルエンザなどそのひとつかもしれません。
それにはメカゴでなく、ワクチンで対抗するようになっています。
(今度はワクチン(製薬会社)に自分の命を握られてしまったのではないかという新たな不安が生まれた?)


昨年は「グミの枝やネギなどを燃やすことについて、風邪よけの効果があったかもしれない」と思いつきをのべてみました。
そのような効果はあるいはあるかもしれません。
しかし、強烈なにおいで魔物(得たいのしれないもの)を圧倒してしまおうという
「もっと素朴な対処法」がやはり基本だったのでしょう。
昔は自然災害やら病疫などの災厄については、原因や対策の知識が乏しかったため、お手上げだったはずです。
そこで人の力でいかんともしがたい脅威に対して、こちらも相手がいやがりそうなもので(くさいにおいなど)ともかくも対抗し、
厄除けしようとしたのでしょう。その気持ちはわかる気もします。

ヨウカゾウのもう一つの側面である「農耕を始める前に神様を迎える儀式」は、
明治に暦が変わって、それまでの季節とずれてしまったことで、
それまでの日付けで実施する意味が決定的に失われてしまったのかもしれません。

それ以上に、現代の都市生活者には農耕上の儀式は不要となりました。



(『市史』等の追加調べ)
●多摩地区について
昨年、『市史』に「民俗についての記述が見つからなかった」としていた、国分寺、小平、武蔵村山は、
それぞれ、『国分寺の民俗』、『小平町誌』、『村山町史』『武蔵村山市史 民俗編』『武蔵村山の民俗その1~その5』がありました。
各市とも12月8日、2月8日についての記述がありました。
武蔵村山市については『村山町史』に記述がありました。

昨年「民俗に2月8日、12月8日の記述がなかった」としていた奥多摩町は、
『奥多摩町史 民俗編』に、節分の行事として、
ヌキナシ(目籠)をトンボウ(入口)にかかげ、ヒイラギの枝といわしの頭を串刺しにして焼いたもの(ヤッカガシ)を目籠にさす行事は各地で見かけますが・・・」(p.271)
という記載がありました。この「各地」が奥多摩町内各地をさすのか微妙ですが、一応「奥多摩町内各地」と解釈しておきます。
瑞穂町はまだ2月8日、12月8日について記述した文献を見ていませんが、
ここだけこの風習がない理由もなさそうなので、もっと詳しく探せばなんらかが見つかるのではと思います。

昨年、「針供養のみ」としていた、狛江市は
『狛江・語りつぐむかし』(狛江市企画広報課編集・発行)に、
「メカリばあさんの来る日」(p.80-81)として2月8日と12月8日の記載がありました。
呼び名としては「狛江では上小足立で「八日どう」の呼び名を聞いた。」(p.81)とあります。
東大和市は『東大和市史 資料編9 道と地名と人のくらし』に
2月8日の説明として「・・・門口にメカゴ(目籠)を下げる「事八日」の名残もうかがえた。」(p.90)
とあります。これも「記載あり」とみなしておきます。

三鷹市は『三鷹の民俗』に記載がありました。

檜原村は『檜原村史』に一月八日のこととして記載がありました。
武蔵野市は、冬至の夜の話としてあげられ12月8日との混同ではないかとの記載でした。


○国分寺市:『国分寺の民俗』(国分寺市教育委員会)は地区ごとに1から6まであり、このうち2,3,5,6巻に12月8日、2月8日について記載がある。
名称:ヨウカゾウ、コトオサメ、コトハジメなど。
やってくるのは鬼、魔物。
履き物を夜外にだしておいてはいけない。
目かごを竹竿につけて、軒端へたてかけておく。ネギを焼く。

○武蔵村山市:『武蔵村山市史 民俗編』『武蔵村山の民俗その1~その5』(武蔵村山市)
2月8日は針供養とあるのみ。
『村山町史』p.569 節分とこと八日 
(引用)
・・・二月八日、十二月八日にも、ひいらぎを戸袋にさし、目かい、ふるいを戸袋に下げたが、ともに妖魔がひいらぎの葉のとげで家の中に入れず、一つ目小僧のような妖魔が目かいやふるいのように目のたくさんあるのをみてびっくりして逃げ帰ると信じられたもので・・・(引用おわり)


○小平市:『小平町誌』第四編 自然と民俗p.1293
(引用)
十二月八日はオコトノ日、またはオコトハジメ。
麦まきのころの一連の語り伝え、神のお旅立ちの信仰はきわめて広い地域できくことのできる信仰で、
恐らくはなにか非常に古い大切な行事の名残であろうと思われる。
(引用おわり)

○三鷹市:『三鷹の民俗』(井之口章次編 三鷹市教育委員会発行)は地区ごとにその1からその十一まで刊行されている。
このうち、1,2,3,4,6,9,10巻に12月8日、2月8日について記載がある。
名称:ヨウカゾウ、師走八日、コト八日
やってくるのは鬼、メカリババア、魔
疫病の神さんがはきものに判を押しにくる
軒端にメカイなどのザルを竿にさしてたてかけた

○檜原村:『檜原村史』(檜原村史編さん委員会編集、昭和56年)の民俗 「年中行事」の項に12月8日、2月8日の記載はない。
「禁忌・除けと呪い」の項に「悪病除け」として以下の記載がある。P.998-999
(引用)
一月八日に目数の多い物(籠等)を門口に置くと、悪病神が入って来ないと言われ、昔は大きな目の籠を置いた。
また、庭先で大根の葉を干したものと、グミの木を燃した煙や、大きな目がたくさんあるかご等は、悪病神が嫌いだったからだと言う。
(引用終わり)

○武蔵野市:『武蔵野市史』p.1166
(引用)
関前では冬至の夜に鬼がくると言って籠を竹竿の先につりさげた家があるが、これは12月8日のヨウカゾウとの混同ではないかと思う。
この日に一つ目の妖怪が来るといって、一月八日と同じように早く戸を閉めてミケ(目籠)を竹の棒の先につけて屋根に立てかける。
(引用おわり)

●多摩地区以外について
多摩地区以外の地域はどんな状況か。
このブログで取りあげたいくつかの地域をとりあげてみました。
隠れ里を探訪した、千葉県成田市、佐倉市、神奈川県藤沢市。
目久尻川流域を探訪した神奈川県海老名市、綾瀬市。
引地川流域を探訪した神奈川県大和市。
小出川流域、相模川河口の茅ヶ崎市。
堀兼井戸周辺を探訪した埼玉県狭山市、川越市。
賢治祭に行った岩手県花巻市などです。

○成田市:『成田市史 民俗編』p.3411
12月8日 大黒(あるいはエビス)様が帰ってくる日。
2月8日 大黒様が稼ぎにでかける日。
鬼を退散させるためメカゴをつるすのは節分の風習としてと記されている。

○佐倉市:『佐倉市史 民俗編』p.599-600
立春の前日の節分の日に、「おにやらい」(ひいらぎとぐみ、さかさ箸につけた鰯の頭をたばねたものを籠にとりつけたもの)を屋根にかかげる。

○藤沢市:『藤沢市史 第七巻』p.592-596
12月8日、2月8日
ヨウカゾウ、ヨウカドウ、オヨウカサマ、コトハジメ、コトオサメ、コトジマイ
目一つ小僧が来る日
履き物を外に出しておくと目一つ小僧が判をつけて行く
竹で編んだざるやかごなどを竹竿の先につけて、家の外へ高く掲げておく。

○海老名市:『海老名市史9 別編 民俗』p.487-488
12月8日、2月8日
ヨウカゾウ
一つ目小僧が来る日
履き物を外に出しておくと目一つ小僧が判をつけて行く
竹で編んだざるやかごなどを竹竿の先につけて、家の外へ高く掲げておく。

○綾瀬市:『綾瀬市史8(下) 別編 民俗』p.254、267
2月8日12月8日、
ヨウカゾウ、師走八日
目一つ小僧(一つ目小僧)が来る日
履き物を外に出しておくと目一つ小僧が判をつけて行く
目の多いサルやメカイを竹竿に懸けて屋根の上にのせたり、門口に掲げたり。

○大和市:『大和市史8(下) 別編 民俗』p.190、267
2月8日、12月8日
ヨウカゾウ
一つ目小僧が来る日
履き物を外に出しておくと目一つ小僧が判をつけて行く
目籠を竹竿の先につけて軒先や庭先にたてた。

○茅ヶ崎市:『茅ヶ崎市史3 考古・民俗編』p.565,575
2月8日、12月8日
ヨーカゾー、オコトジメー、師走八日、オコトハジメ
目一つ小僧が来る日
夜履き物を外へ出しっぱなしににすると目一つ小僧が焼印を押していくという。
目籠やソバスクイを高いところにかける。

○狭山市:『狭山市史 民俗編』p.255-258
12月8日
師走八日、八日節供
目の細かい竹籠を竹ざおにかぶせ、軒先にたてかけておく風習があった。また厄除けとしてネギの皮をいろりで燃やす家もある。

○川越市:『川越市史 民俗編』p.368,257
2月8日(三月八日としている地区もある)、12月8日
ヨウカゼック
魔除け
ミケイ(目かご)を竹の先につけて母屋の屋根にたてかける

○花巻市:『花巻市史 民俗編』p.56成田地区
(引用)
二月八日 薬師団子
疫病除祭といって、あづきだんご、おつゆだんご、ごまだんごなどをつくってたべる。
又この日百万辺念仏といって百八ツ玉つきの大珠珠を持って鐘を叩き各戸を心開念仏回向を唱えて歩く

(引用おわり)

補四 年中行事 p.95
2月8日
(引用)
八日団子 この日も団子をつくる。魔よけに鬼の絵をかいて張り出すのもあり、籾通しを門口に出す家もある。
(引用おわり)


おわり
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乞田八幡神社 祭りの日 (多摩市)

2008年09月20日 | 民俗
多摩市内の神社は九月の第二日曜日を統一の祭りの日としている、と確か『多摩市史 民俗編』に書いてありました。
(ただし全ての神社ではない。今年の例では前回紹介した山神社など例外)。
同書によると、祭り日を統一した理由は、以前、子供達が諸社の祭りのたびに学校を欠席するので、できるだけ欠席させないようにするため祭りの日を統一したとか。 


 
 九月十四日に乞田八幡神社の祭りが行われていました。
(多摩市内の神社では、白山神社(落合)、貝取神社(貝取)、熊野神社(関戸)、春日神社(連光寺)、八坂神社(船ヶ台)、小野神社(一宮)、十二神社(和田)なども確かにこの日に祭りを行っていました)


(引用開始)『柳田國男全集3』ちくま文庫 pp.26-27
 南多摩郡の乞田の八幡社は古い御社らしい。同じ多摩村の大字貝取と、二村共同の鎮守だったというのに、その所在地はずっと奥まったこの村の西南隅で、他の一方の端からは一里以上もある。二百六十年前の再建の棟札もあったそうだから、今ある多くの民家ができてからの選定ではなかったのである。江戸時代には二千四百坪、八反歩の除地が附いていた。現在の境内地と、それに続いた分教場の敷地とを合わせても、その三分の一もあるまいと思われるから、かつてはまわりの広い畑場までが、御社に属した無税地だったことがあるのである。
 近年になってから、かなりの事情変化があったものと思われて、祭りなどはもう決して盛んだとは言えない。以前角力のあったという旧九月十五日の例祭は、秋の刈入れ以前の新暦の九月五日にくり上げられ、村の幣帛供進もこの日にある。それ以外には祈年祭その他の、一二の公定の祭りがあるだけで、神職は三四里も離れた土地の人が兼摂しているという。・・・社殿は明治に入っての改築とおぼしく、相応に広々としたものだが、まわりには縁もなく階段もなく、また一つの附属舎もなくて、参詣の者がちょっと立ちやすらう場所も設けてない。・・・
 こういう御社こそ、年に一度の祭りの日に来合せて、半日くらいは静かに見ていなければ、感じ知ることのできない信仰であろうと私は思った。そうしてまた誰もが心づかずにいるうちに、次第に移り変わっていく信仰でもあろうかと考えてみた。

(引用終わり)

 
 
 引用文は昭和十九年に発表されたものだそうです。「二村の鎮守、棟札、除地、九月十五日の例祭の角力」などの話は『新編武蔵風土記稿』に載っている内容です。
 乞田八幡の社殿は、乞田川の流路変更のため、昭和四十九年にそれまでより南に移動し現在の位置に遷座されたとのことで、移動以前には隣接地に多摩第一小学校の分校があったそうです。(引用文中の「分教場」とはそれを指している)
 境内の碑によると、「当社の御祭神は應神天皇をお祀り申し上げている また当社の創建は延徳二年九月(西暦一四九〇年)・・・五〇五年前であると古より申し伝えられている」とあります。

 私が半日くらい静かに祭りを見ていたとしても、なにか古い信仰を感じとれるとは思いませんが、ニュータウン開発以前、柳田國男が訪れたころ、百年前、さらにもっと昔の祭りの様子をもし百年単位くらいで比べて見ることができたとしたらさぞ興味深いであろうなどと空想するばかりです。今日の祭りの中に創建当初から変わらないようなものが(信仰はともかくとして形式だけでも)何か伝わっているでしょうか。

 ちなみに、普通の日には、八幡神社の境内は駐車場として利用されています。


 さらに余談ですが、
開発で古い神社などを壊しまくったあげくに、
新しいまちの象徴的な公共施設に外国の神殿の名前をつけてしまう感覚に
私などは少々違和感を感じるのですが、
それこそ百年後くらいの人達に、これをどう思うかと聞いてみたいものです。
(おそらくそんなことを気にかける人などいなくなっているでしょうけど。
あ、今でもいませんか)

(さらにすこし補足)
仏教はもとより、神社にまつられている神様にも外国由来のものがあります。
だから、外国のものといっても日本に入ってきた時期が古いか新しいかだけの問題じゃないの、と言われるとそのとおりなのです。日本人の舶来品好きは今にはじまったことではないようですので(時代によって強弱はあるようですが)

で、私の夢の一つは、古いものをたどれるところまでたどって、どこに行き着くのかを見てみたいということです。



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おばけ坂

2008年08月30日 | 民俗

<多摩市 東寺方>

『多摩市史 民俗編』をみていたら、「おばけ坂」という写真が目にとまった。(p.640)
本文によるとこうである。

(引用開始)『多摩市史 民俗編』P.641
②おばけ坂 東寺方地区の宝泉院の下の坂はおばけがでるといいおばけ坂とよんだ。また、この坂はもともとグミの坂といったが、坂の下にすむ老婆が若者を脅したため、おばけ坂とよばれるようになったという。(『叢書5』)
 また、この老婆は、身の丈六尺もあり、口が耳まで裂けており、いつも笊に小豆をいれてといでおり、人が通ると笊を頭からかぶせて捕らえ、食べてしまったという。それでこの坂は「山の婆坂」とよんだという。(『子どものための歴史のさんぽみち』)
 このような小豆をとぐ妖怪の話は関戸、貝取、南野の地区にもある。
(引用終わり)

 上の写真は宝泉院の前の坂を下り切ったあたり、大栗川の右岸付近である。
『多摩市史 民俗編』の写真撮影位置に近いと思われる。
『多摩市史 民俗編』の写真がいつ撮影されたものかわからないが(巻末に写真リストがついていたが撮影年の記載がなかった)、写真に写っている範囲に当時は家が一軒も建っていなかった。

<<ここで追記。8.31>>
 上記引用文中の『叢書5』とは『多摩市史叢書(5) 多摩市の民俗(口承文芸)』(多摩市平成5年)のこと。これを読んでみると、『多摩市史 民俗編』から受ける印象と若干おもむきがことなる。なので、すこし長くなって煩わしいが以下に引用する。また上記引用文中に『子どものための歴史のさんぽみち』とあるのは『歴史のさんぽみち』の誤りであろう。両者は違う本である。(『歴史のさんぽみち』は「たま広報」に昭和45年3月1日号から52年9月20号まで載せていた「歴史のさんぽみち」を総集編としてまとめたもの。)

(引用開始)『多摩市史叢書(5)』p.98
4.お化け坂①
 お化け坂、あの本当いったらグミの坂って言ったんだよね大きなグミの木があったらしいんだよ。まあそこの下にたまたま一軒家があって、そこにおばあさんがいたらしいんだよね。それが、そのばあさんが脅かした、と。若い衆を。あれ、おっかない坂だということでいつのまにか、お化け坂というようになってしまった。
 いや、あそこは勿論、昔はどこにも街灯はなかったし、えー、竹山があったんだね。あの駅の方へずっと降りていくね、右側が全部竹山だった。その竹がおい茂って、頭に届きそうにおい茂って、真っ暗だった。手で探んなきゃ歩くところが分かんないくらい暗かった。それでお化け坂、おっかない。そういうことになっちゃたわけなんだね。
(東寺方・男・大正生まれ)

5.お化け坂②
 ウチのほうのなんていうか、下の寺といいまして宝泉院ってお寺があるんですがね。あそこは、あの下はね、それこそお化けが出るっていったようなことでね、それこそ昔はもう夜遅くなんかに一人でとてもじゃないけど通れない、というような状況であったんですよね。
 トンネルみたいに竹が植えてクロにかぶっちゃっててね。それでこそ何が出てくるか分からない。ウチの方は地域のものだから言わないけど、ワキの人はそれこそお化け坂だ、なんていうようなことまでいわれて。
(東寺方・男・明治生まれ)
(引用終わり)

 これを見る限り、「この坂の下にこわいおばあさんが住んでいたということだ。坂は竹が生い茂って、暗くてこわかった」という以上の話ではない。これが『歴史のさんぽみち』では小豆をとぐ人食い婆という属性が老女に付け加わっている。

<<以上、追記終わり>>

『多摩市の町名』(多摩市発行 平成4年)にも「東寺方の伝承地名」として、「山の婆坂」が載っている。(p.153)ただ、ここでも説明文は『歴史のさんぽみち』からの引用である。孫引きになるが『多摩市史 民俗編』と重複しない部分を以下に引用してみる。

(引用開始)『多摩市の町名』P.154
「昔は、この道左側に山があって、ケヤキの老木が生い茂り、反対側は一面の竹藪で、そこは清水が流れていた。そのため昼間でも薄暗い寂しい小道であった。(引用終わり)



<宝泉院の前から下り方向を>


 小豆とぎの妖怪は、水木しげるの『妖怪画談』や柳田國男の『妖怪談義』にも取り上げられていて、それによると全国あちこちで伝わっていた妖怪のようである。ただ、いつも老婆だというわけではない。
『多摩市の町名』には貝取、連光寺の小豆とぎ婆のことも載っており、これらについては、またあらためてとりあげることにする。

 最後に、妖怪の話とは関係ないが、宝泉院の北側にある小学校の緑が周囲の丘陵とうまくマッチしているように思えたので載せてみます。

<小学校の緑が周辺の景観の大事な要素になっている>
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ひだる神

2007年02月17日 | 民俗
 柳田國男の『妖怪談義』に「ひだる神のこと」という項目があります。
 「夜刀の神」で神様の話を書いたので、今回は神様つながりで「ひだる神」をとりあげてみます。といっても、この神は、お社に祀られるような神ではないのですが。

(引用開始)
山路をあるいている者が、突然と烈しい飢渇疲労を感じて、一足も進めなくなってしまう。誰かが来合わせて救助せぬと、そのまま倒れて死んでしまう者さえある。何か僅かな食物を口に入れると、始めて人心地がついて次第に元に復する。普通はその原因をダルという目に見えぬ悪い霊の所為と解していたらしい。どうしてこういう生理的の現象が、ある山路に限って起こるのかという問題を考えてみるために、先ずなるべく広く各地の実例を集めてみたいと思う。
柳田國男『柳田國男全集6』ちくま文庫 p.113
(引用終わり)

 このあと、「伊勢から伊賀へ越えるある峠」、大和の「宇陀郡室生寺の参詣路」「仏隆寺阪の北表登り路中ほど」「長崎県の温泉岳の麓」などで、餓鬼あるいはひだる神に取り憑かれる例をあげ、最後に、読者に他の事例の報告を求めて終っています。

(引用開始)
少しでもこれに近い他の府県の実験談と、もしこの問題を記載した文献があるならば報告を受けたい。理由又は原因に関しても意見のある方は公表せられたい。これだけはすでに世に現れた材料であって、自分はまだ特別の研究を始めたわけではない。
柳田國男『柳田國男全集6』ちくま文庫 p.116
(引用終わり)

 南方熊楠は、雑誌『民族』で「ひだる神」について論じており、自らの「ガキに付かれた」体験を記して、この状態を「脳貧血」と表現しています。
『南方熊楠コレクションⅡ 南方民俗学』河出文庫 pp.311-317

 さて、柳田の求めた「ひだる神」の原因ですが、私は、この現象を、今日ではハンガーノックとして知られる生理現象であると考えます。
 長距離走やサイクリング、登山など、持久力を要するスポーツを空腹の状態で続けると、ある時点で足などに力が入らなくなり、ふらふらの状態になることがありますが、これはハンガーノックとして知られています。
 私は、昔、サイクリング中に、空腹のため、急激に足に力が入らなくなったことがあります。かろうじで食事をとれる場所にたどりつき、食事をとると、何事もなかったかのように元どおりになるということを経験したことがあります。
 今でも、空腹でサイクリングを続ければ、ふらふらになり、立っているのが精一杯という状態になります。(街中ではコンビニがいくらもあるので、空腹で走れなくなるようなことはまずならないのですが)

 山道などで、空腹のため、急に力が抜け、また食べ物を口にすれば何事もなかったかのように元気になるため、昔の人はこれを、何か憑き物がついたのだと考えたとしても不思議はないと思います。
 流通も発達しておらず、コンビニも自販機もなかった時代にあって、山道に入ってから食糧が乏しくなって、同じ難所でへたり込む人が多くいたとすれば、憑き物つきと特定の場所と結びつくことにつながったとも考えられます。

 今回のテーマと結び付く写真として、確か、「遠野」に、飢饉の際の餓死者供養塔があったように記憶しています。あいにくと手元に写真がありませんので、写真添付は、これも後日の宿題にしておきます。
コメント (2)
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夜刀の神

2007年02月12日 | 民俗
このブログでも今まで「谷戸」「谷地」という言葉を何度か使ってきました。
「谷(やつ)」は、広辞苑によると「アイヌ語から」の言葉だそうです。
常陸国風土記にその名も「夜刀の神(やとのかみ)」という話があります。


                     <茨城県行方市>

『鎮守の森は甦る-社叢学事始』上田正昭、上田篤編 思文閣出版 p10-11に、この「夜刀の神」について興味深い解釈が載っています。
(引用開始)
三 縄文文化の名残り
 アマツカミといい、クニツカミというものは、いったい何であろうか。
 何千年もの昔、日本列島の山野は深い森で覆われていた。そこに小動物や魚を獲り、木の実や貝を拾う人々がいた。わたしたちの祖先の縄文人である。しかし、縄文末期から弥生時代にかけて、この国に稲作が普及するにつれ、日本列島の様相は一変した。平地部の森林がつぎつぎに切り倒され、あるいは焼き払われて田畑となっていったからである。とりわけ、古墳時代の初期に、大陸からやってきたとおもわれる天照大神を奉祭する「天孫族」がこの国土を支配するようになると、その勢いは決定的となった。アマツカミとは、これら 「天孫族」あるいはその子孫をいい、クニツカミとは、それ以前に日本列島に居住していた人々をいう。
 ただし、クニツカミといっても、古くからこの日本列島に居住していた縄文人と、紀元前三世紀ごろを起点として大陸からやってきた早期の弥生人とがいる。そして縄文人は一口に「森の民」といっていいが、弥生人はいずれも「稲の民」である。すると両者の生産方法は大きく異なり、したがってその文化もまた違ってくることが予想される。
 ところが、社叢が「土地の神の坐ます森」である、というなら、それは縄文人の文化に近い、と考えられるのではないか。なぜなら、縄文人の文化は森を基盤とするが、弥生人の文化は、その生業からいって、基盤とする自然は「森」ではなく「川」とか「泉」とか「稲」とかでなければならないからだ。では、どうして弥生人もみな「森」を奉祭したのだろうか。
 『常陸国風土記』に、そのヒントになるような話がある。継体天皇のころというから、すでにアマツカミの治世下の六世妃の始めのことであるが、縄文人と弥生人の関係を知るうえでの参考にはなろう。

 箭栝(やはず)の氏(うじ)の麻多智(またち)、郡(こおり)より西の谷の葦原(あしはら)を截(きりはら)ひ、墾開(ひら)きて新に田に治(は)りき。此の時、夜刀(やつ)の神、相群れ引率(ひきい)て、悉盡(ことごと)に到来(き)たり、左右(かにかく)に防障(さまたげて)、耕佃(たつく)らしむることなし。是に、麻多智、大きに怒の情(こころ)を起こし、甲鎧(よろい)を着被(つ)て、自身(みずから)杖(ほこ)を執り、打殺し駈逐(おひや)らひき。乃ち、山口に至り、標(しるし)の枴(つえ)を堺の堀に置て、夜刀の神に告げていひしく、「此より上は神の地と爲すことを聽(ゆるさ)む。此より下は人の田と作(な)すべし。今より後、吾、神の祝(はふり)と為りて、永代(とこしえ)に敬(うやま)ひ祭らむ。冀(ねが)はくは、な祟(たた)りそ、な恨みそ」といひて、社を設けて、初めて祭りき・・・。
(引用者注:常陸の風土記の一部について、岩波文庫「風土記」で補った)

このヤツノカミには蛇という注釈があるが、前後の状況から推して、縄文人と考えることができる。そして縄文人の住む山地と弥生人の住む平地とのあいだの山口に社をつくった、というのである。神社の成立を知る一つの話である。

(引用終わり)

 常陸国風土記には「夜刀の神」について「俗にいふ、蛇を謂ひて夜刀の神と爲す。その形、蛇の身にして頭に角あり。・・・」と註が付されているので、一般には「夜刀の神」は蛇とみなされ、人間が自然を開墾する際の摩擦、あるいはその後の住み分けの話のように考えられているようです。
 
 常陸国風土記には、この後に、後の時代のもう一つの「夜刀の神」の話が載っています。

(引用開始)
其の後、難波の長柄の豊前の大宮に天の下知らしめしし天皇の世に至りて、壬生連麻呂、初めて其の谷を占めて、池の堤を築かしめき。時に夜刀の神、池の辺の椎の樹に昇り集ひ、時を経れども去らざりき。ここに麻呂、声を挙げて大に言ひしく、「此の池を修めしむるゆゑは、民を活かすにあり、何の神、誰の祇ぞも、風化(ことむけ)に従はざる」といひて、すなわち役の民に令して曰ひしく、「目に見ゆる雑の物、魚蟲の類は、憚り懼るる所無く、隨盡に打ち殺せ」と言ひ了れば、応時、神蛇、避け隠れき。いわゆる其の池は、今椎の井と號く。池の面に椎の株ありて、清き泉の出づる所なれば、井を取りて池に名づく。
『風土記』武田祐吉編 岩波文庫 p.59
(引用終わり)

「長柄の豊前の大宮に天の下知らしめしし天皇」というのは孝徳天皇だそうです。

 私は、『鎮守の森は甦る-社叢学事始』の「神社の成立を知る一つの話である」という部分に大変興味を覚え、行方市(合併前の行方郡玉造町)の泉というところに、この「椎の井」と伝えられている場所があると聞いて、是非行ってみたいと思っていました。
多摩地区ではもう少なくなってしまった、風景が広がっていました。

 
             <椎の井>                     <壬生連麻呂の像>

     
       <湧出量も豊富>                  <底の砂が湧き踊る>

      
            <泉の上に愛宕神社があり椎の大木がそびえる>

この辺りには、中世の居館跡など興味深い史跡があり、後日もうすこし紹介してみます。
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